0日目 不運
舌にねっとりと染み込む水を一通り
とりあえず森の中での調査を再開しよう。
太陽の位置的に、今日はもう二、三時間程しか探索することもできないだろうし、効率的に調査を済ませる必要がある。
休憩前までは目視によって異常な部分がないかを調査していたが、このまま手作業で調べるにはこの森は広すぎるし、また飽きてしまうだろう。
……仕方ない。あまり気乗りはしないが、格段に効率は上がるだろう。
溜息一つ。目を瞑り、一言。
「
僕を中心に静かな風が放たれる。
それと同時に、足先を草がくすぐる感覚、手や胴が幹を撫で、葉を投げる感覚が加速度的に脳へと送り込まれてきた。
今の僕は風だ。この雄大な森の中を駆け回る小さな風だ。
ふかふかとした柔らかい小さな毛皮に心を癒され、木の洞に行く道を遮られながら、辺りをなぞり写し続けると、脳の先辺りに重りがつけられていく。
限界だ。僕は目を開けて、変わりない僕の身体を確認する。
「……っあ」
触覚を鋭くしすぎたせいで、服の擦れに声を出してしまった。
周囲約百m以内には人らしき物も大型動物もいない。それを理解はしているが、さっきの醜態にはさすがに少し顔が熱くなるのを感じる。
久しぶりに使ったがこの効率ならすぐに異常も見つかるだろう。
僕は百m先へと足を進めた。
「おかしいな……」
……森のかなり奥深くまで調べたつもりだったのだが、手がかりが掴めないどころか、ここまで迷ってしまう要素すら感じられない。
確かに手入れのされていない森であるが故に、舗装された道などがあるわけではないし、軽く観察しただけならば同じような木々が並んでいるようにも見える。
だが、それだけだ。
この手の話は何か特殊な魔力によってとか、方向感覚を狂わせる植物がみたいなものが相場なのだが、(自分の知識の範囲内ではあるが)そんなものは存在しない。
……なんだろう。大事なことを忘れてしまっているような……
あれ?また記憶でも飛んじゃったのかな……まぁいつものことだし、じきに思い出すだろう。
そうだ。『いつものこと』なんだ。
こんな苦労だが、どうせ今までの旅の内容と同じだ。
日常として消化されて、これもなんとなく覚えてまたいつか忘れていつも通り旅を続ける。
その程度のことだ。
「はぁ……」
早く自分の居場所を見つけ出して『平穏な日常』を手に入れたいものだ。
……心の中で呟いてみたが、これもある意味『平穏な日常』として扱えるのではないか?
なるほど。天才だな、僕は。
さーて。やる気が戻った。
引き続き生産性のない自己満足行為をし直そう。
「九九……百……っと。これで大体七十五m」
目を瞑り、呼吸を一つ。
流石に身体が慣れてきた。
触感がまとわりつく。
五十、六十。頭に地図が描かれる。
もちろん異常は存在しない。
七十、八十……?
九十……
「……百」
……春風が、袖の隙間や頬から体温を奪い取って行く。
え……なんで?
ゆっくりと瞬きをして周りを見渡す。
何の変哲のないただの森だ。新しい景色が続いていた。
そう。『周囲百m全て』が。
踵を返す。前と同じ歩幅を意識して歩く。
焦る気持ちを抑えて、自分の大きく出そうになる足を調整しながら頭の中で必死に歩数を数える。
四十歩。あと少しで折り返しというタイミングだった。
くしゃ。
という草とは違う乾いた音と共に白い何かが足元を横切った。
なんだ……?さっきの。
一瞬入った思考の埃は、
「ぐっ!痛っつぅ!」
それを超える大きな塊によって遮られた。
頭だけでなく首筋近くにまで衝撃を感じ僕はそれに押し倒されるようにもんどりうって倒れると、そのまま駄々をこねる子供ようにのたうちまわった。
痛みが引いた後前を向くと、木が生えていた。
まぁなりふり構わず木に突進したのならこの痛みは納得……いや、おかしい。というかもっとおかしくなった。状況の意味が分からない。
だって確実にまっすぐ歩いて元の場所に戻ったら障害物になんてぶつかることはあり得ないし、何よりも自分の魔術で身体に違和感を覚えることはあっても失敗することは一度たりともない。
周りも前と風景が違う気がするし、歩数も驚いて忘れた。当然変わった魔力も感じない。
「……あ」
ダメなやつだ。このまま考えると何も動けなくなる。こういう時は一つ一つ状況を確認しなければいけない。
もう一度「
空を見る。赤い。
なるほど、そうなんだ。あまりにも見事な遭難だ。
ははっ、おもしろ。
とりあえずこれで頭は冷えた。
そういえば木にぶつかる前、一瞬映ったあの白い影は何だったのだろうか。
そう離れた位置にはないだろうから探すことにしよう。これ以外の情報ないし。
首を抑えながら地面を注視するとそう時間がかかることはなく目的の物は見つかった。
それは茶色に染まったくしゃくしゃの紙だった。
手に取ってみる。
大きさは小さめの貼り紙程だが、別に何かの注意を促すような絵は描かれておらず、本当にただの紙切れだ。
紙を更に近づけてみる。
土の匂いと……微かに、本当に微かだが、魔力の
本来魔力は無臭だが、紙などに魔力を付与する際に行使した本人の香りが混入する。
この地方の特産の紙は魔力を豊富に吸収し、なおかつ付与する際の臭いがほとんどつかないということは 村の人たちから耳に
「ここまで匂いがしないのか……すごいな」
思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
正直土の匂いで強調されていなかったら一切気がつかなかった。
「つまりこの森の中には方向感覚を歪ませるトラップが仕掛けられているだけ?」
噓だろ……ここまでやっておいて本当にこれだけかよ……最悪すぎる。しかもよりによってトラップを踏んだ後に発覚するとは……
今まで前向きにとらえていたが、流石にこれは凹む……
思わずへたり込んでしまった。もう何というか……しばらく動きたくない。
もういいや。今日はこの森の中で一夜を過ごすことにしよう。飲み水がないのは致命的だが、足元に注意して時間をかけて歩けばいつかは森からは抜け出せるだろう。
かさかさ。
どこかの茂みが鳴った。
少し固まってしまったが、そこまで大きな動物ではなさそうだ。とりあえず横にでもなっておこう。
空は藍色になりかけている。
手を伸ばしてみるが、掴むことはできなかった。
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