0日目 猫

「はぁ……」

 過去最多溜息記録更新かな。

 そんなことを考えて目をあけると、

「なーん」

 足音の正体が顔を出してきた。顔は少し暗く見えにくいが、おそらく整った顔立ちの灰色の猫だった。背筋もピンと伸びていて、どこか真剣そうな表情にも感じられる。

 猫は僕の顔を興味深そう(な気がする)にまじまじと見つめると、

「なーん」

 また一つ口を開くと猫は右足をゆっくりと持ち上げて

「あうっ」

 重力で露わになった額に向かって、てしっと叩きつけてきた。

 そのまま何度も顔近くを何度もてし、ぺち、てち。

「ちょ、ちょっとまって!何?僕何かした?」

 流石に起き上がって猫の方を向くと、無愛想な顔で一瞥いちべつした後に猫はゆっくりと歩き出す。

 と、思ったらこっちを向いて

「なん」

 と一声し、また歩いた。どういう意味だ?

「……ついてこいってこと?」

「なーん」

 これは……返答と捉えてもいいのだろうか?

「なーん」

 捉えていいそうだ。

 幸いペースは向こう側が合わせてくれるようで、橙に染まった森の風景を堪能しながら案内をしてくれるようだ。

 ……どう考えても猫基準の道を最短距離で向かうのは玉に瑕だが。




 日は傾き始め、猫も僕の歩行ペースを覚えたのか、視界に合わせて近くを歩き始めた。

「くぅ……くぁぁ……」

 感情が乱高下しすぎたせいか、欠伸あくびを漏らしてしまうと、猫は振り返り僕を睨みつけた。

「ぅあ……気にしないで。野暮用で疲れていただけ。別に飽きたわけじゃないよ」

 そう言うと、猫は不機嫌に(ぶっきらぼうにかもしれない)道案内に戻った。

 そういえばこの猫に殴られた?時、そこまで獣臭いというか、野生動物特有の独特な匂いというものが感じられなかった気がする。

 飼い猫だと仮定したら、飼い主は真面目な性格なのだろうな。『生』が付きそうな領域で。

「いてっ」

 いつの間にか足を止めていたのか猫は後ろ足で僕を軽く蹴った。野生の勘は恐ろしい。

 いつまで歩けば……と思っていたが、杞憂だった。

 猫は急にペースを上げたと思った時、既に視界の外へと消えていた。

 前を向く。森を抜け、目を凝らす。

 そこに待っていたのは驚愕きょうがくだった。

 森のトンネルの先にあるものは、小屋ではない。屋敷だ。

 しかもただの屋敷ではない。少し大きな街の領主でもこれに比べれば見劣りしてしまう、と感じられるほどに絢爛けんらんで、大きな屋敷だ。

 こんな屋敷が、百人を超えるか超えないかと言うほどの小さな村の中に隠されていたとは。僕の陳腐ちんぷな想像は飼い猫であるという予想しか合っていなかったようだ。

 見当違いもここまで外れると、変な笑いすら浮かんでしまう。

 かさ。

 物音の方向を見てみると、案内を終わらせた猫が、そのまま屋敷の閉まった扉の下部にある、荷物用と思わしき蓋へと飛び込み、そのまますり抜けるように入り込んでいた。

 ぱた。ぱた。

 箱の蓋が振り子する乾いた音だけを残して僕は、今度は屋敷に圧し殺されそうになっていた。

 幸い僕は頭の中は冷静なようで、正確な判断ができているようだ。

「この屋敷には入ってはいけない。入ったら戻れなくなる。」

 旅人としての経験、本能がそう教えてくれた。

「なんて素晴らしい下らない判断理性なのでしょうか。あなたらしくないですね。」

 今度は、旅人としての本能が囁きかけた。

 屋敷は僕へと近づき、もう全望が見えないほどになっている。

 枯れ草や花を踏み荒らし、石畳を汚して視界が扉以外見えなくなった時、僕はようやく自分がこの屋敷に入ろうとしていることを自覚すると、僕の中の二人はそのまま続ける。

「何をやっているんだ。早く引き返せ」

「そうです。そのままドアを開けなさい」

 僕は完全に板挟みになり、石のようにその場から動けなくなってしまった。

 

 だが、そう時間の経たないうちに石は溶かされた。

「ねぇ、入らないん……ですか」

 ドアの方から少し開いてきた。その後ろには、

「さっきから、ずっと独り言でうるさい……です。帰るなら……早くしてください」

 明らかに不機嫌な少女の声が耳を通り抜けてきた。

 なんてことだ。選択肢が消えてしまったじゃないか。

「……ごめんなさい。少し考え事をしていて立ち止まってしまいました」

「それはどうでもいいです。早く……決めてください」

「……失礼します」

 僕はすぐに靴の泥を落とし、水(魔術で精製したもの)で靴底を軽く洗い、ポーチのハンカチで拭き取って、扉を開けた。

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