第10章 とろろ蕎麦が羨ましい俺

 月曜朝、俺は事務所に向かうべく家を出た。


 どうやら今日は梅雨の中休みのようで、ジリジリと暑い太陽が首筋を焼く。空は雲1つない快晴だ。俺は朝飯を食べながら見た今日のニュースを思い出した。『2018年夏は記録的な猛暑!?梅雨明けは早い見込み』


 樫尾が退院早々この暑さにやられなければいいが、と俺は思った。先週の金曜は、退院の手続きやら荷物持ちやら、樫尾にさんざんこき使われた。久々にゆっくり土日を過ごせたのは良かったが、どうせ今日は『謹慎中のぶんを取り戻せ』とか言われて、酷使されるんだろう。師匠と一緒にぶんどったデータを手土産に、機嫌取りでもするか。


 事務所前に玲サンが見えたので、俺は思わず玲サン、と声をかけた。玲サンはいつも通り感情の伺いしれない笑みを俺に向けた。


「双くん。おはよう」


「おはようございます」


 玲サンは少し俺に近づいて囁いた。


「今日のお昼、空いてる? 土日に、弁護士の先生にお話聞いてきたの」


「空いてます。ちょうど俺も、少し進展あったんで話しますね」


「ありがとう」


 玲サンはそう言い、ロッカールームに入っていった。俺はロッカーに置くほどの物はないので、そのまま樫尾の所に向かった。


「はよーございまーす」


「おお、双か。おはよう」


 樫尾は金曜日に見た時よりむしろ元気そうにしていた。小さな菓子折りが樫尾の机に置かれている。誰かしら退院祝いに来たらしい。


 俺は自分の机の前に立った。おそらくミオからであろう安物の菓子類が俺の机に山を作っている。俺は適当に菓子をどけ、机から溢れた菓子は引き出しに放り込んだ。サルがおっかなびっくりこちらに視線を送るので、俺は一応挨拶した。サルは「お勤めご苦労様です」とムショ帰りの時みたいな挨拶をした。


 サルに山本亜子について聞くのはいつにしようか、と俺は思った。でも、とりあえずは玲サンの話を聞いてからにするかと思い、俺はそのまま席についた。


 午前中は手土産の個人情報データをまとめる作業に費やし、俺は昼になる前に樫尾にデータを提出した。樫尾は面食らって言った。


「お前、どこからこんな量の情報抜いたんだ?」


「あー、その、実は師匠とこないだ通話してそれで……」


 樫尾は合点がいったというように頷いた。


「そう言えば、先週電話してたな。お、おいまさか、こないだの情報漏洩のニュースって……」


「……ただの偶然ですよ」


 ということに、しておく。


 樫尾は腑に落ちない様子だったが、はたと表情を変えた。


「ああ、そうだ。双、ミオのやつから連絡ないか?実は先週の土曜、来るはずの日だったのに来てなくてな。今日も来ないし」


「へ? いや……来てないっすけど」


 ミオからのメッセージは先週の火曜に寿司を食べたあと、ミオが送ってきた『今日はアリガト!!』としゃべっているカナリアのスタンプで止まったままだ。


「そうか。もし連絡来たら教えてくれ」


「へーい」


 俺は適当に返事をした。ミオが連絡もなしに休むことは珍しいが、全く無いわけではない。その理由として最も多いのは恋人との破局、次いで多いのは重い生理だ。今回もおそらくそのどっちかだろうと俺は思った。例の、Hの時に首を絞める彼氏との折り合いが悪くなったのかもしれない。後でラインしとくか。


 昼になり、俺は玲サンと目配せして席を立った。俺らは念のため、事務所連中が来なそうな少し離れた蕎麦屋に足を伸ばした。


 強い日差しを避けて冷房の効いた店内に逃げ込み、奥の方の座敷に座ると、俺たちは出された緑茶をめいめいに飲んだ。俺は『今月イチオシ!!』と筆文字で書かれていたきすの天ぷら蕎麦、玲サンはとろろ蕎麦を頼んだ。外を歩いたせいで暑くて仕方なかったので、もちろん二人とも冷たいざる蕎麦だ。


 玲サンは緑茶でもう一度喉を潤してから、口を開いた。


「今日は来てくれてありがとう。まずは、双くんの話を聞かせてもらえるかしら」


「はあ。別に、劇的な進展があったって訳じゃないんですけど──」


 俺は、師匠と通話して、ハッキングの方法を聞いたことをかいつまんで話した。ハッキングの手法なんかのややこしい話はできるだけ簡単に流した。ハッカー相手ではないのだから、専門的な話はどうでもいい。


「それで、いくつか玲サンに聞きたいんですけど……山本亜子がいる詐欺グループには、監視カメラとかあります?」


「確か、あったと思うわ。私は触ってないから、パスワードまでは分からないけれど」


「大丈夫です、そのへんはこっちでなんとかするんで。あと、詐欺グループのフィッシングサイトとか、Webサイトってありました?」


 玲サンはすぐに頷いた。


「それだったらURLまでわかる。後で送るわね」


「ホントですか! ありがたいっす」


「一応、テレグラムの方に送っていいかしら?双くんの連絡先、教えてもらえる?」


 そう言えば、玲サンとはメールでしかやり取りしていなかった。迂闊だったなと俺は思った。今までのやり取りだって、核心には触れてないにせよ、秘匿性を高くしといた方が良さそうな事柄は含まれている。俺は玲サンにテレグラムの連絡先を教え、これからのやり取りはテレグラムの方でしたいと申し出た。玲サンは快く了承し、玲サンもテレグラムのアカウントを教えてくれた。


 よし、と俺は思った。これでハッキングに必要な事前情報はだいたい集まった。玲サンは少し間をおいて言った。


「そうだ、前の詐欺グループのことを詳しく教えてほしいってメールも貰ってたわね。返信が遅くなっていてごめんなさい」


「いえいえ!俺こそ、色々お願いしてすいません。」


「もともと私が双くんに一方的に頼んでることなんだから、構わないわ」


「ありがとうございます。あ、それと……」


 俺は少し声を潜めた。


「俺がざっくり調べた感じでは、山本亜子は偽名っぽい感じするんですよね。玲サン、山本亜子の本名、分かったりします?」


 玲サンは緑茶を飲み、考えてから囁いた。


「私がいた頃の詐欺グループの住所と、電話番号はわかるわ。ただ、山本亜子の本名については私も分からないの。私が思うに、同じグループのメンバーは誰も知らなかったと思うわ。あの女はかなり用心深かった」


「分かりました。住所と電話番号も後で送ってもらってもいいですか」


「もちろん」


 ここで唐突に玲サンのとろろ蕎麦が運ばれてきたので、俺はびくりとした。後ろから来ていたので全く分からなかった。声を潜めといて良かったと、俺は胸を撫で下ろした。


「お先にどうぞ。温くなっちゃうと美味しくないですし」


「ありがとう。そしたら頂くわ。私の話は、食べ終わってからにしましょう」


 俺はとろろを纏った蕎麦が玲サンの口に消えるのをじっと見つめた。いいな……吸ってくれないかな……と、とろろ蕎麦に羨望の気持ちを抱いている自分に気づき、ドン引きした。うわ、俺キモっ。


 気を取り直し(切り替えの早さも俺の長所の一つだ)、俺は玲サンの口紅を鑑賞する。事務所に来るときは、玲サンの口紅はいつも控えめな淡いオレンジだ。こないだ夕食を共にしたときはどうだったか、と俺は思いを巡らせた。確かワインレッドだったと思う。飲んでいたキティと色がそっくりだった。


 玲サンは、俺の視線を特に気にすることもなくそのまま食べ続けた。意味のない沈黙が流れる。


 俺の蕎麦も、そんなに待つことはなく運ばれてきた。鱚の天ぷらはふわふわとした口当たりで蕎麦によく合った。


 食べ終えて一服した所で、玲サンに話を促す。昼休みは有限だ。できるだけさっさと済ませた方がいい。玲サンは頷いて話し出した。


「簡潔に言うわね。私は弁護士の知り合いから、双くんに取ってきてほしい情報を聞き出してきたわ。双くんに調べてほしいことは2種類」


 玲サンは二本、俺に向かって指を立てた。


「まず一種類めは、山本亜子の詐欺罪を立証するに足る証拠。電話の録音とか、メールでのやり取り、WebサイトのURL、使用していた銀行口座なんかがこれに当たるわ。だけど、特に双くんには、メールでのやり取りとか、SNSのやり取りみたいな、指示したことがわかる証拠を取ってほしいの。……指示役である山本亜子の有罪を立証するには、『共謀』の有無が重要だから」


「なるほど。メモ取ってもいいですか?」


「メモはテレグラムにして。テストがてら私のアカウントに送ってちょうだい」


「分かりました」


 さすが玲サン。確かに、紙のメモは危険だ。樫尾に見つかりでもしたら目も当てられない。


 俺は気になったことを質問した。


「玲サンは、指示された証拠とか、持ってないんすか?」


「それが、無いのよ。仕事をするとき、あの女は私と同じ部屋にいることが多かったから、指示は全部、口頭でされてた。使った書類も、使い終わったら基本シュレッダーだったわね。なんとか、使ってた個人情報リストを一部だけ、辞める時に持ち出せたけど」


「なるほど」俺は頷く。


「もう一種類は、山本亜子の本名や現住所、電話番号などの個人情報」


「ちょ──ちょっと、待ってください。詐欺の証拠、Webサイトは分かってるからいいとしても、その他の情報はいいんすか?ほら、電話の録音だとか、口座だとか」


 俺は慌てて口を挟む。玲サンは首を振った。


「架け子を実際にやっていた私の証言と、さっき言ったリストがあれば、録音は必要ないわ。個人情報リストの内容をチェックしたら、息子が立ち上げた被害者の会、あれに入ってた人の名前がちらほらあった。事実確認すればすぐ分かるでしょう」


 玲サンは口許を自嘲的にゆるめた。


「私が自首したら、あの人たちは大変な騒ぎになるでしょうね。被害者の会を立ち上げた張本人の、実の母が犯人の一味だったんだから」


「…」


 俺はそれには答えず、とりあえず間を持たせるために緑茶をあおった。レジにいる店員が手持ちぶさたにちらりとこちらを見る。玲サンは話を続けた。


「口座については、フィッシングサイトに口座番号が載ってるわ。そうだ、口座の出入金履歴は、もしできるなら欲しいわね。一応、私も証拠の通帳を一つは手元に持ってるけど、例の、嫁の祖母の一件分しかないから」


 え? どういうことだ? 少し考えて、俺はハッとした。そうか、嫁の祖母の通帳!玲サンが確保してあるのか。


「よく、貸してくれましたね」


「そこはほら、長年詐欺してきた恩恵ね。私は今の所は、ただの悲運な未亡人よ。あの天然なお嫁さんなら、涙ひとつで落ちたわ。息子の遺志をついで、貴女の祖母の仇を討ちたいっていう私の言葉を、微塵も疑わなかった」


「さすが」俺はにやりとする。


「そういうこと。分かった?」


「分かりました」


「そしたら、次ね。もう一種類は山本亜子の本名、現住所、電話番号。あの女に関係するものなら何でもいいわ」


「ふんふん、了解です」


「以上よ。何か聞きたいこととかある?」


 俺は今しかないと思い、ストレートに聞いた。


「山本亜子の個人情報、何に使う気なんすか?」


「何に使うと思う?」


 質問で返され、うっ、と言葉に詰まる。まさか『殺す気ですか』とは、こんな白昼堂々、とても言えなかった。本当はそれを一番聞きたいのに、と自分のチキンさを呪いたくなる。玲サンは間を置いて、にべもなく言った。


「ご想像にお任せするわ。まあ、ろくでもないことよ。他にはある?」


「うーん……」


 俺はしばらく考えて、言った。


「最初の、『指示したことが分かるやり取り』ってやつ……ちょっと……キビしいかもしれないですね」


「どうして?」


「山本亜子は用心深い、って玲サンも言ってたじゃないですか。そこまで用心深いなら、やり取りはテレグラムに限ってると思うんすよ」


「……確かに、そうね」


「テレグラムのシークレットチャット使われてたらチャットは削除されてると思いますし、万一残っててもテレグラムのハッキングは難易度、オニなんですよね……どうにかなんないかなあ」


「……」


 俺は足りない頭をひねる。


「えーっと、山本亜子からチャットとかで指示を受ける可能性があるのって、どの役割のメンバーでした?」


「そうね……テキストメッセージでやり取りしてたのは、受け子や出し子が多かったんじゃないかしら。架け子はそういうやり取りはしてない。他には、携帯屋とか……」


 携帯屋というのは、詐欺行為に使う携帯を入手する役割を持つメンバーのことである。玲サンは首を振った。


「正直、曖昧にしか分からないわね……前の詐欺グループは、今の詐欺グループほど人間関係が無かったもの。受け子とか、一回限りの人も多かったし、基本、メンバー同士は会わなかった。素性も知らないことが多かったわ。例外はあったけど」


「例外?」


「架け子同士は、口頭のやり取りだったからわりと付き合いあったのよ。後は、一部の人はずっとグループにいたから、そういう人は一応知ってる」


「なるほど…」


 玲サンの話を聞き、改めて考える。受け子、出し子、携帯屋……俺もたまにテレグラムで指示受けたりするから、道具屋もそうだろうな。そこまで考えて、待てよ、と俺は思った。


 去年って俺、テレグラム、使ってたっけ?


 俺はあることを思いつき、急いでスマホのテレグラムを確認する。次いでネット検索で、テレグラムについて調べる。目当ての情報を見つけ、俺は軽く口笛を吹いた。玲サンが怪訝な顔でこちらを見る。


 やっぱりだ。俺がテレグラムを使い出したのは半年前くらい。確か樫尾からの指示だったように思う。ネットで調べた情報によると、テレグラムが日本語対応しだしたのは2017年の6月末、だいたい1年くらい前。ということは……山本亜子がテレグラムを使いだしたのも、早くてもそのあたりに違いない(山本亜子が語学に堪能でなければ、の話だが)。


「玲サン!朗報ですよ。1年以上前のやり取りなら、残ってるかもしれません」


 俺は手短に今の推理を説明した。玲サンはハッとしたように言った。


「そうだわ。確かにあの女は1年前、私が辞める少し前に、やり取りをテレグラムでするようにとグループに周知してた」


「ビンゴ、ですね」俺はパチンとわざとらしく指を鳴らした。


「でも、どうやって1年以上前のやり取りを、相手の詐欺グループのメンバーから奪うか……受け子や出し子の端末を特定するのは骨が折れそうですね。全部の端末片っ端から漁るか……」


 そう言ったところで、今度は玲サンが手を打った。


「そうだ、彼がいるじゃない。あのサル顔の」


 俺は虚をつかれた気分になった。確かにその通りだ。サルはこっちのグループに来てまだ半年くらい。1年前は余裕で玲サンたちのグループにいたはずだ。玲サンは興奮した様子で続けた。


「偶然も、ここまでくるとすごいわね。確か嫁の祖母の件で受け子したの、彼なのよ」


「そうなんですか!?」


「ええ」


「決まりですね。あいつの端末なら造作もないですよ」


 仕事用パソコンのパスワードを忘れがちなサルは、いろんな所にぺたぺたとメモを貼っている。あの様子じゃあいつのセキュリティはザルだ。ばれないようにする方法なんていくらでもある。


 玲サンは、少し考えるような顔をした後に言った。


「もし良かったら──……いや、いいわ。よろしくお願い」


 俺は何を言いかけたんだろうと気になったが、玲サンは話はおしまいというように言った。


「もう休憩が終わっちゃう。早くしないと」


 いつの間にか、伝票はするりと玲サンの手に収まっていた。


「前回は奢ってもらっちゃったし、今回は私持つわよ」


「え……でも」


「いいの、色々調べてくれたお礼」


「……ありがとうございます。……玲サンって、優しいですね」


 俺がそう言うと、玲サンはすっと無表情になった。え? 俺、なんか不味いこと言ったか? と俺が慌てていると、玲サンは「あははっ」と笑った。


 俺はちょっと驚いて、思わず玲サンをガン見した。玲サンが声を出して笑ったのを見たのは初めてかもしれない。そして、玲サンはこう言った。


「そう見えているなら、嬉しいわ」



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