第21話 氷の皇子は激昂する
「殿下、どうかなさいましたか」
帝都に戻ってしばらく、ヴィルフリートは心ここにあらずの状態でぼんやりと仕事をして過ごしていた。酒の勢いとはいえ、オリーヴィアにこの想いを打ち明けようとした矢先に邪魔が入ってしまい、出鼻を
「どうせオリーヴィア様のことでしょう」
「うるさいぞ」
「しかしまずはお仕事を。ブーアメスター侯爵領から納税の報告があがっております、私はまだ目を通しておりませんが、おそらく先日の減税に関する件かと」
「自らの政策で他との関わりを断っておきながらそれが原因で後進し、よって減税を求めて負担をかけるとは。領主の鑑だな」
皮肉をいいながら書簡を受け取る。開けば確かに、少し前の食事会で話したことが書かれていた。
「で、他には」
「はい、
「なんだと」
オリーヴィアに逢引を申し込んだ厚顔無恥な男だ。ヴィルフリートは思わず身を乗り出してしまった。その男がどこの誰か分かったなど、悪い
「どこのどいつだ、今すぐ首を刎ねろ。ただしオリーヴィアには
「殿下、オリーヴィア様はただの侍女ですのでどこの誰にでも言い寄る権利がございます、よって首を刎ねることはできません。また外交上の問題がございます」
「外交だと?」
ということは帝国の騎士ではないということか。
グスタフは少しばかり神妙な面持ちで頷く。
「彼はイステル伯爵に招かれていた客人で……、アインホルン王国の騎士だそうです」
「アインホルン王国だと?」
第一次戦争、第二次戦争を経て、和平交渉の真っ只中の敵国だ。想定外の素性に、さすがのヴィルフリートも唖然として口を開けてしまった。
「なぜイステル伯爵がそんな者を招いていたのだ」
「ちょうど和平交渉の使者として来ていたので夜会に連れて行ったそうです」
確かに、イステル伯爵ならやりかねない。軍備を見せるのは危険だが、機密事項に注意してさえいれば使者をもてなすことは
「しかし俺はそんな報告は聞いていない」
「殿下がすぐに夜会からお帰りになるからでしょう」
「そんな重要な報告を夜会でするな!」
「それはごもっともです。とはいえ、先日の視察でお聞きにならなかったのですか?」
「思った以上に領内が酷い有様でな。遅々として進まぬ和平交渉の話はせず終いだった」
どうせ話題に出たところで「あと一歩なにかあれば」で終わるだろうからと口にしなかったのだ。なんなら、オリーヴィア提案の貨幣の話もしたせいで、和平交渉の話をする暇はなかった。
「それで、ソイツがオリーヴィアに言い寄っていたのか」
グスタフは罪状がないなど堅いことを言うだろうが、何か理由を探せば出てくるに違いない。そうして即座に首を刎ねてやりたいところだが、アインホルン王国の騎士だというのは具合が悪かった。和平交渉の真っ只中、なんなら
ぐぬぬ、とヴィルフリートは下唇を噛んだ。なぜこうも次から次へと問題が舞い込んでくる。
「しかしオリーヴィアのためだ、和平決裂、戦争再開もやむを得まい」
「全くやむを得なくございませんし、それは徹頭徹尾殿下の私利私欲です、お間違えなく。しかし殿下、アインホルン王国の騎士がオリーヴィア様に
「なんだ、オリーヴィアを口説く策ができあがるというのか」
例えばその騎士がオリーヴィアをかどわかし、それを自分が颯爽と救うことでオリーヴィアをときめかせるなど。悪くない、とヴィルフリートは大真面目に考える。吊り橋効果というやつだ。
「かの騎士はコルネリウス・ゲヘンクテというそうですが、ゲヘンクテ家は
「……何だと?」
予想を大きく外した提案にヴィルフリートは一瞬間抜けな顔をした。
しかしやがて内容を理解し、グスタフに対して殺意の籠った目を向けずにはいられなかった。
「貴様正気か?」
「正気です。しいていうならば、オリーヴィア様になんらか爵位を与えましょう。幸いにも口実はたくさんございますし、そのほうが
「何が体裁だ。貴様オリーヴィアを俺から奪うどころか外交の道具にしろと言うのか!」
かつてないほど激怒したヴィルフリートは、その怒りに任せて手元の書簡をグスタフに投げつけた。グスタフはそれをひょいと身を傾けて
「不愉快だ。今すぐ出て行け」
「殿下、冷静にお考えください」
「俺は冷静だ」
「ええ、そうですね。この期に及んで私を無能呼ばわりできぬくらいには冷静でいらっしゃいます」
不愉快だ、ヴィルフリートは心の中で繰り返した。
グスタフの提案はまったくもって正当で、また名案なのだ。隣国たるアインホルン王国との戦争は、ヴィルフリートの父に退位を決意させ、またフェーニクス帝国を著しく疲弊させた。本音をいえば互いに限界が近いが、逆にいえば一歩引いた側が敗ける。なんとか停戦し交渉のテーブルにはついたものの、もう一年近く和平交渉は止まっている。それを進めるなにかひとつがあるのであれば喉から手が出るほどほしい。
それがオリーヴィアという侍女一人差し出して済むのであれば、なんと簡単な話か。ヴィルフリートも分かっている、だからグスタフは無能ではないし、その提案は不愉快なのだ。
「……殿下、私も長らくオリーヴィア様との関係は応援しておりましたが、今回のような事情があれば話は別です。ただでさえ殿下とオリーヴィア様の婚姻には殿下の満足以外に利益がないのですから」
「ではカーリンついては利益があるというのか」
「カーリン様は侯爵令嬢です」
「だからなんだというのだ」
「
「示しか。くだらんことを言うようになったな、
「殿下はお年を召されました。殿下は既に御年二十三歳、
本当にまったく、どいつもこいつも相手の爵位がどうのこうのとうるさいヤツらばかりだ。ふん、と鼻で笑ってしまった。
「赤髪の騎士――コルネリウス・ゲヘンクテとやらの素性は理解した。もうよい、下がれ」
「……殿下」
「次にオリーヴィアを差し出せなどと寝言を口にしてみろ。二度と王城に出入りできぬようにしてやる」
「……失礼いたします」
口には出されなかったが、よく考えるようにとその
そのオリーヴィアは、いつもどおり執務時間が終わった頃に紅茶を持ってやってきた。視察前と同じように「お疲れ様です」と優しく微笑み、まるで自分との関係など何も変わっていないかのよう。いつもと違うことがあるとすれば、その手にはいつぞやのさくらんぼの瓶もあることくらいだ。
「……もう食えるのか」
「ええ、食べごろです」
ひょいひょいと瓶からいくつか取り出し、紅茶の隣の皿に盛る。ヴィルフリートはまだ苛立ちを引き摺っていたが、それを口に入れると少しどうでもよくなってきた。より甘くておいしいし、これで保管期間が長くなるというのであれば一石二鳥だ。
「……本日はいつも以上に部屋が散らかっておりますね」
「何もない、気にするな」
「こちらの書簡は?」
グスタフに投げつけた書簡を拾い上げたオリーヴィアが首を傾げる。ブーアメスター侯爵領からの減税の申し入れだった。
「……未処理だな。こっちに置いておいてくれ」
「
「どうかしたか?」
なぜか、オリーヴィアがじっと書簡を見つめている。その話をした食事会にはオリーヴィアも出席していたし、書簡に書かれている内容に真新しいものはないはずだ。
「……いえ」
「気が付いたことは口にしろ、先日そう話しただろう」
「……私の記憶違いかもしれませんので、少々確認させていただいてもよろしいでしょうか」
そう言うが早いが、オリーヴィアは棚からいくつかの書簡を取り出した。日頃整理を任せれているだけあってその手の動きには迷いがない。
「……やはりそうですね」
「何がそう気になった」
「こちらご覧ください。カッツェ地方との交易記録ですが」
ヴィルフリートの机上にはいくつかの羊皮紙が広げられる。そのところどころを指差し、オリーヴィアは“その違和感”を述べた。
「……確かにな。少しずつだが開きがあり……いやこちらは随分大きいな」
すぐにグスタフに調べさせよう──と言おうとしたところでさきほど怒鳴ったばかりだったと思い出した。しまった、と口を手で覆い隠す。
「どうかなさいましたか?」
「……いや」
今でも思い出すだけで腹立たしいが、グスタフなりに自分の即位の足固めをしようとしての提案だとは理解している。仮に逆の立場であれば、自分も同じことを進言しただろう。
後で謝っておかねば。溜息と共に、グスタフの提案を思い返す。自分の感情を
となるとやはり……、少し前は縁がなかったからもういいなどと話していたが、少なからず好意を抱いたのだろうか。
そうでなかったとしても、相手が
気付けば、視界に映っているのは自分だった。揺れる水面に、情けなく悩む自分の顔が映っている。氷の皇子と言われる自分がこんな顔をしているとは思わなかった。
オリーヴィアは自分の役に立てばそれでいいといったが、本当にそれでいいのだろうか。オリーヴィアに懸想する男が素性の確かな者なのであれば、自分はそれを祝福するべきであったのではなかろうか。王城にいては肩身の狭い思いもするだろうに、いつまでも侍女として
「……オリーヴィア」
「はい」
紅茶のカップを置く音が静かに響く。
「……お前は、俺の役に立てばよいと話していたな」
「……コルネリウス・ゲヘンクテ様の件ですか?」
顔を上げると、オリーヴィアは「申し訳ございません、盗み聞きするつもりはなかったのですが」と苦笑いした。
「コルネリウス様の素性は存じ上げませんでしたが、
「……相変わらずよく知っているな」
そしてそれを口にしたということは、オリーヴィアは腹を決めているのだろう。続く言葉が手に取るように分かった。
オリーヴィアが、スカートを摘まんでそっとお辞儀する。侍女ではない、高貴な身分の面影がその仕草にはあった。
「アインホルン王国との和平交渉が進み、ひいては殿下が皇帝となることができるのであれば、喜んでこの身を差し出しましょう。そうして殿下に恩返しができるのであれば」
ぐっと拳を握りしめる。政治上はそれが最も正しいのは分かっている。分かっている、が――。
はたと、ヴィルフリートはおかしなことに気が付いた。
「……オリーヴィア」
「はい、なんでしょう」
「……お前、いつから話を聞いていた?」
オリーヴィアの顔が珍しく引きつった。しまった、口を滑らせてしまった――そう言いたげな顔だった。
「……オリーヴィア」
「いえ、私は何も……」
「コルネリウス・ゲヘンクテが公爵家の者だと話した後……」
「オリーヴィアを俺から奪うどころか」「オリーヴィア様との関係は応援していましたが」「咎の侍女と婚姻したいなどと我儘を」――ヴィルフリートの脳内ではグスタフとの会話が正確に再生された。
そして、オリーヴィアが頬を染めたのが答えだった。
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