29.没落令嬢、主教に会う
朝、シャルフとエルザが敷地内の聖堂へ行くと、聖堂の入口にいる衛兵達はギョッとし、2人を通すように左右に避けた。
「シャルフ殿下……ご苦労様であります」
「どうも。主教はいるかな」
「は……、二日ほど前にご帰還されました」
「そうか、ありがとう」
あと数時間もすれば処刑時間だというのに、衛兵はエルザを留めもしない。シャルフも当たり前かのような堂々とした態度で聖堂内に入る。
「……私を捕縛する必要はないのかしら」
「昨晩のことを聞いたんだろう。まともな衛兵で助かったよ」
「まともなって?」
「昨晩、衛兵とアメティスト領の兵が混ざっていたことには気付いたか?」
「もちろん。貴方に向かってきた大半はアメティスト領の兵だったわよね」
「ああ。衛兵連中はあくまで王の指揮下にあるからな、俺が否と言ったことを覆す度胸はない。さきほどの衛兵達も同じだ、アメティスト軍務卿補佐が幅を利かせすぎて忘れていたようだが、昨晩ので懲りたんだろう」
「あ、なるほどね……従うべき主を思い出したってわけ」
しかもぼんくらと舐め腐っていた今までならともかく、昨晩のシャルフは実力も本性も微塵も隠さなかった。あれを知ってしまえば逆らおうなどとは到底思えないだろう。
「貴方って意外と王子としてのプライドみたいなものもあるのね」
「今の話で何がだ」
「だって昨晩の貴方、有り得ないくらい怒ってたじゃない。王子に向かって軍務卿補佐の命令がどうのこうのって説かれたからあんなに怒ってたんでしょ?」
「……まあそんなところだな」
「……それでも、貴方は殺さないのね」
もちろん、無傷の者はいなかった。しかし、まさしくシャルフが口にしていたように王族への不敬は死罪相当。例えば、アルノルト第五王子が同じ立場にあれば、説教してくる兵達など問答無用で殺していただろう。
やっぱり、この人は優しい。そんな内心を盗み見たかのように、シャルフはエルザを一瞥した後に「別に」と冷ややかに否定する。
「自国の戦力をみすみす削る馬鹿な王子はいない。何を勘違いしているか知らないが、俺は必要とあらば斬るぞ」
「でもアメティスト領の兵も殺さなかったでしょう?」
「アメティスト軍務卿補佐が国に反旗を翻す理由を与えないためだ。もっとも、宮殿の敷地内に自領の兵を引き入れるなど許されたものじゃない。その意味であの兵達を斬り捨てていい理由はあったかもしれないな」
「そんな言い訳しないでいいのに」
「していない」
何の意地なのやら、と呆れた目を向けるエルザの隣でクローネも肩を竦めてみせた。
「シャルフ殿下……優しいことは男性の第一の条件なのですから、照れ隠しなどせずともいいのではないでしょうか」
「クローネが照れ隠しをするなって」
「していない。……こちらは見えていないのに聞かれているとは、慣れないな」
琥珀石の首飾りをつけていないシャルフは、なんとなくエルザの左肩あたりに視線を遣る。しかしエルザとクローネに「私の後ろよ」「エルザ様の後ろです」と揃って訂正されてしまい、眉間の皺をほぐす羽目になった。
「……疲れるな」
「そうはいっても、王子の貴方が琥珀石を身に着けるわけにはいかないでしょ。特にアダマス正教会の主教なんかの前で」
なんなら芋づる式にエルザの素性がバレかねない。その危険を冒す必要がないのはもっともだった。
「それより主教に会いに行くってことは……、その、主教が企んだことなのかしら」
「どうだかね。噛んでないことはないと思うが」
「どうしてそう言えるのよ」
「黒魔術にも気付けず正教会の主教を務めることができると思うか?」
言われてみればそのとおりだ。あまりにも当たり前のこと過ぎて考えもしなかった。
「それならもう主教で確定じゃない。正教会に主教より偉い人なんていないでしょ?」
「それが、主教はオットー兄上達の事件以来王都を離れていてね。最近は司教が持ち回りで主教の仕事を代理していた」
「それはそれで怪しさしかないじゃないの。主教ってそんなに留守にしていていいものなの?」
エルザ自身は当然アウレウス教の信徒であってアダマス正教会の規律など知らないが、正教会の最高権力者たる主教が半年も不在など、怪しいですと言っているようなものだ。
「これもまた怪しさしかないと言うかもしれないが、ちょうどその頃に西方教会が反乱を起こした。主教自ら先陣を切って鎮圧に向かっていたんだ」
「そんなの、軍に任せればいいじゃない」
「軍の連中に魔術を扱えるものはほとんどいない。その点、西方教会にはお抱えの修道士がごまんといた。魔術を扱える修道士が従軍するのは当然のこと、主教が向かったのは、まあ殊勝な心掛けと言えなくはない」
つまり、主教が王の異変に気付く機会はなく、その機会がなかったことにはそれらしい理由もある。エルザとクローネは思わず顔を見合わせた。隙がなさすぎて逆に疑いたくなるが……。
「でも、少なくとも司教達は陛下の違和感に気付くはずよね?」
「その点は魔術をかけた者による。主教が魔術をかけたのであれば司教達には見破れない可能性が高いし、司教の中にも序列はある」
「じゃ、主教に会いに行ってどうするのよ。決定打はないってことでしょ?」
なにもしていません、王都を離れていたので気が付きませんでした、でしらを切られてしまえばおしまいじゃないか。エルザは首を傾げたが、シャルフは無言だった。何か考えがあるのだろう。
「……まるで神様ですね」
聞こえないのをいいことにクローネが呟くが、その感想はエルザも同じだった。シャルフは聖壇までの道を大股で歩き進め、主教の後ろに立つ。扉が開いてもぴくりとも動かなかった主教は、そこでようやく振り向いた。
「これは、シャルフ殿下。お久しぶりでございます」
「無事にお戻りになられて何よりです、アマーデウス殿」
にこやかに微笑むシャルフを横目に見て、そういえばぼんくらということになっているのだと思い出す。本当にこの王子は人格の入れ替えが器用だ。
主教のアマーデウスは、一見穏やかそうな普通の老人だった。ただ、ヴィクトールが連れていた老修道士よりも若く見える。白髪であるし顔も皺だらけだが、ブラウンの目には活力がある。杖をついているものの、実はそれは要らないんじゃないですかと言いたくなってしまう生命力があった。
「こちらは?」
「私の妃のエルザです」
「ああ、噂の」
噂――何の噂か。大方察しながら頭を下げるエルザの隣で「噂とは?」「殿下には申し上げにくいのですが、ビアンカ第二王子妃を害し、またシャルフ殿下を惑乱したとの罪で第四王子妃の身分を剥奪されたとうかがっております」案の定ともいうべき会話がなされた。
「大丈夫ですよ、アマーデウス殿」
にっこりのほほんとした笑みに、本性を知るエルザは背筋を震わせた。
「ビアンカ第二王子妃の件はともかく、私は惑乱などされておりません。エルザは平民の出でして、魔術に関してはさっぱり扱えないのです。現に、ご覧ください、アマーデウス殿。私には黒魔術などかけられておりませんでしょう?」
ここで否と返ってくれば黒確定だが、もちろんアマーデウス主教はそんな馬鹿な受け答えはしない。しげしげとシャルフを見つめ「確かに」と微笑んだ。
「いつもどおり、透き通るような美しい碧眼でございます」
アダマス正教会の主教となれば最高位の魔術師、シュタイン王国でその右に出る者はいない。その主教がシャルフに黒魔術はかかっていないと断言した。
「ありがとうございます。主教のお墨付きがあれば安心です」
ということで、第四王子惑乱の罪は冤罪と確定する。
「そのついでに、主教。お戻りになられてから、陛下にはお会いになりましたか?」
「ええ、私が戻ったのは一昨日ですから。昨日の昼頃、ご挨拶させていただきました」
「陛下のご様子が少しおかしいようなのです」
これに関しても、同じく。アマーデウス主教は「なんと、シャルフ殿下もお気づきでしたか」とさも心配そうに白い眉を八の字にした。
「私がご挨拶にうかがった際、陛下は顔を隠しておいででした。なにかご様子がおかしいとは思いましたが、まさかそういうことでしょうか」
「ええ、そうなのではないかと思うのです。私ごときの魔術耐性では勘違いかとも思いましたが」
エルザとクローネは揃って白い目を向けてしまった。“私ごとき”ではなく“この俺”の間違いではないのか。
「しかし、主教がそう言ってくださるのなら安心です。共に王の間に来ていただけますか」
「もちろんでございます、シャルフ殿下」
ああ、なるほど。アマーデウス主教を連れ歩き始めたシャルフの半歩後ろをついて行きながら、何がしたかったのか納得した。
アマーデウス主教が事実と違う受け答えをすれば黒。そうでなければ、エルザとの関係では証人とし、王との関係では黒魔術を解かせればいい。至極簡単な理屈だ。
その至極簡単な理屈が通ってしまうのは、
宮殿に出入りする貴族や官僚にも魔術耐性はあるだろうが、そう大したものではない。その点、王族はその系譜上強い耐性があってもおかしくないが、第一王子は既に亡く、第二王子は耐性がなく、第三王子はろくに王に会わず、第五王子は魔術に疎い。つまり、主教や司教達高位の魔術師が
……そう考えると、ぼんくら演技って思っていたより重要だったのかしら。エルザは一人考え込む。誰が首謀者だったかはまだ分からないが、シャルフの目を騙せないというのはかなり大きな誤算に違いなかった。
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