32.没落令嬢、王子を罵る

 でも、何も収穫がなかったわけではない。ハンナの無実を知っている人間は、自分以外にもいる。


「……色々奔走してくれたのね。ありがとう」

「別に君のためじゃないんだが」

「そうだけど私が契約妃を引き受けた理由だったもの。……そういえば貴方、オットー第一王子とは仲が良かったみたいだけれど、ハンナお姉様と面識はあったの?」

「まあ、それなりに。君の話はよく聞いた」

「え? なによそれ初耳なんだけど!」


 驚きのあまり乱暴にカップを置いてしまい、ガチャッとソーサーが揺れる。しかしシャルフは「言っていなかったか?」くらいの温度感で小首を傾げるだけだった。


「家を出て森に引きこもっている妹がいると。呼び寄せたいのだが断られてしまったこともあり、王子妃となって以来すっかり会えなくなって寂しいといったような話は聞いていた」

「……そうだったの」


 ハンナから、侍女となって宮殿に来ないか、姓は伏せることもできるし――そう誘いを受けたときのことを思い出す。家を出た末娘だったと明るみになってハンナの宮殿での立場が悪くなっては申し訳ないと断ったのだ。


「というか、いくらクリスタル家の“魔女”の存在を調べ上げることが可能だったとはいえ、そうでなければ君を見つけられたわけがないだろう。誰があんな酒場に好き好んで出入りするものか」

「え、あの手の平民御用達の酒場が行きつけなんじゃなかったの?」

「は?」


 ほんの少しの思い出に浸ってたところを、心外そうな声で現実に引き戻された。シャルフを見ると、その端正な顔を不愉快そうに歪めている。


「俺のことを何だと思ってるんだ?」

「……ぼんくらに見えて実は超腹黒で性格と口の悪い第四王子」

「悪口は陰で言え。ハンナ義姉上に頼まれて君を探していたんだ」

「……頼まれて?」

「ハンナ義姉上が投獄された後、処刑される前に一度会いに行った。クリスタル家は一族皆捕縛されているが、末の妹が見当たらず、気がかりだから頼むとな。間が悪く、酒場に口を利いたとしか聞けなかったせいで随分苦労した」


 シャルフが苦労を形にしたような重たい溜息を吐く隣で、エルザは再びハンナのことを――白水の宮殿で見た肖像画を思い出す。

 いつも穏やかに微笑み、エルザの名を呼んでくれたハンナ。自分も姉たちと同じ赤毛がよかったと口を尖らせると「私はエルザの暖かい髪色が好きよ」と微笑み、いつも可愛く結ってくれた。

 他の兄姉も分け隔てなくエルザに接してくれていたとはいえ、誰よりもエルザを可愛がってくれた。部屋に閉じこもりきりになったエルザをいつも外へ誘ってくれたのもハンナだった。

 エルザ、といつも優しく呼びかけてくれていたハンナの声が聞こえるようで、エルザはそっと目を閉じる。


「王子妃になって軽々しく会えなくなってしまいすっかり疎遠になっていたけれど、ハンナお姉様はずっと私のことを気にかけてくれていたのね」

「そっちか?」

「……どっち?」

「…………なんでもない」


 少し涙ぐんでいるエルザを見、シャルフは辛うじて言葉を呑みこんだ。


「それより、もうすぐ式典の時間でしょ。そんなだらしのない恰好をしていていいの? 婚約者にフラれるわよ」

「お互い惚れこんでるからな、その心配はない」

「気ッ持ちワル! 貴方の口から惚れた腫れたなんて聞く日がくるとは思わなかったわ」


 胸の痛みを隠すために悪態をつき、エルザは席を立つ。シャルフの視線がそのままエルザを追った。


「……何をしている」

「何って、帰り支度よ。婚約者様が式典に来た瞬間に私は宮殿を出るんだから、荷物をまとめておかないと」

「そう焦る必要はないと思うがな」


 こっちの気も知らないで悠々と、とエルザは再び内心で悪態をつきながら片付けを進めていたが、背後からぬっと伸びてきた手と――その手のひらに載っているものを見て手を止めた。


「……それ」

「宮殿に来た頃、白水の宮殿で君を襲った盗賊が持っていた盗品だ。ハンナ義姉上の遺品だろう、持って帰れ」


 シャルフの手のひらには銀の腕輪が載っていた。くすんでいて分かりにくいが、琥珀石が埋め込まれている。ハンナがエルザの家を訪ねるようになったときにクローネの存在を明かすと共に贈ったもので、亡き母の形見の一つでもあった。

 盗賊は琥珀石の飾りを持っていたに違いない、確かに、その話はした。


「……盗賊の死体は始末してたんでしょ? わざわざ探してくれたの?」

「死体を始末する前に盗品は国庫に保管していたからな」


 じゃあ、その国庫からわざわざ探してきてくれたのだ。王が黒魔術にかかっていたと判明したことで多忙に多忙を極め、毎晩遅くまで執務に追われていたこの数日間の間に、そんなことに時間を割いて。


「……ありがとう」


 その手から受け取った腕輪を、エルザはそっと額に押し当てる。さきほど一瞬だけ溢れたハンナへの哀しみが、明確な涙となって零れ落ちた。


「お姉様の遺品で、お母様の形見でもあるの。私がお姉様に贈ったものだったから」


 エルザは振り向きながら、儚げな花のように微笑む。


「ありがとう、私の手に戻してくれて」


 ガタ、とエルザの荷物が音を立てた。


 三度目の口づけだった。そっと優しく触れる唇に、二度目と同じく、エルザは呆然として目を閉じることができなかった。代わりに瞬きをすると、ぱたりぱたりと涙が零れ落ちた。

 「好き、だから妃になる、なんて簡単なお話でしょう」――ディアマント家とベルンシュタイン家の確執を知りながら気楽に言ってのけたクローネの言葉を思い出す。

 口づけの角度が変わり、短く息を吸った。その次の瞬間にはもう一度口づけられ、つい、その甘さに酔って目を閉じそうになってしまう。

 「シャルフ様もやぶさかではないでしょうし」――クローネはそう話していた。

 シャルフも、吝かではない……。


『第妃に立候補すればシャルフ様も助かるのでは』


 が、現実を思い出したエルザはカッと目を開け、無理矢理唇を離した。

 パァンッと三度目の平手打ちの音が響き渡る。

 エルザを見返すシャルフはびっくりした顔で頬を押さえている。ぼんくら演技はやめたはずだが、それはどうでもいい。


「貴方ねえ……確かに感謝したけれど、だからってこんなお礼をするなんて言った覚えはないわよ。恩にかこつけてこういうことするのは最低よ。最ッ低の男よ!」

「……別にかこつけたわけじゃないが」

「じゃ何!?」

「……いや」


 珍しくシャルフが言い淀むのを、エルザはろくに言い訳もできないと判断しさらにブチ切れる。引き籠り生活が明けて初めての純粋な恋心を弄ばれた気分だ。


「大体、婚約者が遠路はるばる賊に襲われながらも式典に間に合うようやって来てくれたっていうのに、手近な女に手を出して恥ずかしくないの? 恥を知りなさいよこの腹黒王子!」

「いやそれは……」


 それを言われるとぐうの音も出ないと言わんばかりにシャルフは視線を泳がせる。


「……賊に襲われるのは本人も承知の上だった」

「そういう話をしてんじゃないわよアンタさては本当にぼんくらなんじゃないの!? 信じられない!」


 憤慨したエルザは残りの荷物を叩きつける勢いで詰め込むと、よっこいせと荷物を担ぐ。式典までいるようになんて言われたが、あと少しでもこんな王子と一緒にいるなんてまっぴらごめんだ。


「どこへ行く」

「帰るの! 森へ! フィン様のところでクローネを拾わなきゃ!」

「式典までいろと言っただろう」

「アンタなんかの隣にいたくないのよ! ごきげんようシャルフ様、婚約者様とお幸せに。報酬は忘れないでくださいね!」

「おい待てエルザ」

「仕事は終わったって言ってんでしょ! 放し――ギャアッ」


 溜息と共に肩に担がれ、エルザは悲鳴を上げる羽目になった。


「ちょっと! 下ろしてよ!」

「式典には出ろと言っただろう。誰か、エルザの身支度を手伝ってくれ」

「じゃ分かった、報酬はもう1割引きでいいから。だから式典には出ません!」

「この俺相手に交渉しようとするな」

「この! クソ王子! 放しなさいよ!!」


 喚き暴れるエルザを身支度係の侍女達と共に無理矢理別室に閉じ込め、シャルフは深い溜息を吐いた。その背中に「殿下、何事ですか」と呆れた声がかけられる――フィンだった。


「……エルザが式典に出ないと暴れ始めただけだ。気にするな」

「殿下が何かしたんじゃないですか、とクローネ殿が言っております」


 どうやらクローネを連れて帰ってきたらしい。シャルフは姿の見えないクローネを探して虚空を睨みながら「大したことはしていないが」とぼやく。


「……見えないのはともかく、聞こえないのは不便だな。なにかいい方法はないのか」

「私の金環をお貸ししましょうか」

「それだとお前が見えないんだろう。まったく……」


 額を押さえるシャルフから見えないのをいいことに、クローネはテテテッとその隣に駆け寄り、そっと囁いた。


「私に何を言ったところで、エルザ様はお渡ししませんよ、殿下」

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