第20話 侍女オリーヴィアは勘繰らない

 厨房で一仕事終えたオリーヴィアは、自室に戻る途中でばったりヴィルフリートに出くわした。


「あら、殿下。イステル伯爵はよろしいのですか?」


 イステル伯爵といえば大酒食らいで、数年前までは「イステル伯爵がくると城中の酒を飲みつくされる」などと言われていた。そのイステル伯爵の晩酌に付き合わされては朝まで解放されまいとばかり思っていたのだが。


「ああ、もう休むそうだ。もう年だからな、昔ほどは飲めんのだろう」


 とはいえ、ヴィルフリートの目を見ると少し酔っているのは分かる。昔ほどは飲まないといっても相当付き合わされたに違いない、そうでなければヴィルフリートがそんなに酒を飲むことなどないのだから。


「お前ももう休んだらどうだ、視察にまで付き合わされて疲れただろう」


 そして、酔ってでもいなければここまでストレートに気遣いはしない。もちろん日頃から気遣いは感じるのだが、もっと素っ気ないのだ。


「お気遣いありがとうございます、殿下。ちょうど殿下とカーリン様のお部屋も整えましたので、これでお休みさせていただこうとしていたところです」

「……念のため確認するが、俺とカーリンそれぞれの部屋か?」

「いえ、同室とうかがっておりますが」

「今すぐ別室を用意させろ」


 が、その目が途端に鋭く光った。


 もちろん、最初にそう聞いたときのオリーヴィアも「殿下は別室派では……」と王城の部屋割りを思い出したのだが、自分らが視察に出掛けている間に勝手に用意されていたうえ、カーリンが構わないと答えていたと言われるとくつがえしようもなかった。ともあれ、ヴィルフリートはなんやかんやカーリンを好いていてきっと受け入れるものとばかり思っていたのだが……。


「……カーリン様からは構わないとうかがっておりますが、それでも別室のほうがよろしいですか?」

「貞操観念のおかしい女だな。つくづく皇妃に向かん」


 舌打ち交じりの、ヴィルフリートとは思えない悪口にオリーヴィアは背筋が凍るのを感じた。


(と、とてもお怒りでいらっしゃる……)


 掃除中の使用人達を見て「手より口を動かす阿呆」とじっ把一ぱひとからげに叱っていることはあるが、特定の女性を槍玉やりだまに挙げて悪口を言うなど、いままでのヴィルフリートであれば考えられなかったのに……。


 もしやヴィルフリートは、何か事情があってカーリンと婚約しただけで好意があるわけではないのだろうか……? その可能性には辿たどりついたものの、「俺から伝えるか、しかし恐縮させても悪いな」とブツブツ呟かれ、今までの行動の辻褄つじつま合わせには至らなかった。いま分かっているのは、ヴィルフリートがどうやらカーリンと同室で休みたくはないらしい、ということだ。


「……おそれながら殿下、使用人は皆すでに休んでおります」


 ただ、既に夜更けで働いている者はいない。なにより、婚約者と別室を用意させるとヴィルフリートとカーリンの間に不仲説が流れ面倒なことにもなりかねない。


「ですので、私のお部屋をお使いになるのはいかがでしょう」


 オリーヴィアは侍女として当然の提案をしただけだったのだが、ヴィルフリートは一気に酔いが覚めた。……オリーヴィアの部屋だと?


「イステル伯爵が私にもと部屋を用意してくださいまして。ご安心ください、同室の者はおりません。さすがに殿下とカーリン様の部屋ほど上等な部屋ではありませんが……」

「そんな部屋を使えるわけがないだろう!」


 オリーヴィアが寝起きする部屋など! カーリンとはまた別の理由で結局身心が休まらない。


「別室であればどこでも構わん。俺は応接室に戻る、朝になったら呼んでくれ」

「殿下! さすがに私が部屋で休まり、殿下を応接室で寝かせるわけにはいきません!」


 ヴィルフリートは憤慨したが、オリーヴィアも食い下がる。どこに主をソファで寝かせ、自分は悠々と部屋で休む使用人がいるというのだ。


「多少我慢なさってください。イステル伯爵の使用人達も殿下が応接室でお休みになられては恐縮していまいます!」

「もとはといえば俺とカーリンを同室にしたのが間違いではないか!」

「殿下とカーリン様は婚約していらっしゃるのですから仕方がないではありませんか! 私の部屋もそう悪い部屋ではございません、イステル伯爵が配慮してくださってますので!」


 例によって2人の主張は食い違っていたが、酔っぱらっているヴィルフリートは「なにかおかしい?」くらいしか思えなかった。しかもその隙にオリーヴィアに「たった一晩のことですので」と背中を押され何も言えなくなった。小さな手のひらがぐいぐいと背中を押してくるのが可愛らしかったのだ。


 そうして歩き出してしばらく、ヴィルフリートはオリーヴィアが片手にびんを抱えていることに気が付いた。さくらんぼが液体に浸かっているが、それが何の液体なのか分からなかった。


「……その手にあるのはなんだ?」

「こちらですか? さくらんぼの砂糖漬けです」

「……果物を砂糖に浸けるのか。甘くてうまそうだな」


 甘党なのを隠しもしないヴィルフリートにを可愛らしく思いながら、オリーヴィアは「それはそうですけれど、お夜食ではありませんよ殿下」と微笑み返す。


「今年はさくらんぼがあまり採れなかったそうではありませんか。今年に限らず、収穫高は安定せず、そうなると食べたくても食べられない時期がやって参りましょう」

「まあそうだな。なにか安定して栽培できる方法が見つかればよいのだが、それと砂糖漬けに何の関係がある」

「栽培方法を見直すには少々知見が必要ですので、手っ取り早く保存方法を見直そうと考えたのです。それがこちらです」

「……言われてみれば聞いたことがあるな。砂糖を使うと腐りにくいと」

「はい。ですから試しに作ってみたのです。イステル伯爵も今年はあまりさくらんぼを食べることができていないと嘆いていらっしゃいましたから作って差し上げようと」

「なるほどな」


 素直に感心する声を聞きながら、オリーヴィアは少しだけ得意な気持ちになった。視察前にフロレンツと会ったせいか、自分の発想や行動を「狂人のそれ」と軽蔑せず、むしろ褒めてもらえるのは気持ちがいい。


 一方、ヴィルフリートはちょっとしゃくでもあった。相変わらず有用なことを思いついているが、それをあげるのはイステル伯爵なのか。


「俺にはくれないのか、それは」

「……殿下にですか?」


 酔っぱらった勢いで拗ねてみせれば、オリーヴィアが驚き――ついで子供を見るように微笑んだ。


「……こちらは厨房でいただいた材料なのですが、仕方ありませんね。少しだけですよ」


 ……なぜこのオリーヴィアが自分の妻でないのか。ここ数日間、何度も反芻はんすうした疑問をヴィルフリートはもう一度反芻する羽目になった。


「こちらが私の部屋です。さくらんぼは置かせていただきますが、まだ浸かりきっておりませんので……そうですね、帝都に戻る頃には食べごろかと思います。つまみ食いしてはいけませんよ」

「俺をなんだと思っている」


 オリーヴィアはまだ荷物を置いただけだったので、部屋の中は片付いていた。これならヴィルフリートを寝かせても問題はあるまい。なんなら、オリーヴィアが元侯爵令嬢であったことに配慮したのか、部屋はそれなりにきちんとしており、少なくとも使用人用には見えなかった。


「では殿下、私はこれで」

「いや待て、お前はどこで休むつもりだ」

「私は使用人部屋をお借りします」

「侍女を追い出し休む暴君がどこにいる!」

「わりとありふれているかと思いますし、なんなら殿下はそう思われていそうですね」


 ついにオリーヴィアは声をあげて笑ってしまった。ヴィルフリートが妙なことを言い出すのはたまにあることだが、ここまでおかしなことを言っているのはさすがに珍しい。きっと酔っぱらっているのだろう。一方ヴィルフリートは、何がそんなにおかしいのか分からずに口をつぐんでしまった。


「殿下、お気になさらず。私はどこでも寝ることができますので」

「俺だってできる」

「何を張り合っていらっしゃるのです。殿下がきちんとお休みにならなければ、私は恐縮して休むことができません。大人しくこちらの部屋をお使いになってください」


 アーベライン侯爵家で使っていたのは使用人部屋だったし、人買いに連れられていたときは荷車の中で眠った。お陰でぜいたくな生活は必要なくなったのだ。


 まだ笑いながら部屋を出て行こうとするオリーヴィアに、ヴィルフリートは逡巡しゅんじゅんする。オリーヴィアの部屋を奪い取りたくなどないし、しかしオリーヴィアはちゃんとした部屋を使ってくれないと困るというし、というかそもそも二人でいる時間が惜しい。


「……まあ待て、オリーヴィア」


 とはいえ、寝室にいつまでも2人きりでいるわけにはいかない。色々な問題が頭をよぎり、ヴィルフリートはソファに座りながら膝の上で手を組んでしまった。


「……今日の視察はご苦労だったな」


 お陰で、結局出てくるのはそんなセリフだ。それでもオリーヴィアは「いえ、大したことではございません」と微笑み返してくれる。


「……昨年の雨で道も悪く、疲れただろう」

「それも大したことでは。イステル伯爵が尽力なさったのでしょう、大雨の爪痕つめあとが残っていないとは言いませんが、充分きれいに整備されておりました」

「……天候というのはぎょし、操れるものではないからな。昨年は天候に恵まれていたこともあり、収穫高の落差が激しく農民からは不満の声があったそうだ」


 昨年は大量に麦を収穫できたため納税に余裕があったが、今年はない。昨年収穫した麦があれば今年の納税が楽であったのに、と農民に嘆かれたのだ。麦なので多少の保存は効くが、翌年に持ち越せるほどではない。


 ヴィルフリートにとっては時間を稼ぎつつ理性を保つための話題だったのだが、オリーヴィアはいつもの癖で真面目に考え込んでしまった。ヴィルフリートはこうした雑談の中で意見を求めることが多々あったからだ。


「……皆さん、麦の貯蔵に困っていらっしゃいましたね」

「ああ。なんだ、麦も砂糖に浸けるのか?」

「違います、それはさすがにおいしくないかと」


 やはり酔っぱらっているに違いない。オリーヴィアはまた笑う。


「今度は保管方法のお話ではありません。端的に、物納をやめればいいのではないでしょうか」

「……物納をやめる?」

「はい。いまは麦を何キロ納めよ、と決められておりますけれど、それを貨幣に換算してしまうのです」


 物納の難点は、まさしく腐ってしまうこと。特に三圃制に移行している今、生産高は以前に比べ格段に上がっているはず。その利を得るためには、腐らないものに換算する――すなわち換金すればよい。


「換金額も収穫高によって決めればいいでしょう。収穫量が多い年は安く、少ない年は高く買い取ればいいのです。貨幣には金や銀を用いれば、その真贋しんがんを見極めるのも容易ですし」

「……そういえば、最近東南から質のいい銀が入ってきていたな」

「はい。それであれば貨幣を流通させることができるかと」


 これはイステル伯爵領に限った話ではないはずだ。いちいち物納など、領主も農民も煩雑はんざつで面倒に違いない。オリーヴィアが付け加えれば、ヴィルフリートは「いい案だな」と頷いた。


「貨幣鋳造ちゅうぞう権に関しては教会と揉めそうだが、考える価値はあるな。帝都に戻り次第、グスタフと案を練ろう。さすがだな、オリーヴィア」

「恐縮です、殿下。例によって私の名は出ないに越したことはありませんが」

「……お前はいつもそう言うが、名前を出したほうが汚名をそそぐ機会にもなるのではないか? もとはといえばアーベライン侯爵のたくらみであるし、功績があればうるさく言う連中も黙らせられるだろう」


 ヴィルフリートがそう言ってくれるのはありがたかったが、自分の名前が大々的に出るのは避けたかった。それに、いまさらこの境遇が変わることなど望んでいない。オリーヴィアは心から「いえ、結構です」と辞退する。


「私は殿下の侍女ですから。殿下のお役に立てれば、それで構わないのです」


 そう口にすると、また少しだけ胸が痛んだ。ただ、少し前と異なりその原因がすぐ見つかるような気がする。


「……構わないのか」


 見落としていた何かがすぐ近くにある、ような――……。


「はい。殿下が皇帝となれますよう、この身をして殿下と――カーリン様に仕えさせていただきます」


 そうして、口に出してはたと気が付いた。


『ご覧になって、氷の皇子ともあろうヴィルフリート殿下があんなに熱い目でカーリン様を見つめて……』


『ヴィルフリート殿下の婚約祝いだよ』


『殿下の仕事のお手伝いも、ゆくゆくは妃である私がすることなのだから』


 ああ、そうだったのだ。走馬灯のように頭の中には“違和感”を覚えたときの光景が流れる。今まで感じてきたこの胸の違和感はそうだったのだ。


『皇族をたばかったというのであれば、首などという役に立たないものではなくその能力で責任を取り罪をあがなうべきです!』


 きっとあのときから、自分はヴィルフリートを恋いしたい始めていたのだ。


『オリーヴィアと言ったな。何の本を読んでいるんだ』


 いや、もしかしたら、ああして話しかけられたときに――。


「オリーヴィア」


 我に返ったとき、オリーヴィアはヴィルフリートに手を取られていた。


 いつもは鷲のように鋭い瞳が、そのときは妙に優しくオリーヴィアを見上げていた。いや、優しいだけではない、その瞳に映っているのはそんな簡単な感情だけではなく……。


「オリーヴィア、俺は――」

「殿下、こちらにいらっしゃいますか?」


 ノック音と同時のカーリンの声に遮られ、オリーヴィアはシュバッとでも聞こえそうなほど素早くその手を引っこ抜いた。


 間一髪、扉が開くより先にオリーヴィアは両手を体の前で揃えることができた。


 そうして入って来たのは夜着姿のカーリンで、オリーヴィアとヴィルフリートを見比べてぱちくりと瞬きし、「えっと……?」と可愛らしく小首を傾げた。


「殿下……、お部屋にいらっしゃらないのでどうされたのかと探していたのですが……」

「寝室を分けろとオリーヴィアに言いに来ていただけだ」


 オリーヴィアが口を開くよりヴィルフリートが先に返事をした。その返事は……、オリーヴィアの勘違いでなければ、途端に苛立っているように聞こえた。


「オリーヴィア、お前がこの部屋で休め。俺は別室を用意するようイステル伯爵を叩き起こしてくる」

「しかし殿下……」

「俺に二度同じ命令を言わせるな」


 らしくない不遜ふそんな態度と乱暴な言い方だったが、これはおそらく、カーリンの前でさきほどと同じ押し問答をするわけにはいかないからに違いない。オリーヴィアはそっと頭を下げた。


 その後ろでは、カーリンが状況を読めずにまごついていた。


「殿下、あの……」

「そして貴様はそんな姿でやしきを歩き回るな。招かれている側の礼儀がないのか」

「……申し訳ございません」

「分かったら寝室に戻れ。俺は別室で休む」


 今にも泣き出しそうな拗ねた顔に、オリーヴィアはギョッと狼狽してしまった、が、ヴィルフリートは無視して扉を開け放ち「で、殿下、お待ちください! 私も寝室に戻りますので!」とカーリンがその後を追いかけ、一人取り残されてしまった。


 まるで突然嵐が襲ってきて、そして去って行ったかのようで、オリーヴィアはしばらく呆然としていた。我に返った後はヴィルフリートに指先を掴まれた感触を思い出し、反芻し、一人で顔を真っ赤にし、続く言葉のことばかりを考えていた。


 そのせいで、カーリンがオリーヴィアの部屋を訪ねた理由を考えなかった。

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