39.没落令嬢、無職になる
ちょうどエルザが着替えを終えたとき、部屋の扉がノックされた。返事をしながら振り向くと、部屋の主が入ってくる。相変わらず政務に追われているらしく、その服は慌ただしそうに乱れていた。
「おつかれさま、シャルフ様。ちょうどよかったわ、これからご挨拶にうかがうところだったから」
「何か用か?」
「何かって、帰るんだから挨拶くらいするわよ」
そんな恩知らずだと思われていたなんて心外ね、とエルザは台詞のとおり呆れた顔をする。
目が覚めたとき、エルザはシャルフの寝室で眠っていた。エルザの素性が知られていることを危惧したシャルフが自分の寝室に匿ってくれたらしい。
そんなエルザは、加護を使った後、三日三晩眠っていた。丸3日間飲まず食わずで眠り、しかも惜しみなく加護を使って体力も消耗していたため、その体は投獄中以上に疲弊していた。結果、目が覚めたところで起き上がることもできず、目覚めて丸2日経った今、ようやく起き上がることができるようになった。
そうなるまで回復すれば、最早エルザが宮殿にいる理由はない。ベルンシュタインのことはバレずに済んだとはいえ、いつどこから素性が漏れるとも知れない以上、あえて敵地に留まる理由はなかった。
「……帰る?」
しかし、ソファに横柄に腰かけていたシャルフは寝耳に水のような顔をしていた。隣に腰かけながら「なにその顔。帰るに決まってるでしょ、私、いまただの客人だもの」と肩を竦める。
ちなみにエルザがベッドを占領していたため、シャルフはそのソファでずっと寝起きしていたらしい。それをクローネから聞かされたエルザは本当に申し訳ない気持ちになってしまったし、シャルフの優しさに胸を高鳴らせるよりもお詫びに何をさせられるか頭を悩ませる羽目になった。今もなおその答えは出ていないが、何か要求されれば可能な限り答えるつもりではいる。
「……今日はクローネは」
「フィン様のところよ。クローネったら、本当にフィン様のことが好きよね」
エルザはベルンシュタインの血を引きながらディアマント家のシャルフを、クローネは魔女でありながら人間のフィンを、というのは、この主人にしてこの魔女あり、というべきかもしれない。自分とクローネに向け、エルザは溜息を吐いた。
「ほら、覚えてる? 私がフィン様の部屋で歴史の話を聞いてたことがあったでしょ」
「そういえばそんなこともあったな。寒い廊下で何時間待たされたことか」
「そ、それは悪かったって謝ったじゃないの……」
そうだ、あのときのシャルフはかつてなく不機嫌だったのだ。やや話題の選択ミスをした。
「あのとき、フィン様がクローネに紅茶を出して名前まで聞いたものだから、クローネったらフィン様のことがお気に入りで……。アウレウス教の信徒なんて会ったことがなかったし、名前を聞かれたのなんてもしかしたら初めてだったのかも……」
人(ではないが)が恋に落ちる瞬間をこの目で見てしまったかのようで共感性羞恥に襲われてしまった。しかも思い返していると自分がシャルフを好きになってしまったのも似たような理由だったと気付き、頭を抱えたくなった。やはりこの主人にしてあの魔女だ。
「……ところで、帰るとはなんだ。またあの森に帰るのか」
「んー……とりあえずは、そうね」
「とりあえず?」
「今回はバレなかったみたいだけれど、さすがにあんなに派手に加護を使ったから。落ち着いたら、クリスタル領を離れて別の森を探すつもり。ちょうどフィン様が紹介してくださった仕事にミヌーレ王国のものがあるし、国外へ行くのもいいかもしれないと思って」
話しながら、フィンから渡された書簡を広げる。フィンらしい、仕事先とその住所、待遇がリストアップされただけの無機質な羊皮紙だ。決めたら連絡をくれれば口を利く、とのことだった。
「でも、ミヌーレ王国ってあまり水が綺麗じゃないでしょ。だからできれば国境沿いがいいなと思ってるの」
「…………そうか」
「なによその顔」
「……紅茶を淹れてくれと頼んだだろう」
「紅茶? ……ああ」
エルザが投獄される前、シャルフが軍務で留守にする直前に淹れた牛乳入りの紅茶のことか。そういえばまた淹れてくれと言われていたのだ。
――口づけの後で。余計なことまで思い出してしまったエルザは、赤面する前に素早く立ち上がった。
「あれね! 牛乳を温めなきゃいけないからちょっと調理場を借りてくるわ!」
「温めるのは侍女に任せればいいだろう。君が宮殿内を歩き回るのを説明するのが面倒だ」
「私が温めたい気分なの! この手で!」
部屋に2人きりでいるのが居た堪れないとは言えず、エルザはそれだけ告げて部屋を飛び出した。残されたシャルフはもちろん、不機嫌そうに頬杖をついたままだった。
調理場で一人になったエルザは、薪をくべながら「無理……無理……」と気が狂ったように呟く。
「だめだわ、あの王子ただでさえ顔だけは良いし、最近やたら距離近いし妙に優しい気がするし! このままじゃ心臓が持たないわ、加護なんて目じゃないくらい神経が狂いそ……」
「エルザ様ぁ」
「ぎゃっ!」
恥ずかしさとおりこして呪いそうな勢いで呟いていたせいで、ひょいと顔を覗かせたクローネに飛び上がってしまった。フィンがいるとしたらマズイ、と慌てて視線を動かしたが、いるのはクローネだけだ。
「フィン様は? もういいの?」
「はい、楽しくお茶をして参りましたので。馬車を手配してくださるとのことで行ってしまわれました」
牛乳の入ったお鍋を見たクローネは「あー、紅茶ですね」と頷く。
「シャルフ殿下ですか?」
「な、なんで分かったの……」
「顔に出てます。結局シャルフ様に正式に王子妃にしていただくよう頼んでいらっしゃらないんですか?」
「頼むわけないでしょ何言ってんの!?」
婚約者がいると頑なに言い張っていたと思ったら裏切りそうな官僚に目をつけるためだった、なんて言われたところで、そもそもベルンシュタインの血を引くエルザが王族に嫁げるわけがない。シュタイン王国でアウレウス教は異端、それこそアマーデウス主教にでも見つかろうものなら問答無用で焼き殺されるに違いない。
「ベルンシュタインがディアマントと婚姻するなんて、まさに
「でも結局バレませんでしたし、今後も加護さえ使わなければ大丈夫でしょう。シャルフ様は“征服されざる者”という最強の祝福をお持ちですし、あの美しきラルフ様も一騎当千ともいうべき実力の持ち主ですから、エルザ様の身が危険にさらされることはないでしょうし」
「そうだとして、シャルフ様も今更クリスタル家の末娘なんて娶らないわよ」
王は、あらぬ罪を着せられて滅びたクリスタル家を悼み、処断時に剥奪していた侯爵の地位を戻してくれた。だから一応エルザの身分は侯爵令嬢だが、家のない侯爵令嬢に価値などない。商人上がりの伯爵令嬢を娶るほうがよほど利益がある。
「……この調子だと、次に即位なさるのはシャルフ様でしょうし。私はあの人が王になるのを邪魔したくないし、王になった後の足枷にもなりたくないわ」
いつの日か口にしたことをもう一度口にして決意を新たにする。シャルフとエルザは、どう転んでも結ばれることはない。
「分かったら、いい、この話は絶対、シャルフ様の前ではしないでよ」
「えー……」
「絶対だからね!」
つまらなさそうに頬を膨らませるクローネを連れて部屋に戻り「クローネもいるわよ」と伝えると、なぜかシャルフまで少し嫌そうな顔をした。そういえば一方的に話を聞かれるのは厄介だと零していたと思い出して、荷物の中から首飾りを取り出す。
「首飾り、貸しておくわよ? クローネと積もる話もあるだろうし」
「ないが?」
「なによ、感じ悪いわよ」
「そうですよシャルフ殿下、せっかくの綺麗なお顔が台無しです」
「聞こえるようになった途端に罵倒をするな。主人が主人なら守り神も守り神だな」
「“守り神”……“守り神”ですか! いいですね、シャルフ殿下!」
苦々し気に零されたことなど意にも介さず、クローネは嬉しそうに手を握りしめた。“魔女”呼ばわりされてきたのでそう名乗ってきたとはいえ、そのほうが断然良いのは分かる。
「これからそう名乗りますね! あ、でも私達にとっての神はアウレウスですし……今後は“守り人”と呼んでいただけると」
「限りなくどうでもいい話だな」
「でも今後も私にお会いすることは否定されないのですね」
どこか企むような笑みを向けるクローネと、それに対して更に忌々し気に顔を歪めるシャルフ。まるで以心伝心ともいうべき2人にエルザは目を白黒させてしまった。
「……貴方もクローネが気に入ったの? 感じ悪いと思ったら照れ隠し……?」
「……君は馬鹿なのか?」
「何よ急に! 最後まで嫌な王子ね、ほら紅茶よ」
高価な陶器でなければ叩きつけていたところだ。憤慨しながらもお望みの紅茶を出したというのに、シャルフはやはりどこか不機嫌であった。
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