25.没落令嬢、脱獄をする

 エルザが目を覚ましたとき、クローネは肩に寄り掛かって眠っていた。起こしてしまうと可哀想だと思い、体を動かさずに周囲を見回す。


 どのくらい時間が経ったのだろう。地下牢だと光が入らず、体内時計も狂ってしまう。階段の向こうからは明かりが漏れているが、それだけでは朝とも夜とも分からない。

 処刑まであと何時間、何日かかるのか。考えても仕方がないのについつい考えてしまう。もっと別の、生産性のあることを考えよう。例えば、第一王子とハンナを陥れた人物とか。

 ヴィクトールは間違いなく怪しいが、今のところ断言できるのはアレクシアを通じてビアンカに毒を盛ったこととシャルフの婚約者を手にかけたことくらいだ。ハンナを陥れたかまでは分からない。

 ただ、動機はあるはずだ。娘を第四王子妃の座につけるために婚約者は邪魔であるし、契約妃とはいえエルザもいないに越したことはない。ビアンカを殺害までしなかったのは、エルザにそれらしい罪を着せることさえできればそれでよかったからだろう。同じように、王位に近い第一王子は邪魔であったはずだ。

 本当はハンナを殺害し娘を第一王子妃にするつもりだったが、黒魔術をかけられた王を見られたから第一王子もろとも殺す羽目になった、とか……。しかし王を操っているのなら第五王子を次期国王とさせることはできるはずで、シャルフの妃という保険をかける必要はない……シャルフを抜かして即位させると後に争いを生むとでも危惧したのだろうか。

 エルザは壁に頭を預け、もう一度目を閉じる。第一王子が死んでヴィクトールが得をしたのは間違いないし、あの老修道士と共謀して王に黒魔術をかけたとしても理屈は通る。しかし……。


 ふと、ヴィクトールが連れてきた老修道士が魔術を使ったことを思い出す。そっと頭だけを傾けて鉄格子の外を見、痕跡を探せば――。


「……紫陽花の色じゃ、ない」


 暗がりでも分かる、少なくとも明るい青色とは全く違う、焦げ茶色のような痕跡が広がっているのを見て呟いたとき。


「まだグラオ地方から帰ってきてないんだっけ?」

「きてないし、あのぼーっとした殿下のことだ、気付かれやしないよ」


 話し声と足音が聞こえ始め、視線をそちらへ向ける。

 入口から漏れていた明かりがぼんやりと大きくなり――仕事を終えたばかりのような中年の騎士が2人、牢の中を覗きこんできた。明かりに照らされる顔はほんのり赤く、酒気を帯びているのが丸分かりだった。


「……処刑の段取りが整った、と言いに来たわけじゃなさそうね。何か用かしら」

「エルザ第四王子妃――いや元第四王子妃だろ? アンタ、第四王子をたぶらかしたんだってな」


 見た目の年齢に反して幼い乱暴さのある口調だった。


「残念ながら誑かせなかったわ。それが何か?」

「なに、誑かしたっていう実力を味あわせてもらおうと思って」


 相手は酔っ払い、聞いちゃいないな……と白い目を向けるエルザの隣でクローネが身動ぎする。目を覚まして「眠っちゃってましたあ」と呑気に欠伸をして――男達に仰天する。


「え、エルザ様、なんですか!? もう処刑ですか!? 壁を壊して逃げますか!」

「落ち着いてクローネ、地下牢で壁を壊したら埋まるわよ」

「何言ってんだあ? 5日も閉じ込められて気が触れたか」


 5日――もっと長くいたような気もするが、処刑が決まっていると考えると十分な長さだ。シャルフは帰ってきただろうか――と咄嗟にシャルフのことを考えて自嘲して、しかし最初に聞こえた話し声を思い出してまだ帰っていないことを知る。


「やだぜぇ、俺、気の狂った女をやるなんてのは。気味が悪いじゃねえの」

「んじゃお前はそこで見てろよ」


 が、そんな悠長なことを考えている場合ではないようだ。どうやって拝借したのか、その騎士は牢の鍵を開け始めている。そしてその台詞――。


「……シャルフ様はご不在なのよね。シャルフ様の寵姫わたしに乱暴して無事で済むのかしら」


 どうやら、に来たらしい。強がりながらも一歩後ろに下がると、奥の石に繋がれた手錠の鎖がじゃらりと音を立てた。


「なァに、ぼんくら第四王子だ、バレやしない。それにアンタは朝には処刑される身だ、死人に口なしって言うだろう?」


 ガチャリと堅牢な鉄格子が開く。松明片手に不躾に入ってくる男2人にクローネが「ひぇ!」と悲鳴を上げた。


「見張りも構わんとさ、もっとも、連中はアンタは気味が悪いからやめとけって言ってたけどな。地下牢で飲まず食わず4日経てば大抵泣き喚いて枯れてくのに、そのどれもしねえしずっとなんか喋ってるからって」

「エルザ様! 逃げましょう、貞操は命の次くらいに大事です多分!」


 処刑台の上でどう逃げるかの算段ばかり整えていたが、そんな悠長なことは言っていられないらしい。それに、シャルフが帰って来るのを待つために脱獄せずにいたが、どうやらエルザの処刑日には間に合わないようだ。無理もない、グラオ地方は遠い北国、往復するだけで数日はかかる。


「……そうね。酔っぱらってるようだし、幸か不幸か、いまは夜よね」

「あん? 何言ってやがる……」


 エルザの胸座に手をかけた男は赤い顔に怪訝な色を浮かべた。


火の精ヴルカネルフ、頼んだわ」


 その顔が突然松明の火に呑まれた。


「ギャアアアッ」

「ど――ウワアアアッ」


 火は男達の古びた軍服を包み込み、しかしエルザには火の粉一つ散らさず燃え盛る。


地の精エーアテルフ、お願い!」


 断末魔の悲鳴の中で声を張り上げると、石畳に埋まった鎖が抜ける。


火の精ヴルカネルフ、ほどほどにね!」


 ジャラジャラッと音を立てながら男達の隣をすり抜け――ざまに剣を拝借し、真っ暗な地下牢を疾走する。叫び声で気付かれたのだろう、見張り達が「なんだ、どうした?」と話しながら地下牢を覗き込む影が見えた。


火の精ヴルカネルフ、こっちも!」


 松明が零れ、悲鳴と共に影が大きく揺れる。飛び出ると、見張り達が燃え盛る草木に慌てふためいているところだった。


「ッおい、エルザ第四王子妃が逃げたぞ! 追え!」

「そんなこと言ってる場合か、先に火を消せ!」


 それを背に森とも呼ぶべき庭園に飛び込み、そのままじりじりと奥へ移動する。今日は少し暖かいらしく、地下牢から出てくるとまるで温室だ。外から見えにくい位置まで来たエルザはつい、深呼吸してしまった。淀んでいない空気を吸うのも久しぶりだった。


 しかし、そうのんびりはしていられない。生憎と新月ではないようだが、雲が厚く月明かりは弱々しいのは幸いだ。木々の影に隠れ、さきほど拝借した剣で下着代わりのワンピースに切り込みをいれる。これで走りやすくなった。


「瑠璃の宮殿は……遠いわね。残してきた物は改めて回収しに来るとして、逃走しましょうか」

「……シャルフ様はよろしいのですか?」

「後日適当な酒場を探し回ればいるでしょ、報酬はそこで要求するわ。二月働いてないから日割りされるかもしれないけど」


 そんなことを言われているのではないのは分かっていたけれど、照れ隠しをせずにはいられなかった。


「厩舎は――これも遠いわね、走るしかない、けど……」


 足を踏み出そうとして、立ち眩みに襲われる。当然だ、2、3日何も食べていない。体は弱って体力も落ちている。


「エルザ様、私がフィン様を呼んで参ります。フィン様なら助けてくださるはずですから、ここでお待ちください」

「こんなところにいてもすぐ見つかるわ……ほら」


 地下牢のあったほうから「エルザ第四王子妃が脱獄した!」「探せ! 遠くへは行けないはずだ!」と口々にエルザを探す声が聞こえる。逃げなければいけないのは分かっていても、手近な木に手をついて肩で息をしてしまう。

 じりじりと首の後ろが焼けるような感覚がしている。緊張とは関係なく、全身の血が――ベルンシュタインの血が、ドクドクと激しく巡っている。久しぶりに立て続けに“加護”を使って、体中の神経が反応しているのだ。


「……エルザ様、大丈夫ですか? そんなに反動はないはずですが……」

「……大丈夫。運動不足で急に走ったときと同じよ。すぐに落ち着くわ」


 それより、これから見つかったらどうしよう。“加護”を使うことは多分問題ないが、“加護”だと気付かれるとマズい。

 最初の二人は酔っ払いだったから、突然松明の火が体に燃え移った以上のことは認識できないだろう。地下牢の入口の見張り達は松明が倒れたと勘違いしてくれるはずだ。しかし、ここに兵が押し寄せ、その人達に使えば、十中八九気付かれる。そうなればアダマス正教会も知るところとなり、エルザの存在は草の根分けても探されるだろう。そうなってはおしまいだ。


「……加護の力で人を殺したくないんだけれど。そうは言っていられないのかしら」

「……致し方ありません、エルザ様。私が赦します」

「……赦されても、そもそも怖いのよ」


 そうこうしているうちにも、ひづめが土を踏む音がする。そう甘いことは言っていられない、か――。


 ザ、ザ……と土が沈む音が近くなる。仕方なく、木に背を預けて音のするほうを見た。明かりは見えないので松明は持っていないらしい。持っていれば火の精を呼んで穏便に済ますことができただろうけれど……。

 ドク、ドク、と心臓の拍が速くなり始めた。ここでやらなければ、殺される。

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