推しと恋愛してみたら

高宮咲

第1話「初めまして」

推し。それは人生を彩る素晴らしき存在。毎日電車に揺られて出勤するのも、推しの曲を聞きながらならば堪えられる。

仕事をして稼いだ金は、推し活に費やされる。ただの会社員が稼いだ金など大した金額ではないのだが、少しでも「応援しているよ」という気持ちを込めて推しのグッズ等に貢いでいる。


—迎えに来たよ


耳に嵌めたイヤホンから流れてくる、大好きなアーティストの新曲。日付が変わると同時に配信されたこの曲は、誰かを迎えに行く男性の話を曲にしたらしい。


大好きなアーティスト、ユキ。デビュー前はインターネット上で自作の音楽を投稿して活動していたのだが、今は武道館を満員にする程の人気、最近はタイアップ曲も増え、ターミナル駅の前には巨大な看板も設置されるようになった。


有名になるより前からずっと大好きだった。まだ比較的チケットが取れる頃に一度だけライブにも行ったのだが、今はもう行けそうにない。


「この先電車が揺れますのでご注意ください…」


車内アナウンスが揺れると注意を促すと、言葉の通り電車が大きく揺れた。もうすっかり慣れてしまった揺れだが、今日は背中を押す男性の大きなリュックのせいで、扉のガラスに額を打ち付けた。


ゴンと鈍い音をさせ、ファンデーションが窓ガラスについてしまうと流石に恥ずかしい。ぎゅっと目を閉じ、耳に届くユキの声に集中して息を吐いた。


満員電車なんだからリュックは抱えてくれ頼むから!


心の叫びは、背後でスマホを弄っている男性に届く事は無い。代わりに、昔から使っているSNSに呟いた。

おにぎりというハンドルネームのアカウントは、もう十年程使っているだろうか。ケンケンという名前のよく話をするフォロワーから「頑張れ社畜」とリプライが来たところで、電車は次の駅へ到着するとアナウンスが流れた。


また人の波が電車の扉に向けて動く。自分が降りるのはまだ先の駅。一度ホームに降りようとスマホを落とさぬよう握った瞬間、先程まで背後でリュックを背負っていた男性に思い切り押されてつんのめった。


「邪魔だな…」


ぼそりと呟かれたが、言い返す気力も無い。ユキの新曲のおかげで何とか心の平穏を保ってはいるが、「靴紐ちぎれろ」と呪いたい気分にはなっていた。


◆◆◆


「すまん松本!助かる!」


パンと渇いた音と共に、顔の前で両手を合わせる男が深々と頭を下げた。

松本杏里と名前の書かれたネームプレートを首に下げた年下の後輩にこんなに深々と頭を下げるなんてと申し訳なくなりながら、杏里は「いえいえ」と返しながらオロオロするしかなかった。


「砂川さん、頭上げてくださいよ…見られてますから」


都内のスタジオに来るようにと連絡を受け、杏里は出社せずそのままスタジオに来ていた。どうやら他の沿線で人身事故が起こり、砂川と一緒に来る筈だった担当者が来られなくなったそうだ。

困り果てた砂川が連絡を寄越し、それを受けた杏里はこれから手伝いをする事になるらしい。


「自分の仕事もあっただろうに…」

「急ぎの仕事は無いですから。それに、砂川さんのお願いを断る事は出来ません!」


砂川秀介と書かれたネームプレートを下げた男性は、杏里が入社したばかりの頃教育係をしてくれた先輩だ。

容姿端麗、スタイルも良く、何故モデルをやらないのかと言われる程の容姿の持ち主。仕事も出来るし、物腰も柔らかく、女性人気も高い。

普段困った事があればすぐに助けてくれるし、仕事終わりに呑みに行ったりもする。そんな人から「助けてくれないか」と連絡が来たのなら、断るわけにはいかなかった。


「何をすれば良いですか?」

「撮影が終わったら、俺は撮影データの確認とか、編集の指示をする事になってる。その間、松本はモデルにインタビューしておいてくれ」

「はあ…やった事無いんですけど」

「インタビューの内容は簡単に決めてある。これが資料で、こっちがボイレコ…」


持っていた紙袋からあれこれ出す砂川は、珍しく焦っているらしい。杏里はなるべく急いで駆け付けたつもりなのだが、予定よりも送れているのかもしれない。


「資料は撮影中にざっと見ておきますね」

「頼んだ」

「因みに今日のモデルさんって…」


誰ですか?

そう続けようとした杏里の言葉より先に、スタジオの扉が開いた。待っていたスタッフたちが口々に「おはようございます」と声を上げ、杏里も入って来た人物に視線を向けた。


猫のようなアーモンドアイ、ゆったりと上がった口角。何度も見た大好きな姿。


「ユキです。今日はよろしくお願いします」


にっこりと微笑み、ユキはきょろきょろとスタジオ内を見回している。


「ヒュッ…」


心臓が煩い。今にも口から飛び出してきそうな程煩い心臓を落ち着かせようと、杏里は深呼吸を繰り返す。

目の前に大好きなユキがいる。どうしてユキがいるのかだとか、どうすれば良いのかだとか、考える事は色々ある。

一先ず社会人として挨拶は必須という砂川からの教えを果たさなければと、鞄から名刺入れを取り出す。


「落ち着け…仕事、これは仕事…」


ブツブツと呟く杏里を置いて歩き出してしまった砂川を追いかけたが、足元がよろめいてしまった場面を誰にも見られていない事を祈った。


◆◆◆


杏里の職場は出版社。ファッション誌を担当しているのだが、本当は小説を担当したかった。何故か配属先がファッション誌担当部署になってしまった時は頭を抱えたが、あまり興味の無かった世界を知るのは楽しい。


最近先輩に連れられて撮影スタジオに顔を出す事も増えたが、まさか大好きなユキと仕事をする事になるとは思わなかった。


「落ち着け…落ち着くんだ私」


ブツブツと呟くのは今日何度目なのだろう。撮影を眺めている間、杏里はスタジオの端でぼうっとユキを眺めていた。

照れ臭そうに笑ったり、ポーズを決めている姿を見ている間なんとか真顔を保っていたのだが、心の中では半狂乱だった。


何度か此方に視線が向いているような気がしたが、きっと気のせいだと自分に言い聞かせ、そろそろ撮影も終わるだろうというタイミングで一度撮影スタジオを出て廊下の自動販売機に飲み物を買いに出た。


以前ユキがネット上の配信中に「コーヒーって苦手なんだよね。紅茶派なんだー」なんて話をしていた事を思い出し、杏里の手には冷えたミルクティーが握られている。


すぐに戻らなければいけないのに、これからユキと膝を付き合わせて話をしなければならない。そう考えると、一旦落ち着く時間が欲しかった。飲み物を買ってかれこれ五分程自動販売機に縋りついているのだが、いい加減戻らなければならない。


「仕事!これは仕事なんだから!ファンとかそういうのは忘れる!」


パンと気合を入れるように左手で自分の頬を叩き、杏里は先程出て来たばかりのスタジオへ戻った。

丁度撮影が終わったところなのか、ユキは砂川に促され、片隅に置かれている椅子に腰かける所だった。


「すまん、松本。あとは頼む」

「頑張ります」


疲れたのか、ユキは深く息を吐き椅子の背凭れに体を預けている。なかなか見られない姿だと胸が苦しくなったが、それを押し隠してユキの元へ歩み寄った。


「撮影お疲れ様でした、ユキさん」

「あ、どうも…お疲れ様です」

「インタビューを担当させていただきます、松本と申します」


ぺこりと頭を下げ、杏里はミルクティーと共に名刺を差し出す。受け取ったユキはありがとうございますとにっこり微笑んでくれた。


「わ、嬉しいなあ。俺コーヒーってちょっと苦手で…」


知ってます!

心の杏里はそう叫んでいるが、現実の杏里はにっこり微笑むだけだ。これは仕事、社会人らしくしなければと必死で取り繕いながら、傍らのテーブルに資料やボイスレコーダー、スマホを置いた。


「こういう時って大体コーヒーじゃないですか。頑張って飲むんですけど、いつも飲み切れなくて…」

「以前コーヒーが苦手とお話になっていたと聞いた事がありましたので…」

「そうだったんですね。ありがたいです」


杏里が向かい側の席に腰を掛けると、いただきますと一言付け足し、ユキは渡されたばかりのミルクティーを開けてぐびぐびと飲んだ。ライトに照らされて暑かったのだろう。


「新曲配信、おめでとうございます」


インタビューを始める前に、少し世間話をすると良いと以前先輩から聞いた。自分の緊張を解すのにも良いだろうと考え、杏里は今朝も聞いていた曲の話を振る。


「ありがとうございます!結構自信作なんですよ」


ニコニコと微笑んでいるユキは、嬉しそうに曲の話をしてくれた。

MV撮影も楽しかったし、配信は来週の予定だが今からファンの反応が楽しみだと話すユキは、本当に音楽を作るのが楽しいのだと続けた。


「私も聞きました。配信始まってすぐにDLして、今朝も聞いて…」

「わあ、嬉しいなぁ。MVの配信も楽しみにしててくださいね」


来週日曜の二十時からですよね!!

そう言いたいのを必死で堪え、杏里は資料を手にする。撮影前にユキにも同じものが渡されたようで、簡単なアンケートにも答えてもらえているようだ。

今日のインタビューは資料を見ながら、話の深堀をしていけば良いらしい。これなら何とかなりそうだ。


「あの、聞いても良いですか?」

「はい、何でしょう?」


そろそろインタビューをとボイスレコーダーを手にした杏里は、おずおずと声を掛けてきたユキの前で動きを止める。

資料に何か不備でもあっただろうかと不安になったが、どうやら違うらしい。


「おでこ、大丈夫?」


トントンと自分のおでこを突いているユキの言葉の意味が分からない。まさか朝ぶつけたところが赤くなっているのだろうかと杏里も自分のおでこに触れたが、少し前お手洗いに行った時に確認している。何ともなっていなかった筈だ。


「押されてぶつけたって言ってたから」

「あの…」


朝の電車内で押された事は本当だが、ユキにそんな話をしただろうか。何故知っているのだろうと身構えている杏里に、ユキは自分のスマホを取り出して何やら操作をし始めた。


「先週はヒール折れたって言ってたし、新しい靴慣れてなくて靴擦れしたとか…今日は平気?」


つらつらと並べ立てる言葉に憶えはしっかりある。

先週の月曜は朝からヒールが折れてしまい、昼休みに適当にパンプスを購入したのだが、足に合わなかったのか踵が靴擦れで酷い事になったとSNSに書き込んだ。


何故ユキがそんな事を知っているのだろう。どうして?と顔に出ていたのか、ユキはにんまりと笑いながらスマホを差し出した。


「初めまして、おにぎりさん」


差し出されたスマホの画面には、SNSのプロフィール画面が表示されている。

見慣れたアイコンとハンドルネーム。誰のものなのか分かった瞬間、杏里は目の前でにっこりと微笑んでいるユキの顔を凝視した。


「ケンケン…?」

「どーも、ケンケンでぇす」


ふざけたように開いた両手を顔の横に持ち上げ体を傾け、ユキはひらひらと手を振った。

情況が分からない。朝からイレギュラーな事が起こりすぎて頭が付いて行かなかった。

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