40.没落令嬢、未来を誓う
それから少し他愛ない話をした。アメティスト家が領地を取り上げられ遠い北の地に追いやられただの、ヤーデ家が領民の信頼を取り戻すために奔走しているだの、シュヴァッヘ第三王子の体調はぐっと良くなったがやはり執務できるほどではないだの、今回の事件にまつわる世間話だった。
そして、話が途切れる度に、シャルフは「それから……」と話題を探し、エルザが「仕事に戻ったら? 忙しいんでしょ?」と促すと「山積みではあるが」と妙に歯切れの悪い返事をした。それでもってクローネはそのシャルフを微笑みながら見守っていた。
一体全体どういうことなのか。分からないまま、エルザの手元のカップは空になってしまった。間を持たせるために口に運び過ぎたせいだ。……いよいよここにいる理由はなくなった。
カチャンとカップを置く音が静かに響いた。
「ではシャルフ様――いえシャルフ殿下、二月の間でしたがお世話になりました」
立ち上がり、最上級の礼を取る。散々口喧嘩をした仲だが、相手は次期国王と目される第四王子だ。これからは顔を見ることも許されない関係になる。
「今後の殿下のますますのご活躍と、シュタイン王国の繁栄をお祈りしております」
そうして下げた頭をもう一度上げる前に手首を掴まれた。ほっそりしたエルザの手首は、シャルフの指で掴むと一周してなお余る。
驚いて顔を上げた先で、シャルフは何かを言いたげに口を開く。何かを求めるような、逆に何かを与えようとして逡巡しているような、そんな表情だった。
「……シャルフ殿下?」
「……シャルフでいいと言っただろう」
「……もう契約妃でもありませんし。おそらく今後お名前を呼ぶ機会もありませんが……」
「……機会の問題ならどうにでもなる」
「え――」
腕を引き寄せられ、そのまま腰を抱かれる。エルザの頭には前回紅茶を淹れたときの光景がフラッシュバックした――が。
「殿下、失礼いたします」
寸でのところでノックと同時に扉が開き、エルザは慌ててシャルフの胸に手をついた。
入ってきたフィンは2人の態勢を見てしばらく停止したが「……馬車の準備ができましたので報せに参りました」と機械的に口にする。
「……お取込み中であれば少々待たせますが」
「いえ何も! 何も取り込んでいませんよ、フィン様!」
また口づけられるのかと思ったが、よく考えれば今のシャルフはクローネが見えているのだ、そんなことは有り得ない。慌ててシャルフの腕を解いて立ち上がる。
「馬車のご手配、お手数をおかけいたしました。ありがとうございます。クローネ、帰りましょう」
「……はあい」
バタバタと慌てて荷物を片付け始めたエルザは、シャルフに首飾りを渡したままであると忘れてしまっていた。クローネは気付いていたが、あえて指摘せず、なんならベッとシャルフに舌を出した。
「では殿下、私はこれで!」
「……馬車まで送る」
「え、そこまでしないでいい――ですよ、お忙しいんでしょうし」
「うるさい」
「ちょっと! 人が気遣ってるっていうのにうるさいって何よ!」
偉そうに回廊を歩くシャルフとその後ろで憤慨するエルザを見ながら、クローネは「お互い苦労する主人ですね」とフィンに囁いた。フィンは何も言わなかったが、珍しくその顔が雄弁に返事をしていた。
馬車の前まで来ても、シャルフは何かを考えこんで口を真一文字に結ぶだけ。エルザも「本当に感じ悪いんだから」と憤慨しながら馬車に乗り込もうとしてしまう。
「エル、待ってくれ」
それを止めたのは――ラルフだった。
「ラルフ様?」
下馬するラルフのもとへ、エルザが慌てて駆け寄る。シャルフはじろりと目だけでラルフを睨み、フィンとクローネが「あーあ」と言いたげな顔をするが、エルザからは見えていない。
「私に何か御用でしたか?」
「ああそうだな……」
ラルフの美麗の双眸はちらりとシャルフに向く。王とその臣下だと知っていてなお意味深な視線に見えるのだから、ラルフの美貌は恐ろしい。
その視線を戻し、ラルフは改まってエルザの手を取った。
「俺と結婚しないかと訊きにきた」
「え?」
「えっ!」
「は?」
エルザは思わず訊き返してしまったし、クローネはまるで自分が求婚されたかのように頬を染めたし、フィンは胡桃を丸のみしたような顔をしたし、シャルフは剣呑な声を上げた。
「え、あの、え? 聞き間違いでなければ……結婚とおっしゃいました……?」
「間違いではない。心配せずとも、俺は面倒事を抱えるのが嫌いでね。エルと結婚した暁には他に妻を抱えるつもりはない」
そんな心配をしているのではなく、ただただ困惑しているのだが。そう口に出したいのはやまやまだったが、間近の美貌に迫られているせいで顔に熱がのぼり、そのまま言葉が迷子になってしまった。
「あ、あまりに唐突で……その、なんと言ったらよいか……」
「一言是と答えてくれればそれでいい」
「いえそのそういうことではなく……、私、ベルンシュタインの血を引いておりますし……」
それは方便ではなくどこまでも付きまとう心配事だったのだが、ラルフは「なおのこと良いじゃないか。その気になれば玉座も奪える、優秀な一族の血だ」と言い切ってみせた。
「君の能力そのものを目にしたわけではないが、先日の一件でその偉大さは充分に知っている。ヅィルバーグランツ家は俺で最後であるし、誰に文句を言われるでもない。まあ、ベルンシュタインの末裔を娶るには少々格が足りんかもしれんが、そうと言うならこれからいくらでも武勲を立てよう」
「と、んでもございません、ヅィルバーグランツ侯爵家と不釣り合いなのはむしろ私の……」
エルザの頭は軽く混乱していた。想い人はすぐそこにいるものの、シャルフ側の気持ちは判然としないし、何より身分が違い過ぎる。それに対して、ラルフはこうして真向から求婚してくれているし、エルザを魔女だと差別せず、むしろ大歓迎くらいの勢いだし、身分の差は多少あるがラルフ本人が気にしないのであれば障害はないし、何よりこの美貌……。
これから森に戻ったところで何をするわけでもない。シャルフとどうにかなる未来はないし、ここでラルフの手を握り返したほうがいいのだろうか……? 鼓動が高鳴るのを感じながら真剣にそう考えてしまう。
そうして大真面目に考え込むエルザの横顔に、シャルフはこめかみに青筋を浮かべた。
「……クローネ、あれはどういうことだ」
「はい、エルザ様は恋愛経験値が非常に少なく、また幼少期に魔女と呼ばれて以来引き籠っておりましたので、男性に対する耐性がないのです。ましてやラルフ様はこの世のものならざる美貌の持ち主と言っても過言ではありませんし」
「だからどういうことだと聞いている」
「はい、エルザ様は殿下のことを憎からず思っているかも!しれませんが」
エルザの明け透けな本心を知りつつ、クローネは「かも」を強調した。
「あくまでエルザ様を魔女と知りつつ差別しなかった初めての男性が殿下であるに過ぎません。他の男性にもあのように差別なく扱われれば意識するのは当然のことです。特に女性は変化球より直球に弱いです」
「……何が言いたい」
「さあなんでしょう」
満面の笑みを向けられ、シャルフは危うく借りたままの首飾りを握りつぶすところだった。
そうこうしているうちにも、ラルフは「他になにか躊躇う理由が?」とエルザの手を引く。
「い、いえ、理由……というか、そうですね、その、まだ知り合って間もないですし……」
「それならしばらくズィルバーグランツ領で暮らしてはどうだろう。国境近くは戦は絶えないが、中心地はかなり栄えていて住みやすいしな」
「ズィルバーグランツ領で、ですか……」
「フィンから聞いたが、次の仕事を探しているそうだな。俺の行きつけの鍛冶屋が手伝いを探しているそうだがどうだ。ズィルバーグランツ領の中心地の――」
「いい加減にしろ」
その2人の間に、ようやくシャルフが割り込んだ。突然腕を掴んで引き離されたエルザは目を白黒させるが、ラルフは「ほおー」と面白そうに頬を上げる。
「どうかしたか、殿下。エルは
「曲りなりにも俺の妃だった女を横から口説くなと言っている」
「全然理屈が通っておりません、シャルフ殿下」
「あの……シャルフ様、手を離していただけます……? というかクローネのいうとおり、何をそう怒って……?」
「俺が口説いたときは頬を染めもしなかっただろう!」
え……? 拗ねたように声を荒げるシャルフに、エルザは目を丸くした。
何言ってんの? シャルフ以外の全員に困惑の色が浮かんだ。シャルフが一体いつエルザを口説いたというのか。側近のフィンはもちろん、当人のエルザも全く身に覚えがなかった。
「……いつのお話ですか?」
「軍務でグラオ地方に行く前だが」
「……どのお話ですか?」
「紅茶を淹れてくれと言った」
「……失礼ですけれど、どのあたりが口説いているんですか?」
「君の淹れた紅茶が飲みたいと言っただろう」
「……軍務からお帰りになったらもう一度同じ紅茶が飲みたいというお話ではなく?」
「ただそれだけのことをわざわざ口に出すわけがあるか」
「……口に出すくらいには気に入ったんだと思っていました」
「それは紅茶ではなく――……」
さきほどと同じ声の荒げ方だったが、すぐにその勢いがしぼむ。軽く頬を染め、シャルフは誤魔化すように腕を組んだ。
「……惚れてもいない女を傍に置きたがるほど物好きじゃない」
苦々し気に、しかし大真面目に言われ――エルザは思わず吹き出してしまった。
「……なにがおかしい」
「だって、貴方からそんな言葉を聞くと思ってなかったから」
ぼんくら演技中は恥ずかしげもなく「愛する」も「美しい」も散々口にしていたくせに、いざとなるとたったそれだけのことをそんな顔で、しかもそんな言い方しかできないなんて。
笑うエルザにどんな顔をしていいか分からず、シャルフは顔ごと視線を背けた。しかしその先ではクローネが目を半月状にして微笑んでいたので腹立たしい気持ちが湧いてきた。主人が主人なら守り人も守り人だ。
「契約妃と明らかになってもなお式典で隣に座らせていたのはやはりそういうことか。真っ直ぐなのは剣筋だけだな」
「私は殿下がベルンシュタインの血を利用するためだと思っておりましたが」
「フィン様は色恋に興味がなさすぎます。ちなみに殿下、いつからですかぁー?」
「外野は黙っていろ」
「……でも本当に、全くそんな素振りは見えなかったわ」
思い返してみれば妙に庇ってもらったような、優しくされたような、そんな気はするのだが、いかんせん態度が態度であったし、頑なに婚約者の存在を否定しなかった。
でもそうか、いつからか知らないけれど、そうだったのか。胸を高鳴らせてしまうよりもただ頬を染めて、エルザは――ラルフに向き直る。
「ラルフ様、私は――シャルフ殿下をお慕いしておりますので、ラルフ様と結婚はできません。さきほどのお話はお断りさせていただきます」
「まあエル、そう即断することはない。殿下と添い遂げるつもりはないのだろう、その気になったときに俺を選べばいい話だ」
「お前はいい加減にエルザを愛称で呼ぶのをやめろ、そしてエルザ、言う相手が違う」
ラルフが懲りずにエルザの手を取ろうとする、それが払い除けられた。
「俺を慕っているというなら俺に言え」
「……言わないわよ」
「は?」
シャルフの手はそのままエルザの手を握ろうとしたが、エルザはそっとそれを押し返した。
「今回のことで、いよいよ貴方が次の王になることは決まったようなものでしょう。応援してるわ、貴方はきっといい王になる。……でもそれを、ベルンシュタインの血を引く私が――この国で異端とされる魔女が、邪魔するわけにはいかない。アダマスの祝福を受けた貴方が、アウレウスの加護を受けている私と一緒にいるわけにはいかないって、分かるでしょ?」
木漏れ日のように微笑み、エルザは身を翻した。
「だから、これでさよならよ。……でも、貴方が即位した後、国が危険に晒されるようなことがあればいつでも頼って。ベルンシュタインの力は――本当は、ディアマント家と共にこの国を守るために与えられたのだから」
じゃあね、と馬車に足をかけたとき、その体が強く引き寄せられる。
気付けば、真正面からシャルフに抱きしめられていた。
「……アウレウス教異端宣言を撤廃させる」
呆気に取られたエルザの、ダークブラウンの髪に顔をくすぐられながら、シャルフは目を閉じた。
「俺が王になり、正史を改め、アウレウス教信仰を認めさせる。君がアウレウスの加護とベルンシュタインの血を引いているがゆえに俺と一緒にいられないというのなら、俺がこの国を変える」
1年や2年の話ではない。3年か5年、それよりもっとかかるかもしれない。それでも。
「だから、少しだけ待っていてくれ。必ず迎えに行くから」
胸が震えるのを感じたときには涙ぐんでいた。それは想いが通じたから、だけではない。
「……ありがとう、シャルフ様」
まだ弱々しい春の日差しの中、その体温を分かち合おうとするようにしっかりと抱き合った後、そっと唇を寄せる。
「十年でも二十年でも、ずっと待ってるわ」
数年後、シャルフ・ベンヤミン・ディアマントはシュタイン王国国王として即位する。彼は、アダマス教国教化を廃止すると共にアウレウス教異端宣言を撤廃、両宗教の歴史的和解を果たし、王国全土に信教の自由を認めたうえでエルザ・クリスタルを唯一の妃に迎える。
黄金時代とたたえられた彼の治世は、クヴァルツ家により記録され、シュタイン王国正史として現代に語り継がれている。
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