第5話 とある夏


 ……サラブレッドか。

 突然言われても、サッカーが上手くなるわけでもない。僕は流れる風景を眺めながら物思いにふけっていた。



 八月。盆休みという名目で短い休暇が与えられた。見慣れた景色が近づき、駅名がアナウンスされる前に席を立った。不安定な新幹線の通路をふらふらと歩き、降車口でその時を待った。


 懐かしい響きの駅名がアナウンスされ、ドアが開くと、真夏のモワッとした空気に呑み込まれる。


「おかえり」改札口に母が待っていた。

「ただいま」なんだかむずがゆい。

「背、伸びたんじゃない?」

 久しぶりの母を前に、ふと噂が頭をよぎる。母の問いに「まあ」とだけ返して助手席に座った。




 夜の夏祭り。神社の境内に内ちんが腰掛けていた。幼い頃から毎日顔を合わせていた友人の姿は、僅か半年離れていただけなのに妙に愛おしく映った。「ウィッス!」反射的に手を上げ、視線の端にある違和感に焦点を合わせる。


「こいつが深ちん」

「あ、どうも」


「初めまして」

「何校?」


 内ちんの隣には二人の女性が座っていた。夏祭りの定番の浴衣姿ではなく、四人とも個性を主張した私服姿だ。僕らは風情を楽しむ余裕など持ち合わせていなかった。


「こいつはサッカー学校に行ってるんだよ」

「私の友達も行ってるよ。JRAアカデミーでしょ?」


 JRA? それは競馬だ。

 サッカーはJFA。ちなみに俺はGアカデミー。


「アルファベットが三つ並ぶと分からなくなるよね。USJとUFJも紛らわしいし」


「それいうならFFシリーズのナンバリングも混乱するよな! ⅩⅥとか言われてもすぐにいくつか分からないわ!」


 矢継ぎ早につながる会話は強豪チームのパスワークのように目まぐるしく展開されていく。攻撃こそ最大の防御。言葉を発しなければ置いていかれる。疾走感に怯えながら、僕はなんとか言葉を捻り出した。


「あの数字表記ってゲーム以外にあまり見ないよね?」


「ヴィトンのロゴみたいなやつ?」

 予期せぬカウンターに、一瞬、頭が真っ白になった。ヴィトンのアナグラムを思い出し、ローマ字数字をパズルのように構築してみる。


 そのヴィトンはきっと偽物だろう。


「ローマ字数字だっけ? あの読み方って義務教育で習った?」


「外国でも使われてないよね? どこで使ってんだろ?」


「アラビア数字に覇権争いで負けたんだろうな!」


「で、何の話だっけ?」

「深ちんの学校の話」


 随分と脱線したな……。

 浮かんだ言葉が迷いなく、次々と飛び交い息つく暇もない。あっちにいったかと思えば、すぐにリターン。蛇行運転のくせにスピーディーで、高速のジグザグドリブルだ。しがみついてないと振り落とされてしまう。


「Gアカデミーっていうサッカーの学校」


「えーー、知らない。JFAアカデミーの方がメジャーだよね?」


 ヴィトンのロゴみたいな数字と同じ扱いかよ! 切り札でもあるパワーワード、「サッカー選手育成機関」。自慢するつもりでいたが、先駆けのJFAアカデミーのせいで、僕のシュートは不発に終わった。


 祭りを早々に切り上げて内ちんの家に向かった。

 内ちんの家は、さすが医者の家といった大豪邸だ。高級車が並べられたガレージがあり、その上が内ちんの部屋になっている。家族の生活圏とは独立した部屋。子供部屋としては最高の立地条件で、中学時代から僕らの溜まり場になっていた。


「深ちんは何飲む?」

 内ちんがぎっしりとお酒が詰まった冷蔵庫を開けた。


「えっと、ビール以外で……」

 ビールが苦くてまずいことくらいは知っていた。


 内ちんの彼女は男ならば誰もが羨む女性だった。アニメで言えば複数登場するヒロインの中で最初に登場するヒロイン。作者の愛が最も感じられるヒロインだ。


 容姿端麗、それでいて気さくで話しやすい。慣れない空気に打ち解けられたのも彼女のおかげだった。友達に彼女ができたことを祝福するよりも、嫉妬する気持ちの方が強い。それくらい魅力的な女性だった。


 子供部屋としては広すぎる部屋も思春期の男女四人の距離としてはあまりにも狭かった。パックリと開いた胸元からのぞく谷間がお酒をすすませる。


 どれだけ飲んだのだろうか?

 リンゴ、グレープ、レモン、オレンジ。体が火照ってふわふわと気持ちが良い。


 テーブルの上には四人で飲んだたくさんの空き缶が並んでいる。時計の針は午前0時を回っていた。

 内ちんと彼女が人目をはばからずにキスをした。

 今日の出会いで僕のことを好きになってくれたらいいのに。まったくもって身勝手な淡い期待は崩れ去った。


 しばらく薄目を開けて見ていたが、気まずくなって寝たふりをした。二人が寝室に移動したのが分かった。


 膨らむ想像力。

 前に飛び出すフォワード陣。

 相手の陣地でシュートを決めようと突っ立っている。ルール違反のオフサイド、──突っ立っていた。


 目を開けると、もう一人の女性と目が合った。どことなく内ちんの彼女に似ている。髪型、メイク、服装。ふくよかな胸までもが同じだった。Fカップはあろうかという胸も、全体的にぽっちゃりとした彼女のそれは輝きを放っていない。


 しなだれるように寄っかかってきた村人Fに唇を押し付けられた。


 酔う前に内ちんから渡されたものがある。

 こっそりと拳の中に握らされたもの。

 避妊具だとすぐに分かった。

 初めて触れる女性の唇はとても柔らかかった。

 果実や花のような甘い香りがした。


 デビュー戦。

 できればホームグラウンドで暖かいサポーターに見守られながら戦いたかった。ブーイングがスタンドから聞こえている。そして、そのブーイングが次第に大きくなっていく。



Fしてあげよっか?」

「……ごめん。ちょっと吐いてくる」

 内ちんの部屋を飛び出していた。



 河川敷の土手を夜風にあたりながら歩いた。

 ビビッたわけではない。

 初めてのキスの感触に感動したくらいだ。

 お酒だって、意外に飲めるもんだなと自信にもなった。


 相変わらず散らかっていた内ちんの部屋。

 その中にたった一つだけ変わっていたものがあった。埃をかぶっていたギター。


 明日からまた、Gアカデミーへと舞い戻る。

 正直、このまま逃げ帰ろうなんてことも考えていた、──が、もう少し頑張ってみよう。


 僕はサッカー選手になるために入学したんだ。

 手付かずの内ちんのギターが、なぜか僕の気持ちを後押ししていた。不本意なファーストキスの感触を思い出して、しみったれた自分を恥じた。

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