第22話 侍女オリーヴィアは隙がない

「カーリン様、お呼びでしょうか?」


 呼ばれて部屋に行くと、カーリンは膝の上に本を広げながら果実酒を飲んでいるところだった。


「あら、オリーヴィア。ごめんなさいね、急に呼び出して」

「いえ……」


 ちら、とオリーヴィアは本に目を遣る。『帝国文化史』……オリーヴィアがヴィルフリートと初めてまともに会話した日、オリーヴィアが読んでいた本だ。


 それをカーリンが読んでいるというのはどういうことか。少し考えながら「なにか御用でしたか?」と促す。


「イステル伯爵領でさくらんぼを持って帰っていたでしょう? そろそろ食べごろじゃないかしら、持ってきてくださらない?」

「……構いませんが」


 食べごろなのはそのとおりで、まさしく今日ヴィルフリートに出そうと思っていた。ただわざわざ自分を呼びつけて求めるほどのことだろうか。はて、と首を傾げながらもオリーヴィアは頭を下げる。


 イステル伯爵領でオリーヴィアの部屋にヴィルフリートがいるのを見て、カーリンはますますオリーヴィアを疎ましく思うようになっているだろう。部屋にいた理由はきちんとあるし、あれをあげつらって感情だの関係だのを指摘するのは誤解でしかないが、しかし誤解されること自体は仕方がない。


(……だからって、私に危害を加えるかしら)


 そんなことをしたらヴィルフリートが黙っていない。過去にグスタフが同僚のやっかみで賄賂わいろぎぬを着せられたときは、加担した者を会議で晒し上げて放逐ほうちくした。そのくらいヴィルフリートは臣下を大事にする。


 臣下……。改めて自分の立場を噛みしめ、オリーヴィアはぐっと一人で唇を噛む。いや、でも、そうでなければ死ぬしかなかったと考えれば、これ以上の幸福はないではないか。傍にいることができるだけで、自分は幸せなのだ。


 そうして疑いながらさくらんぼを出すと、カーリンは「あらおいしそうね。もういいわ」とオリーヴィアを見もせずに言ってのけた。


「……もうよろしいのですか?」

「ええ。さくらんぼを持ってきてほしかっただけだもの」


 そのわりに、さくらんぼに手をつけるのではなく本に視線を落としている。その本のページが、オリーヴィアが部屋と厨房を往復する間まったく変わっていないのは、どういうことなのか。


(……ブーアメスター侯爵の令嬢だし、なんて言ってはいけないけれど、なにかたくらみがあるとすれば小物じみていると思うけれど……)


 いくら疎んじられているからといって、根拠なく疑うのはよくない。そう自分をいさめてカーリンの部屋を後にし、掃除をしながらヴィルフリートの執務室の前までやってきて――話し声に足を止めた。


「オリーヴィアのためだ、和平決裂、戦争再開もやむを得まい」

「全くやむを得なくございませんし、それは徹頭徹尾殿下の私利私欲です」


 ……何の話? オリーヴィアの頭上には数々の「?」が浮かんだ。自分のために和平決裂・戦争再開、そしてそれがヴィルフリートの私利私欲とは。


 しかし、戦争再開ということはアインホルン王国の話にほかならない。オリーヴィアにとってはそれだけで充分で、サッと血の気が引くのを感じる。


「ゲヘンクテ家は公爵デュークの爵位を与えられているそうです。そしてかのコルネリウスという者はその次男。公爵の次男がフェーニクス帝国の侍女をめとれば和平交渉も進むでしょう」


『あまりにもお美しく、つい見入ってしまい……』


 そしてグスタフの言葉で、コルネリウスと会った夜のことを思い出した。「オリーヴィア様……」と、噛みしめるように自分の名前を呼んだコルネリウスは……。


 そのまま自分の状況に思考を巡らせ始めたオリーヴィアに、二人の話し声は一度届かなくなった――が。


「貴様オリーヴィアを俺から奪うどころか外交の道具にしろと言うのか!」


 突然の罵声ばせいに意識を取り戻され、また跳び上がってしまうほど驚いてしまった。


「不愉快だ。今すぐ出て行け」

「殿下、冷静にお考えください」

「俺は冷静だ」

「ええ、そうですね。この期に及んで私を無能呼ばわりできぬくらいには冷静でいらっしゃいます。……殿下、私も長らくオリーヴィア様との関係は応援しておりましたが……」


 ドクン、ドクン、とオリーヴィアの胸は驚きと動揺で高鳴っていた。


咎の侍女オリーヴィア様と婚姻したいなどと我儘を言っている場合ではないのです」


 そこまで聞いた後、オリーヴィアはすぐさま身をひるがえした。


(……聞かなかったことにするしかないわ)


 ヴィルフリートは皇位を狙っているが、カーリンという侯爵令嬢と婚姻して初めてフロレンツに並ぶことができる。カーリンはオリーヴィアが疎ましい。コルネリウスはアインホルン王国の公爵家の次男だった。


 それだけ分かれば、自分のなすべきことはただひとつ――アインホルン王国との和平条約締結だ。そうすれば、ヴィルフリートには他にないほど輝かしい功績が付与され、その皇位継承が確実なものとなる。


 ……その代わり、自分はヴィルフリートのもとを離れるしかない。厨房に戻った後、オリーヴィアはじっとさくらんぼの瓶を見つめる。


『貴様オリーヴィアを俺から奪うどころか外交の道具にしろと言うのか!』


 そこまできてやっと、ヴィルフリートの言葉を冷静に考えることができた。


 いつから、だったのだろう。いつからヴィルフリートは、自分に想いを寄せてくれていたのだろう。頭には、侍女になった後はもちろん、侍女になる前のヴィルフリートとの思い出も浮かんだ。


『オリーヴィアに似合うと思った』『オリーヴィアが喜ぶと思った』『オリーヴィアが好きそうだと思った』――そう言って花やくしを贈ってくれたあの頃は。


「おうオリーヴィア、あの返事、そろそろ考えてくれたか?」


 そこに浅黒い腕が割り込む。料理長のベルクだ。


「……あの返事って?」

「おいおい。殿下も婚約なさったことだし、俺達もどうだと話しただろ?」


 ……何の話か? 心当たりがなさすぎて唖然とすることすらできなかった。今日は驚く話が多いものだ。


「……ごめんなさい、思い出せないんだけどいつそんな話をしたかしら」

「思い出せないって、お前、殿下の婚約祝いの日に話しただろ!」


 ベルクには憤慨されるが、本当にまったく覚えがない。大体、殿下の婚約祝いなんて大事件の日にそんな大事な話をできたはずがない。


 それにしても……。オリーヴィアは自嘲してしまった。このタイミングでベルクからそんな話をされるとは、神の天啓てんけいか。まさかベルクに現実に引き戻されるとは思いもしなかった。


「本当に思い出せないわ、ごめんなさい。それはそれとして、私はベルクと婚姻するわけにはいかないの」

「なんだよ、わりと本気だったんだぜ?」


 口を尖らせるベルクを流し、ヴィルフリートの紅茶を用意する。そうだ、ヴィルフリートの侍女である自分には大事な役目がある。どこの誰と婚姻したい、なんて我儘を言っている場合ではない。


『咎の侍女と婚姻したいなど我儘を言っている場合ではないのです』


「ごめんなさいベルク。でも、この身は政治に使ってなんぼなのよ」


 覚悟を決めたように微笑んだオリーヴィアに、ベルクはポカンと呆気にとられる。目の前にいるのは侍女であるはずなのに、まるでどこぞの高貴な者のような雰囲気を感じてしまったからだ。それは粗野な自分にも感じられるほどの、圧倒的な何か……。


「じゃあね、ベルク、きっともうすぐ私はここに来ることができなくなるから。貴方とのお話、楽しかったわ」


 そうして別れを告げてヴィルフリートの執務室へ行ったオリーヴィアだったが。


「……お前、いつから話を聞いていた?」


 ヴィルフリートとグスタフの会話を、ヴィルフリートの内心まで含めてまるっと盗み聞きしてしまっていたと口を滑らせてしまった。


(殿下のお役に立ちたかったのに、痛恨のミス……!)


 ヴィルフリートの頬も赤く染まる。出会ってもう何年経つだろう、それでもヴィルフリートが照れた顔など見たことがなく、オリーヴィアはつい「殿下がかわいい……」と固まってしまい――。


「……では私はこれで」


 これではいけない! 素早く身をひるがえしたが「ではも何もあるか!」執務机を乗り越える勢いで手を伸ばされ、易々やすやすと腕を掴まれてしまった。


「すべて聞いていたに等しいではないか! おいオリーヴィア!」


 だめだだめだだめだ。顔ごと視線を背け、ぎゅうと目もつむってヴィルフリートを見ないようにする。それでも耳まで赤くなっているのが分かるくらい、顔が熱かった。顔から火が出るとはこういうことを言うのだろう。


「……殿下、本日の仕事は終わりましたので……」

「仕事の話ではない、それよりもっと重要な話だ! 俺を見ろオリーヴィア!」


 パッ、とヴィルフリートの手が離れた。今だ、と駆けだそうとして――真正面から両肩を掴まれた。軍人でもあるヴィルフリートから逃げられるはずがない。


「……あ、あの、私、何も聞いておりませんので……」


 これは駄目だ。しどろもどろと視線を逸らしながら言い訳を並べようとするが何も思いつかない。こんな風に真正面に立たれ、真っ直ぐ見られ、触れられていては。


「……であればもう一度言う。オリーヴィア、俺はお前を恋しく想うようになって久しい」


 ドッと心臓が跳ね上がり、ぎゅっと引き結んでいる唇からは心臓が飛び出るかと思った。恥ずかしくて視線を外していたのに、それでも見ずにはいられなくて、そっとうかがうようにヴィルフリートの顔を見る。


 海の底のような深い青の髪、その隙間から覗く宵闇の瞳が真っ直ぐに自分を見ている。まるで宝石のように美しい瞳だ。その瞳で言ってくれたのだ、恋しく想うようになって久しい、なんて。


 まるで吸い込まれそうなほど真っ暗な瞳には、否応なしに吸い寄せられてしまいそうになる。その口上もあって、このまま目を閉じて身を委ねたくなるほど蠱惑的こわくてきだった。


 しかし鷲のように鋭くもあるそれは、まるで皇帝になるために生まれてきたかのようで、オリーヴィアは理性を取り戻した。


 そう。この帝国で皇帝になるべきはフロレンツではない。


「そうでなければ侍女になどするものか。もうあの事件から3年も経った、ほとぼりは冷めているし、お前はもともと何も悪くない。あの事件の前も後も、お前の提言もすべて役に立っている、誰にもお前をとがの侍女などと呼ばせるものか。だから――」

「いけません、殿下」


 だから、続く言葉を遮った。まだ顔は熱かったが、頭は冷静だった。


「……カーリン様はどうされるのです」

「あれは……」


 途端、ヴィルフリートの視線が泳いだ。痛いところを突かれたかのように、その声も覇気を失い始める。


「もともと手違いがあった。その……今だから言うが、夜会で例のコルネリウスがお前に言い寄る様子を見ているうちに気付けばカーリンとの踊りが二曲目に突入し……」

「しかし殿下が婚約なさっているのは事実です」


 がしりとヴィルフリートの腕を掴んで向き直る。ここでヴィルフリートを説得できなければ、何のために3年間も侍女をしていたのか。


「婚約破棄された令嬢の末路を、殿下はご存知でしょう。私がお話したはずです。理由もないのにカーリン様の婚約を破棄してはいけません。手違いがあったというそれ自体もカーリン様に失礼です」

「それはそうかもしれんが――いや待て、さきほどの……」

「アーベライン侯爵の企みの件について、私は悪くないと言ってくださったではありませんか!」


 ヴィルフリートに侍女にしてもらった恩を忘れず、生涯お仕えする。自分はそう誓ったではないか。


「カーリン様を捨ててはいけません。殿下がそんな理由・・・・・でカーリン様との婚約を破棄するというのであれば、それはフロレンツ殿下が私にしたことと同じことを殿下がするということです。カーリン様を私と同じにしてはなりません。そんなことをすれば……、私は殿下を軽蔑いたします」

「け……」


 まるで今まさに軽蔑されたかのように、ヴィルフリートは愕然として言葉を失った。効果は覿面てきめんで、両肩を掴んでいた手からも力が抜ける。


 もう一押しだ。オリーヴィアは、そのままそっとヴィルフリートの腕を自分から外した。


「……殿下。私の命を救い、侍女にしてくださったこと、心より感謝いたします。その恩義として、アインホルン王国との和平締結、ひいては殿下が皇帝となるいしずえとなりましょう」

「……違う。俺はそんなことは望んでいない」

「ここだけのお話、私もフロレンツ殿下は皇帝の器だとは思いません」

「分かっている。だから俺が皇帝になるべきだ。しかしそのときお前がいなくてどうする」

「いずれにせよ、近いうちにおいとまをいただく予定でした。次期皇帝ともあろうお方が、いつまでも罪人を侍女にしておくべきではありませんから」

「だからそんなことはどうとでも――」

「失礼いたします!」

「だから勝手に入るなと言っている!」


 扉が割れそうなほどの怒号だったが、入ってきた2人の衛兵は「緊急事態でございます!」と叫び返すだけで足を止めなかった。その手にはやりがある。


「……何の騒ぎだ」

「お邪魔いたします、殿下」


 その刃先をオリーヴィアに向けながら、衛兵は重々しく告げた。


「オリーヴィア、お前をカーリン様殺害未遂の容疑で捕縛する」


 ――なるほど。その場において、オリーヴィアはただ一人冷静に納得した。


 カーリンは、そんな愚かな方法に出てしまったのか、と。

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