6日目夜 『月と紅茶と幸福を』お嬢様に

 僕は、絵本のページを捲るように、右手を水平に動かした。

 カップに手が当たる瀬戸際、視界は転換し、柔らかい布の感触によって手の動きは優しく受け止められた。

 ベッドの中には、背中にはほんのりとした人の気配が感じられる。

「それは、違います」

 僕は、『二日ぶり』の答えを、フィリア様に伝えることにした。

「……返答をしないで、という言葉が聞こえなかった?」

 フィリア様は、言葉を返した。だが、その口調は淡泊でありながら、どこか悲しげであった。

「黙っていた方が、いいですか?」

 僕は、思ってもいない言葉で突き返してみた。一瞬、シーツがびくりと揺れた。

「……続けて」

 背中に、暖かい感触が響き渡った。だが、不思議と緊張感や、動揺を感じることはない。

 頭も妙に鮮明だ。あそこまで、大変な思いをしたというのに、お嬢様の細く高さのある、落ち着いた雰囲気の声を聞いただけで、僕は、疲労が吹き飛んでいたのだ。

 僕は彼女に一目惚れしていたんだ。

 改めて、感じることが出来た。


「僕は、この屋敷にそこまで長く過ごしていませんし、過去を全て知っているわけでもありません。そして、僕も同様に、お嬢様程ではありませんが、後悔や反省を伴ってこの屋敷に来た人間です。だから、お嬢様が『悪い子だった』としても、そこまで深く介入するつもりはありません」

「……」

 背中を合わせる彼女は、動かない。

 彼女は、少年にも、少女のようにも聞こえるであろう僕の声を、聞き漏らさぬように傾聴していた。

「ですが、僕は『今の』お嬢様が同じであるとは考えていません。お嬢様は、自分なりに僕に接しようとし、僕のことを見てくれました。そんなお嬢様を『悪い子』だと考えることは今まで一度もありませんでしたから」

 背中に当たる、温かみが消えた。

 お嬢様は、僕の精一杯紡いだ言葉にをかみしめるように、喉奥で息を吐いた後、シーツを先程よりも大きく動かしていた。

 しばらくすると、前よりも狭い範囲で、硬い感触が当たった。

「どうして……どうしてあなたも、そこまでして私を見ようとするの?」

 壁越しに語りかけるように、彼女は、訊いてきた。

 だが、その声は前よりも鮮明に、吐息と共に耳へと届いてきた。

「それは……凄く難しい質問ですね」

「私には、分からないから」

「分からなかったではなく?」

「……?何か違うの?」

 彼女は、少し抜けた声でそう言った。

「僕は、違う気がしたので」

「そう……それで、答えは?」

「……」

 僕は息を止め、複雑に絡み合った感情を、一つ、また一つと解いた。

 ベッドの外から見える景色は鮮明になる。少し前に僕が整理したのだろうか、埃一つない清潔な部屋。丁寧に置かれた絵本の束。つぎはぎのテディベア。

 僕は、止めていた息をゆっくりと吸った後、答えを口にした。

「後悔と贖罪。この二つ……」

「……」

「最初は、この感情でお嬢様を見つめていると思っていました。勝手に僕の持っていた過去にお嬢様を重ね、僕との共通点を探し、その穴を埋めるために、僕はお嬢様に使えている」

「そう」

「でも、最近気が付いたんです。『空っぽ』な自分を見つめなおした時、僕と、お嬢様は全く違う人で、僕よりももっと『いい子』だということに」

 彼女は、何も言わない。ただ、僕の声をじっと聴くだけだ。

 そう、何も変わらない。彼女は、僕のことをのだ。

 合わせていなかったのは。フィリアをお嬢様フィリアとして見ていなかったのは……だったのだから。

 

「僕は、あなたのことを好きになったんです」

 シーツを擦る音を数秒鳴らし、真っすぐ『彼女を』見た。

 その表情は、変わらない。僕のことを、僕の眼を真っ直ぐと彼女は、見ていた。

「……やっと、私を見た」

 虚ろに見えていた、彼女の瞳は光を持っている。

 僕の瞳を反射し、深紅の瞳は僕の姿を、前に進むことを決めた『人間』の姿を映し出していた。


「僕は、あなたのことを支えたい。あなたのことをもっと知りたい。この『一週間』で、僕はあなたの人生Lifeの一つになりたいと思った。それが、『フィリア様を見た』理由です」

 我ながら、つまらない口説き文句だ。だが、言い終わったあとの後味は悪くない。

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