36.没落令嬢、恨みを買う
翡翠の宮殿は、シャルフが最初に言ったとおり、いささか物々しい雰囲気に包まれていた。
シュヴァッヘ第三王子の病気のせいか、宮殿内の侍女や使用人達はどことなく暗かった。なんとなく空気も淀んでいるような気がしてしまい、エルザは顔をしかめてしまう。
「こんなんじゃ治るものも治らないわよ。シュヴァッヘ殿下、少し散歩でもしたほうがいいんじゃない?」
「王都から少し行けば綺麗な滝がありましたものね、いいと思います。それよりエルザ様、どうされたのですか?」
「シュヴァッヘ殿下の体調が白魔術で少し良くなったって話、覚えてる?」
ビアンカが毒を盛られたお茶会でアレクシアが話していたことだ。クローネは「ええ」と頷く。
「白魔術はあくまで黒魔術と対になるものであって、病を治すことはできないはずですが……」
「そのはずよね。でも、シュヴァッヘ殿下に黒魔術がかけられていたとしたらどうかしら」
「……シュヴァッヘ殿下に、ですか?」
黒魔術の内容は様々だが、共通点として、かけられた者の体を徐々に
「でもシュヴァッヘ殿下のご様子って……あれ、どうだったでしょう?」
「見てないのよね。だっていつも体調が優れなくて欠席か途中退席かだったし、今日だって珍しくいらっしゃったと思ったら半分目を伏せていらっしゃって分からなかった」
速足で目的の部屋へと突き進みながら、エルザはぎゅっと手を握りしめる。なぜ、最初に気が付かなかったのだろう。
「シュヴァッヘ殿下に黒魔術をかけた人物と陛下に黒魔術をかけた人物は同じに違いないわ。ただ、シュヴァッヘ殿下にかかっていた黒魔術は徐々に薄れてきているのかも。陛下の黒魔術は主教にしか解けなかったんでしょうし、さすがに人海戦術じゃ体調がよくなるとまでは――」
シュヴァッヘ第三王子の寝室に差し掛かったエルザは、そこで言葉を切る。修道士が集まっていてクローネと話すわけにはいかないし――何より目的のものはそこからでも見えた。
「……紫陽花色」
「どうかなさいましたか、エルザ様」
穏やかで静かな声に呼ばれ、ゆっくりと振り向く。
ヴィルヘルミナの服装は、式典中と変わっていなかった。優しく結った萌黄色の長い髪には春の白い花を挿し、新緑色のドレスを身に纏っている。彼女自身が春を体現したかのような明るく華やかな装いだ。
「そちらはシュヴァッヘ様の寝室ですよ。どうかなさいましたか?」
「……ええ。お加減が悪いようですので、少し様子を見に」
「お気遣いいただきまして。でも大丈夫ですよ、修道士の方々がいらっしゃってますから」
穏やかな瞳がエルザを見つめ――だから余計な詮索をせずに帰れ、そう伝えてきているような気がした。
「……お尋ねしたいのですけれど、ヴィルヘルミナ第三王子妃様」
「なんでしょう、レディ・エルザ」
その呼び方は、エルザの立場が変わったことを意味する。
「なぜ貴女は、陛下の様子がおかしいと知っていたの?」
最初の最初、アレクシアに誘われて行ったお茶会で、アレクシアが口にした――事件以来、陛下の様子が……と。
ビアンカが席を立ったことでその続きを聞くことは叶わなかったし、当時は体調が悪いのかくらいにしか思わなかったが、思い返してみれば、王が黒魔術にかかっていると当時気付いていたのはシャルフくらいだった。目撃していたビアンカはともかく、なぜアレクシアが知っており、またヴィルヘルミナがアレクシアの発言を気に留めることもなかったのか。
アレクシアに関しては、もしかするとアルノルト第五王子から聞いたのかもしれない。ただ、シャルフが言っていたようにアルノルトは魔術に疎く、些細な違和感を覚えたにとどまり「様子がおかしい」と伝えたに過ぎなかった、とか。
「……ヤーデ家にあまり目立った功勲はありませんが、魔術の素養は確かなのです。正教会に務める者も多いですよ」
「つまり見て分かっていたということ? それならどうして正教会に報告しなかったの? 一族に正教会の修道士も多いんでしょう?」
でも、じゃあ、ヴィルヘルミナは? シュヴァッヘ第三王子は宮殿に籠りきりでろくに王に会っていないから情報源足り得ないのに?
「陛下に黒魔術をかけていたのは貴女? 動機はなに、王位継承権の問題? オットー第一王子を処刑に追いやったのも、ハンナお姉様を理由にクリスタル家を処刑したのも――」
「レディ・エルザ、やめてくださいな」
矢継ぎ早に尋ねるエルザに、ヴィルヘルミナは困った顔をした。
「私、レディ・エルザが好きでしたのよ」
エルザ様にいてほしかったのですが残念です――ついさきほども、ヴィルヘルミナは
そうやってエルザのことを惜しんでくれた。
「どこの貴族でもない貴女なら、王妃となっても殺害するのは容易いですから」
エルザが息を呑んだのと、ヴィルヘルミナが口を開きなおしたのが同時だった。
「“
「風の
ピッ……と首に圧がかかるのを感じ、慌てて精霊を呼んで押し返す。ゴッ、と
「あっぶなかった……首が落ちてたわよ」
「見た目とは裏腹に好戦的な方のようですね、ヴィルヘルミナ様は」
「レディ・エルザ、魔術が使えたんですね」
意外そうに目を丸くしながら、ヴィルヘルミナは次を構える。
「でも今のは魔術というより……。……その髪」
騒ぎを聞きつけて人が集まり始め、エルザの髪色が晒された。
ヤーデ家の一族はアダマス正教会に務める者も多い。そしてアダマス教は、親の仇より憎いアウレウス教に関する情報をしっかり握っている――つまりベルンシュタインの情報を。
「……貴女、ベルンシュタインの末裔ですか?」
「クローネ、とりあえず逃げるわよ!」
宮殿内で加護なんて使っていたら誰を巻き込むか分からない。エルザは2階にも関わらず窓から飛び降り、風の精霊頼りに勢いを殺して着地する。駆け出せば、宮殿内から見ている者達が騒然とするのが分かった。
「レディ・エルザを追ってください! シュヴァッヘ様に手をかけるところでした――彼女はベルンシュタインの魔女です!」
「魔女は私です!」
「そこじゃないでしょ、クローネ」
憤慨したように声を張り上げるクローネを背に、さてどこへ逃げるかと頭の中で考えを巡らせる。
「加護を使って問題ないのはどこ? 庭園? 木が邪魔ね、もっと開けた場所がいいわ。でも敷地の外に出て人を巻き込むわけにもいかないし……」
「それよりエルザ様、瑠璃の宮殿に置いてきた荷物はどうしましょう?」
「ドレス――はどうでもいいけど腕輪と首飾りは困るわね。シャルフ様が拉致するせいで式典会場に持ってこれなかったのよ!」
いやあの会場にいかにも
「ベルンシュタインの血のことはバレちゃったし、どうせもう
「そうおっしゃるのでしたら最初からシャルフ様にお伝えすればよかったじゃないですか」
「あの場だと色んな兵がいたし、魔術の痕跡だって見てなかったから確証はなかったし――何よりハンナお姉様のことだから私が言いたかったのよ!」
ハンナの汚名を晴らすことに拘泥し下手を打ったことは分かっている。しかしそうしないと気が済まなかったのだから仕方がない。
「でもエルザ様、どうやってシャルフ様を? 私が行って参りましょうか?」
「いえ、クローネは傍にいて。シュヴァッヘ殿下のところに集まっていた修道士が束になってかかってくるかもしれないし。シャルフ様への伝言は馬でも借りて――」
しかし、万事休す。厩舎へ向かう途中にずらりと修道士が並び、行く手を塞いでいた。
エルザは注意深く、並んでいる修道士を端から端まで観察する。真ん中にヴィルヘルミナがいる時点で分かっているようなものだが、全員黒魔術にかかっている。
「エルザ様、足が速いのですね。しかも窓から飛び降りるなんて、お転婆が過ぎますよ。びっくりしてしまいました」
「ヴィルヘルミナ様こそ、話の途中で白魔術を使うのは品がありませんよ。他人の話を遮るものではありません」
「魔女は人ではないでしょう?」
穏やかでどこか自信なさげに下がった眉とは裏腹に、その双眸には強い意志が宿っている。考えてみれば、王子の妃となる令嬢はビアンカやアレクシアのような気の強さがないとやっていけない。ヴィルヘルミナの本性は推して知るべしだ。
「……ヴィルヘルミナ様も表と裏があるのね。シャルフ様と仲良くなれるんじゃないかしら」
「光栄です。以前申し上げましたとおり、私はシャルフ様の第二王子妃になるのも吝かではございませんから。ああでも、エルザ様がいらっしゃらないのであれば第一王子妃にしていただけますわね。そう考えると、ここでお亡くなりになっていただけると幸いです」
相変わらずシュヴァッヘ第三王子は既に死んだかのような口ぶりだった。ヴィルヘルミナ自身が黒魔術をかけていたのだとすれば不思議ではない。
「……シュヴァッヘ殿下には何の黒魔術をかけたの? 病気がちなのはもとからよね?」
「もちろんです。せっかく嫁いだのに即位の前にお亡くなりになられては困ります。私は私を娶っていただくようお願いしただけです」
ただ、ちょっと黒魔術にお体が耐えかねているようですね――そんなことを嘯いた。
「ところで、レディ・エルザはさきほどハンナ・クリスタルのお名前を口にしましたね。お姉様とおっしゃいましたか?」
「……ええ、そうよ」
「あら。じゃあ私、とっても運が良いですわ」
ぱっ、とヴィルヘルミナが目を輝かせる。急に晴れ空が広がったような笑顔だった。
「私、本当はオットー第一王子に嫁ぐ予定でしたの。でもハンナ・クリスタルとの婚姻が決まって私のものは破談となり、大変心苦しい思いをしたのです。ですから、ハンナ・クリスタルはもちろんのこと、クリスタル家の方々全員に私と同じ
逆恨みどこではない言い分に、エルザは反吐でも出そうな顔をしてしまった。視線の先ではクローネも同じ顔をしている。
「でもご安心ください、レディ・エルザは既に一族を亡くしていらっしゃいますから。エルザ様おひとりの命をくだされば、それで充分ですわ」
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