17歳のはじまりと海色レモネード

瑞葉

第1話

 朝の日差しってまぶしい。こんな山間まで、平等に照らしてくれて好き。わたしは毎朝六時に起きて、我が家(客観的に見て、ボロ家ってくらいの粗末な茶色い木造の家)から徒歩二分の神社に行く。

 神社はうちの家系の管轄。交通事故で亡くなったお父さんとお母さんの代わりに、おばあちゃんとわたしと、妹の真央で守っていかなきゃならない。

 丁寧に箒で、境内を掃き清める。今この瞬間、日本中で、少なくとも「あの人」は、同じ時間に同じことをしている。

 わたしの名前は森嶋(もりしま)歌帆(うたほ)。

 十歳の妹、真央はさっき、布団をけとばして豪快に寝てた。いずれは、真央にも「このお勤め」の番がくるのかな。それとも、長女のわたしがずっと、「このお勤め」をするのかな。

 わたしは今日、十七歳の誕生日。妹とかおばあちゃんには内緒だけれど、「あの人」とカフェで放課後に会う。

 朝のお勤め(掃除)がない真央は、わたしが境内を掃き清めている三十分くらいの間に、毎朝、いつの間にか起きて、ご飯を作ってくれる。メニューは、目玉焼きに納豆、ほかほかのご飯とナスやキュウリの漬物、それから味噌汁。真央のつくってくれた味噌汁はどんなものよりもおいしい。

 朝の寒気で冷えていた体があったまっていく。わたしの中に、エネルギーが満ち溢れていく。


 一時間に一本のバスから降りると、小学校入り口で真央と別れる。真央の周りには当たり前のように、すぐに友達何人かが集まってくる。

 わたしはここから、一人きりの旅を徒歩十五分だ。でも、今はそのひとときが何より至福。

「さくら川」と言われる、春には桜並木が見事な川の橋を渡る。朱塗りの禿げた橋の欄干に寄りかかって、「あの人」がいる。

 周りには他の生徒だっているはずなのに。

 あの人を見た途端、急に体が甘く締め付けられるみたいに感じる。声を出そうとするけれど、できない。亜麻色の髪は生まれつきだとあの人は言う。もしそれが本当ならば、罪深い見た目を神様はどうして与えたのだろう。ご先祖様に外国人がいるのかもしれない。本人も知らないみたいだけれど。

 目の色も少し青みがかって見える。それでも、お父さんもお母さんも外国人ではないという。

 ――俺の親父と母さん、それで、離婚したんだよ。俺が小学校五年生の時。

(蒼くんがどこかの外国人の子どもだと思って?)

 その言葉を、口には出せなかった。重すぎるから。

 蒼(あおい)くん。その目にただ、見られているだけなのに、服が透けているかのように恥ずかしかった。

「今日も掃除したよ。うちの医院の前」

 蒼くんは拍子抜けするほどあっさり言って、わたしの隣を自然に歩く。それでわたしの魔法もとける。

 わたしと歩いてるときの蒼くんはいつも、「小春日和が当たった、わたしのうちの縁側」みたいに微笑んでいた。亜麻色の髪は三つ編みにされて、学ランのシャツとの間に入っている。

 蒼くんは隣のクラス。進学文系で、将来は英語教師を目指している。両親ともお医者さんなので、周りからは理系に進まないのがもったいないという声もあったらしい。それをガン無視しての、「英語の先生になる」夢。わたしは結構、応援している。

 中学時代はモテてたらしいけれど。

 高校に入ってから、浮いた話のひとつもなくて、二年間過ぎて。最近、わたしとこんなふうに話をし始めた。

「ただ、道で会っただけ」だった人。


 わたしたちは通りすがりの他人に過ぎなかった。九月のあの時までは。

 わたしは夏休みにした「ひどい失恋」から立ち直れなくて、二学期に入ってから毎日、泣きながらこの「さくら川」あたりを通って登校していた。

 朝のお勤めや朝ごはんの時、家を出る時だって元気なのに、真央と別れて一人の時間になったこの時だけ、ぽろぽろ涙が出るのだ。

 蒼くんはその時、スマホを見ながら誰かを待っていた。九月中旬の晴れた日だった。今にして思えば、蒼くんの待ち人は多分、親友の海人くんだった。けれど、わたしが前を通った時、この人はスマホを見るのをやめて、まっすぐな目でわたしを見据えた。

 こわい目だった。問いかける目。責めるでもなく、笑うでもなく。

「なんで、朝から泣いてるの」

 抑揚のない言い方。第一印象は「冷たい人」。

「君なんかには関係ない。わたしは失恋したんだから、話しかけないでよ」

 思い出すたびに青ざめてしまうけれど。わたしは蒼くんにひどい口調で言った後、溜まりに溜まっていた他の人(わたしを振った葉月先輩)に向けるべき怒りの八十五パーセントくらい、その時、リアルな言葉でぶつけてしまった。傍から見たら、陰湿な女が,背の高いイケメン男子に絡んでるように見えただろう。

 一通り言い終わって、はっと頭の冷えたわたしは、蒼くんの顔をもう見られない。うつむいてしまったわたしにとどめを刺すように、蒼くんは耳元でささやいた。

「毎朝、ここで待ってる。明日もその話、聴かせてくれよ」

 さらりとした言葉で蒼くんは言い捨てて、ちょうど来た海人くんとふざけ合いながら歩き出してしまった。

 遠くからわたしたちの様子をうかがっていたのか。友達の野々花(ののか)が今頃になって目の前に来て、

「蒼くんだ。歌帆。すんごいラッキー。眼福だよねー。足長くて、カッコいい」

 とまくし立ててた。

 蒼くんは次の日も、約束通り、さくら川で待っていてくれた。その次の日も。

 わたしは「別れた元カレ」の話はもうしなかった。そのかわり、頭の中が猛烈に沸騰して、「この人の前にいると恥ずかしい」という思いで胸がいっぱいで。

 毎日、黙って、さくら川のほとりを蒼くんと歩いた。

 五日間が過ぎて、蒼くんは静かに聞く。

「元カレのこと、もう言わないんだね」

「はい」

 わたしは敬語を使って、蒼くんをまっすぐ見る。

「好きな人が他にできたんです」

 蒼くんは「そうか」と静かに笑う。誰を、とかそういう野暮なことは一個も聞かなかった。

 さくら川の前での「登校前のひととき」は、九月から十月、一カ月間続いた。その間に、わたしの「朝のお勤め」の話を聞いた蒼くんは、「えらいな。じゃあ、同じ時間に、うちの母さんのやってる産婦人科の前の掃除、俺もするよ」と言ってくれた。

 そして、わたしは一昨日、蒼くんに言った。

「誕生日がもうすぐだから、祝ってほしいな」と。

 蒼くん。でも、わたしは「わたしの気持ち」を君にちゃんと言ってない。だから、君にもし、「この思い」が伝わってないなら、本当に苦しい。

 今日は誕生日会だけど、もう一つ、別の目的がある。


 蒼くんと帰り道、校門のところで待ち合わせる。穏やかな雲がすっきりした空に流れていて、日差しが暖かい午後。「青色のレモネード」が飲める店があると、蒼くんが調べてくれた。バス停を一個だけ、わたしの家側に行けば、徒歩十分で着くらしい。

 いつも乗るバスだけれど。

 地元なのに、そのバス停、「ハトの海」ではわたしは降りたことが一度もなかった。そこは海辺の岩場のような場所が間近にあって、ハトどころか、トンビが高く高く旋回している、寂しい場所。本当にこんなところにあるの、と思うけれど、蒼くんが調べてくれたんだもの。

 確かな足取りで蒼くんは狭い路地を歩く。すると、エメラルドグリーンのドアに白い壁の、おしゃれなカフェが確かにあった。蒼くんが静かにドアを押す。

 店の中からは海が見渡せる。見かけよりもずっと広くて、十人くらいのお客さんがまばらに店内でお茶を飲んだり、新聞を読んだりしている。高校生はいなそうだ。

 蒼くんとわたしは、黒い制服を着た小柄なお姉さんに案内されて、運よく窓際に座れた。窓を閉めているのに、潮の匂いがするのは気のせいかな。

「青いレモネード」だけ二つ頼んで、ふたりで海を黙って眺めている。やがて来たレモネードは、目の前の海みたいに鮮やかなブルー。見立ててるんだね。味はちゃんと甘酸っぱいレモンで。

 この時間、こういうふうに、ふたりで黙ってる時間が、わたしは決して嫌いじゃない。蒼くんは、「お誕生日おめでとう」とは今日の朝から一回も言ってない。プレゼントだって渡してはくれない。代わりに、彼自身の時間をこうやって空けてくれた。わたしを、特上のカフェに連れてきてくれた。だから。

「蒼くん、わたしね」

 わたしは恥をかいても構わない。第一印象、最悪な女だったでしょ。わかってるから。

「蒼くんをずっと、もっと独り占めしたい。十七歳は、蒼くんと過ごさなきゃ、いやだ。君にはそういうの、迷惑かもしれません。でも、君じゃなきゃいやなんだ」

 一気に早口に言って、反応を待つ。さっき、飲み干してしまったレモネードが胃の中で甘ったるくて、すごくトイレに行きたい感じ。

 下を向いてしまったわたしの顎を、蒼くんが人差し指でつんつんとした。

「だめだよ。くすぐったいよ」

 わたしが泣きそうになりながら言って蒼くんを見ると。

 青みがかったこの人の瞳に、思いがけず、涙みたいな膜がかかっているのが見えて、言葉をうしなう。

 蒼くんは、だけど、泣いたりなんかしない。

「よく言った。ようやく言わせた。俺の勝ちってことだよな」

 わたしの髪の毛をわしゃわしゃとなでて、蒼くんはいたずらっ子みたいに笑う。

「誕生日か。今度は俺の番だな。十二月だから」

 この人は力強く、先の約束を取り付けてしまう。そっか。蒼くんは二ヶ月年下なのか。

 もう少しいたかったけれど、夕暮れ時まであとちょっとしかない。すると、蒼くんがすっと伝票をとった。

「帰り、気をつけろよ。誕生日だから、俺がおごってやる。ここ、いい場所だな。また来ような」

 蒼くんは静かに言って、わたしを少し寂しそうに見てた。わたしは蒼くんの学ランの袖をぎゅっとつかむ。黒い制服を着た小柄なお姉さんがふふふと笑いながら、お会計をしてくれた。

「ありがとう。今度はわたしも出すから」

 今日は誕生日プレゼントにカウントしてもらっただけ。蒼くんはつぶやく。

「俺、バイトするかな」

 小さな声。わたしは、蒼くんが遠くに行ってしまいそうな不安感を不意に感じた。

「バイトするなら、わたしもするよ。学校前の本屋さんとかどうかな。土曜日、日曜日ならできる」

「本屋? 俺、本読まねーし。ファストフード店かな。やるなら」

 帰りのバスはお互い逆方向に乗る。バス停はひとつしかなくて、バスを待つ場所は同じだった。ふたりきりで、古くて錆びた青色のベンチに座っていた。

「でも、お前は朝のお勤めがあるだろ。あまり無理するな」

 蒼くんはちょっと機嫌悪そうに言う。ペットボトルのウーロン茶をぐいぐいと飲み干して、一メートル離れたゴミ箱に器用に放る。バスケットのシュートみたいに。綺麗な軌道を描いて、当たり前のように、ゴミ箱に入る。

「すごい」とわたしが言うと、機嫌を直したのか。にかりと笑った。

「真似するなよ。歌帆はこういうことしたら、ゴミ箱、外すから」

 歌帆、と初めて、名前で呼び捨てられた。

 ベンチに座ってるから、いつもよりも距離がずっと近いことに気づく。もじもじしているわたしを見かねてか、蒼くんは自分の肩に、わたしの頭を一瞬だけ、軽くもたれさせた。

「ど、どうしてそんなこと」

「俺がしたいから」

 蒼くんはそう言う。確かな体温。この人は遠くになんかいかない。

「歌帆、バス、来たから乗りなよ」

 蒼くんはそう言って、わたしを立たせる。山間の早い夕暮れは、もう迫っている。


 







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17歳のはじまりと海色レモネード 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

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