第2話「付き合ってください!」
「お疲れー」
「お疲れ様です」
落ち着け松本杏里。目の前にいるのは長年のフォロワーで、美味しそうにビールを飲んでいる姿に見惚れてはいけない。
心の中で念仏のように唱えながら、杏里は梅酒ソーダの入ったグラスを傾ける。
昼間、インタビューは何とかなった。混乱している杏里をフォローするように、ユキがリードしながら話を進めてくれたのだ。
砂川と会社に戻り、元々の担当者から涙ながらに感謝をされている頃、ケンケンからDMが届いた。
今日の夜此処に来て!というメッセージと共に送られてきた半個室居酒屋のURL。
米倉と言えば分かるからと言われた通り、仕事を終えて店に来れば、先に待っていたユキがひらりと手を振ってくれたのは十分程前の事。
「あの…」
「あ、改めまして米倉健斗と言います。流石にあの名前で呼ばれるとさ、バレたら大変だから本名でお願いします」
「あ、はい…」
聞きたい事は沢山ある。どうして「おにぎり」であると気付いたのか。何故ユキがケンケンのアカウントを持っているのか。どういう事なのか問い詰めたいが、目の前でメニューを見ている健斗は何を食べるか考える事に夢中になっているらしい。
「砂肝炒めあるよ。食べる?好きだったよね」
「いただきます…」
以前砂肝にハマったばかりの頃SNSに書き込んでいた記憶はある。学校帰りに焼き鳥屋に寄ってほぼ毎日のように食べていたのだ。
「あとは…枝豆食べて良い?」
「どうぞ…」
あれもこれもとピックアップすると、健斗は慣れた手つきで注文用のタブレットを操作する。きっとお腹が空いているのだろうと諦め、杏里はまたグラスを傾けた。
「おにぎりは?何食べる?」
「あの…外でおにぎりはちょっと…」
「それもそっか。じゃあ杏里ちゃんで」
「は!?」
「アンちゃんとかの方が良い?」
やめろとぶんぶん首を振ると、健斗はけらけらと笑う。遊ばれていると微妙な気分になりながら、杏里は出し巻き卵を注文して背筋を伸ばした。
「色々聞きたいんですけど」
「何?」
「どうして私がおにぎりだって分かったんですか?」
「ああ…」
にんまりと笑うと、健斗はちょいと杏里のスマホを指差した。
伏せられたスマホは雪の結晶模様のケースに入っている。
「それ、おにぎりの自作でしょ?」
スマホを買い換えた頃、気に入ったケースが無いからと自作した事をSNSに書き込んだ。大好きなユキをイメージした!と写真付きでアップしたのだが、確かあの時もケンケンが反応をくれた事を思い出した。
「スマホリングは俺の公式グッズ。さっき仕事中にスマホ置いたの見えたからさ」
スマホを出したのは、万が一ボイスレコーダーの録音が失敗していた時の保険だった。以前録音した音声が聞き取りにくかった事があってから、念の為と用意するようになったのだ。
「よくそれで突っ込んできましたね」
「賭けだったけどね。間違ってなくて良かった」
へらりと笑った健斗は、照れ臭そうに笑いながらビールのグラスを弄ぶ。撮影の時にも嵌めていた指輪をぼうっと見つめながら、杏里は口をもごもごと動かした。
「ずっと会いたかったんだよね。上京してから結構経ったけど、結構忙しくて…それに、杏里ちゃん彼氏いたし」
彼氏、という言葉に胸が締め付けられる。
杏里には社会人になってすぐに付き合い始めた恋人がいた。結婚前提の同棲もしていたのだが、二か月程前に別れたばかりだ。
「別れたって言ってたから、誘うなら今かなーって」
確かにそれもSNSで呟いた。詳しい事は省いたが、別れました!とだけ書いた投稿に、ケンケンは心配して返事をくれたのだ。
「もう大丈夫そう?暫く元気無かったじゃん」
「そ、う…だね、うん。大丈夫。もう引っ越しも済ませたし」
元恋人は、会社の後輩を妊娠させてしまったから、責任を取って結婚すると言って家を出て行った。
結婚前提だからとお互いの両親に挨拶をしていたし、元恋人の両親は杏里を気に入ってくれていたのか、よく顔を出しに行っていた。早くお嫁においでと言われていたし、息子が申し訳ありませんでしたと涙ながらに謝りに来てくれた程だ。
結納をしていたわけでもないし、プロポーズもまだだったが、元恋人の両親は引っ越し資金にと分厚い封筒を渡してくれた。貰えないと断ったのだが、この先この家に住むのは辛いでしょう?と言われては、受け取るしか無かった。
「結婚前に分かって良かったよ。まあ…結婚は若干諦めてるけど」
付き合い始めた頃はまだ若かった。だが別れた今は二十九歳。地元の友人は結婚して子育てをしている子が殆どだった。
まだこれからだと同じ歳の同期社員は言ってくれているのだが、婚活に勤しんでいる彼女も「もう少し若い子が良い」と言われるようになったとボヤいていた事を思い出した。
「お父さんが見合いしろってうるさくてさ…断ってるんだけどしつこいんだよね」
「女の子って大変だなぁ」
呑気な声を出した健斗を見て、杏里はふと気付く。
ユキが相手だと思うと緊張していたのに、目の前でビールを飲み干した男がケンケンという名の長年のフォロワーだと思うと、いつものやり取りのようにスラスラと話す事が出来る。
恐らく撮影の時とは違い、前髪を降ろして顔の殆どを隠しているというのも理由の一つなのだろう。
「地元田舎だからさー。三十になっても相手がいないなら見合い!って騒いでるよ」
「今時の三十歳とか全然若いのにねぇ」
酒を追加で頼みたいのか、健斗はまたタブレットを手に相槌を打つ。杏里のグラスはまだ半分残っており、グラスについた水滴を指先で拭う。
「お待たせしましたー」
あまりやる気の無さそうな若い店員が、注文した食事を運んできたらしい。下げられていた暖簾を上げ、次々とテーブルに食事を置くと、さっさと暖簾を戻して去っていった。
「お、出し巻き美味しそう!」
嬉しそうに微笑みながら、健斗は割りばしと取り皿を杏里に差し出す。元恋人はこんな事しなかったなとぼんやり考えたが、考えても無駄な事を考えてしまうのは良くないと、大好きな砂肝炒めに箸を伸ばした。
「杏里ちゃんって誕生日いつだっけ?」
「十二月。あと三ヶ月で三十路ですわ」
「んじゃ、それまでに結婚相手見つけないとお見合いさせられるわけだ?」
枝豆を食べながら、健斗はちらりと杏里の顔を見る。げんなりとした顔で頷くが、あと三ヶ月で結婚相手を見つけるなんて無理な話だ。
見つからなければお見合い。父は既に目星をつけているらしく、会社の若い社員を連れてくる気でいると先日母から聞いた。
「じゃあ、俺立候補する」
「うっ」
何を言いだすのだと驚いた拍子に、砂肝を食べていた杏里は口の中を噛んだ。痛みに顔を歪め、うっすらと涙目になりながら健斗を見ると、「大丈夫?」と心配そうに眉尻を下げていた。
「冗談…」
「昔さ、杏里ちゃんが初めての彼氏と別れた時の事覚えてる?」
「なんだっけ…」
健斗が言うに、初めての彼氏とたった三ヶ月で別れた頃、年上の従姉が結婚した。式にも呼ばれたのだが、ドレス姿を見て「結婚出来る気がしない」と思ったのだ。それをSNSで呟き、ケンケンがそれに反応してくれた。
「お互い三十歳になっても結婚してなかったら貰ってくれって言ったの、杏里ちゃんでしょ」
「…言った気がする」
—俺も結婚出来る気しない
そう返してきたケンケンに、杏里は冗談のつもりで返したのだ。
—お互い三十歳になっても独り身だったら嫁に貰ってね
言った。そういえばそんなやりとりをした。冗談のつもりだったし、今まですっかり忘れていたが、言われて思い出すと何を言っているのだと頭を抱えたくなる。
「俺も独身だし、彼女もいない。丁度良いと思わない?」
「いや、ちょっと待って…状況についていけない」
頭を抱え、左手を健斗に向かって掌を突き出す。えっと?と呟き何とか情況を整理しようとするのだが、上手く情報を処理する事が出来なかった。
「あ、出し巻き美味しいよ。冷める前に食べなよ」
「呑気なやつめ…」
もごもごと口を動かしている健斗が何を考えているのか分からない。
数時間前はあんなに格好良くポーズを決める「ユキ」だった筈なのに、美味しそうに出し巻き卵を頬張っている今はどこにでもいそうな男にしか見えない。
「口元、卵付いてる」
「え、恥ずかし」
お手拭きで口元を拭うと、健斗は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
この人がユキ?本当に?と先程から同じ事を考えているのだが、どうにもしっくりこない。
前髪の隙間から見える顔は、MVで何度も眺めている。見慣れた推しの顔の筈なのに、頭が付いて行かなかった。
「新曲さー、聞いてくれたんでしょ?」
「え?ああ…ファンの義務だから」
「義務って!」
けらけらと笑う健斗は、ひとしきり笑って落ち着くと、新曲の歌詞について話し出す。
あれは自分の恋を歌っているのだと。
顔も名前も知らない女の子に恋をした。いつまでも抱えた初恋を忘れる事が出来ず、自信を持つ事が出来たら迎えに行くという約束に縋って生きて来た。
「やっと自信持てたから、迎えに来たんだ」
「…ごめん、情報量が多すぎる」
「えー?まああれだ。結婚前提に付き合ってくださいってやつ」
さらりと言われた言葉に、杏里は再び動きを止めた。
付き合ってくださいと言われたのは何年ぶりだろう。別れたばかりの元恋人から言われたのが最後だったが、もう随分と昔の話。
「待って」
いくらSNS上で仲良くしていても、健斗に会ったのは今日が初めてだ。まして、健斗が大好きなユキである事を知ってしまっている。
相手は今大人気のアーティスト、そして自分はただの会社員。
釣り合わない。
「ごめん無理!」
「何で?!」
断られると思っていなかったのか、健斗は箸を置いて固まっている。
何故と言われても、釣り合う気がしないのだから仕方が無い。
「え、ユキ好きだって…」
ユキに付き合ってくれと言われたら断らないとでも思っていたのだろう。だが、それはファンとして好きなのであって、付き合うだとか、恋愛感情を持っているわけではない。
「遊園地デートしたいとか書いてた!」
「MV見て大興奮の結果そんな書き込みはしましたけれども!」
昨年配信されたMVで、ユキが遊園地で歌っているものがあった。「遊園地デート…したいっすねぇ…」なんて書き込みは確かにしたのだが、絶対に有り得ない事だと思っているからこその呟きだったのだ。
「色々言いたい事はあるんだけど…お付き合いはちょっと…」
「欠片も可能性無い感じ?俺がユキって事を忘れても無理?米倉健斗として付き合うんでも無理?!」
縋る様な目を向け、両手を組んでお願いポーズをする健斗から視線を逸らし、杏里は小さく唸る。
ユキと付き合うのは絶対に無理だが、健斗が普通の会社員だったのなら、可能性はゼロでは無いかもしれない。
何より、あと三ヶ月で結婚相手を見つけなければ父にお見合いに引き摺られる事になる。それは避けたいが、お見合いを回避したいからという理由で健斗と付き合うのは何だか申し訳ないような気がした。
「お見合い回避するためって理由でも良いから!」
「それで良いのかい…」
「チャンスが欲しいんだよ。駄目?欠片もチャンス無いなら諦めるから…でも友達では居てほしいです」
お願い!と顔の前で両手を合わせる健斗に、どう言葉を返せば良いのだろう。何故こんなにも必死に交際を迫られているのか全く理解が出来ないが、今この場で「無理」と一蹴するのも気が引けた。
お付き合いは今の所考えられない。
考えられないが、一蹴するのも何だか申し訳ない。
どうしようと考えながら、杏里は出し巻き卵に手を伸ばした。
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