昨年は、毎年のように午前零時に起き出しました。

毎年のことです。


暑さに悪態をつきながら、扇風機のスイッチを押しました。

だるそうに回る扇風機の風を浴びても、大して涼しくはありません。

焼け石に水です。


私は玄関がまっすぐ見える場所に、椅子を置いて座りました。

背のない椅子なので、くつろぐことはできませんが、立っているよりはマシですから。


これも毎年のことです。


昨日がお盆じゃなければ、きっと外の虫がうるさかったでしょうね。

虫の本能か、虫の知らせか……痛いほど静かなんです。


これも毎年のことでした。


そうしてしばらく待っていると、やがてドアチェーンの隙間に影が落ちました。


その瞬間、私の心臓は動きを止めるのです。


息も鼓動も、一瞬だけ止まる。

それが恐怖だと分かるよりも先に。


しかし影は扉の前を通り去って行きました。

ドア横の曇りガラスにぼんやりとした黒を一瞬映して、そうして過ぎ去って行きました。


——良かった。


安堵と共に、に怖がっていた自分に軽蔑が浮かびます。


それも毎年のことで、私は立ち上がろうと椅子をずらしました。


その音を聞いて、やっと私は思い出したのです。


虫の音がしない事に。


いつもはね、黒い影がどこかに行った瞬間……その瞬間に、思い出したように五月蝿く鳴き出すんですよ。


でも、椅子の音が響くくらいに静かでした。


訪れたはずの安堵が、緊張に再び変わりました。


ガラスに浮かんだ、ぼんやりとした黒い影。


帰ってきたのか。


そう思いました。


あの黒い影が、帰ってきたのか。


いや、違う。


違うんです。

なんというか——民俗学を勉強していると、なんとなく“神”というものを理解できる気がするんです。


私自身が何かを信じているわけでもないけれど、長く信じられたものの温度というか色というか——独特の雰囲気は分かるんです。


でも、そうじゃない。


そんな美麗なものではない。


ドアの隙間からそいつがせり出してくるのを見ながら、そう思いました。


液体のように、ドアチェーンをすり抜けるようにそれは入ってきました。


人の形です。


ですが、人の形というにはあまりに勿体無いほどに歪んでいました。


長く信じられた“何か”は、もっと純粋で美しい空気を纏っているはずです。

少なくとも、こんなに混沌とした、醜い憎悪は纏わない。


近づいてくるそれを見ながら、私はどこか諦めていました。


もちろん怖かったです。

混乱もしていました。


でも——ええ、どこか大丈夫だと思っていました。


それは、私の頭を両の手で掴みました。



「期限までには」



それは、そう言いました。

はっきりとした口調で。


——月並みな言い回しにはなりますが、あれは一体何だったのでしょう。


掘り出された「祠」が、本当にお盆の原因だったのでしょうか。


期限——それは、何だったのでしょうか。


ですが、今ならなんとなく分かることがあります。


確実なのは、一つだけ。


あれは、昔のものではない。

もっと最近の——多分、憶測ですが——ここ十年くらいのものです。


そしてあれは、私と同じような恨み辛みを募らせたものなのでしょう。

恨み辛みを。


そして——貴方を迎えに来た私は、あの黒い人形ひとがたなのでしょう。


期限までには。


ええ、期限までには、お迎えにあがりますね。

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夢日記 二巻 灰月 薫 @haidukikaoru

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