26.没落令嬢、祝福を知る

「……風の精シュツルメルフェン――」

「エルザ様、待ってください」


 木々の隙間でゆっくりと風が臨戦態勢に入った、そのとき、クローネの厳しい声がそれを止める。


「……殿下です」

「殿下?」

「エルザ?」


 ブルル、と馬が鼻を震わせる声と共に木々の間から人が現れ、雲間の月明かりに照らされる。月光に輝く金髪は少し乱れているし、間抜けに目を丸くした顔はらしくなかったが、見間違えるはずがない。


「シャルフ様……グラオ地方に行ってるんじゃ……」

「……エルザなのか?」


 困惑を浮かべたまま、シャルフが馬から降りる。北国から帰ってきたにしては薄着で、長い外套を羽織っているだけだ。


「本当は行ってなかったとか……いくら春って言ってもグラオ地方は寒いし……」

「……その喋り方はエルザだな」


 外套が大きく広がり、頭からエルザを包み込む。拍子に一瞬冷たい風が肌を撫でたが、シャルフの体温を分けられた外套は暖かかった。


「……何が起こった? 大丈夫か?」

「……大丈夫です」


 エルザの頭は混乱していた。なぜシャルフがここにいるのか、いや、いるのは間違いないのだからそんなことは後で考えればいい。それよりも今すべきは追手から逃れること。……シャルフはエルザの状況を知っているのか? いや、知らないとしても後でフィンにでも事情を聞けばいい、この場では兵に捕まらないのが先決だ。


「……シャルフ様、婚約者様のことは心からお悔やみ申し上げます。今や私は契約妃を続ける必要がないはずですので、申し訳ありませんが一度宮殿の外へ逃がして――」

「何を言っている?」


 が、エルザを見下ろす顔の冷ややかさに、背筋はゾッと震え、続く言葉は出てこなかった。

 まさか、そんなはずないと思うが、誰かに――ヴィクトール軍務卿補佐に嘘でも吹きこまれたのか。それともまさしく黒魔術でもかけられているのか……いや、その碧く怜悧れいりな目に濁りはない。ということは前者か。

 第四王子妃の座欲しさに本物の婚約者を賊に襲わせたのです――ヴィクトール軍務卿補佐があの下品な顔でシャルフにそう進言する様子が目に浮かぶ。シャルフがエルザの気持ちに気付いていたとしたら、 “魔女”ならやりかねないと思ってしまったら。

 そうでなければ、あのシャルフがこの状況でそんな冷たい反応をするはずがない。万事休す、エルザの背筋を冷や汗が流れ始める。


「……シャルフ様、あの、私は――」

「そこにいるのは誰だ?」


 つっかえつっかえの弁解より先に、エルザ達の姿が松明に照らされた。眩しさに一瞬目を瞑ってしまうが、すぐに相手が判明する――衛兵達だ。衛兵達はすぐにエルザに視線を留め「いたぞ、こっちだ!」と遠くへ声を張り上げ――次いでシャルフに気付き、慌てて敬礼する。


「ッシャルフ殿下! ご苦労様であります!」

「……これは、どういうことかな」


 いつものぼんくらの口調だったが、それにしては堅い声だった。


「殿下はグラオ地方に向かわれていたはずでは……」

「私の質問に答えるのが先じゃないかな」

「失礼いたしました! シャルフ殿下がご不在の間に、そちらのエルザ元第四王子妃はビアンカ第二王子妃の毒殺を企み囚人の身となったのであります!」


 シャルフは目を細め、黙っていた。その間にも他の兵達が集まってくる。ただ、その兵達は衛兵ではなかった。おそらくヴィクトールの兵だろう。


「……“元”?」

「既に王子妃の身分は剥奪されておりますので」

「私はそんな許可をした覚えはないけれど」

「は……、しかしおそれながら、殿下……殿下は、エルザ元第四王子妃に誘惑され、正常な判断ができないものと思われますので……」

「……そうだったのか」


 冷たいままの目に見下ろされ、エルザはぶんぶん首を横に振るが、シャルフは何も言わずに衛兵達に顔を向け直した。


「私がグラオ地方を制圧している間に、そう判明したということかな」

「は、そうであります。ですから殿下、エルザ元第四王子妃をこちらへ。エルザ元第四王子妃には牢へ戻っていただきます」

「陛下の署名がなされた令状はあるかな」

「は?」


 口を丸く開けた衛兵に対し、シャルフは「投獄には陛下の署名付きの令状が必要じゃなかったかな」と静かに述べる。


「そ……れは、一般的にはそうですが……重罪ゆえの特例と……」

「そんな特例があるのか。知らなかったな」


 立ち上がるシャルフに抱きかかえられ、エルザは咄嗟にその胸にしがみついてしまった。

 衛兵はそんなエルザを受け取ろうと一歩前へ出る、が。


「そうだとすると、重罪をかぶせさえすれば令状もなく投獄し放題になるね。我が国がそんな馬鹿な法を定めていたとは知らなかったよ」


 打って変わって冷ややかになった声に、思わず足を止めてしまう。

 第四王子はぼんくらだ――その衛兵も、いつも仲間達とそう話して笑っていた。実際、シャルフが率いる軍に参加したことがあったが、シャルフはただぼんやり後方で戦局を見学しているだけだった。

 そのぼんくら王子が立っているだけなのに、まるで体の芯が凍てつくような殺意を感じるのはどういうことか。


「……シャルフ殿下」


 何かの勘違いだと自分に言い聞かせるための声が震える。


「法は、法であります……エルザ元第四王子妃をお渡しください」

「そんな法はないよ」

「しかしアメティスト軍務補佐によれば――」

「レディ・エルザをお渡しください、シャルフ殿下」


 その兵を庇うように、馬に乗ったままの軍曹が茂みの中から現れる。武闘大会でシャルフを負かした軍曹だった。


「殿下、どうか目をお覚ましください。そちらにいるのはレディ・エルザ、殿下が愛した女性ではありません。本物の第四王子妃となる方は、リラ地方で賊に襲われ亡くなっているのです」


 ぶる、とエルザの背筋が再び震える。軍曹はシャルフの心痛を慮るように太い眉を八の字にした。


「愛する者と婚儀を挙げることが叶わなかった殿下のお気持ちは分かります。しかし、その失意に付け入る隙を与えてはなりません。王子たるもの、下賤の女の狡猾さに騙されてはならないのです」


 どこか説教でもするような口ぶりで、軍曹が繰り返す。


「もう一度申し上げます、殿下。レディ・エルザをお渡しください」


 それを黙って聞いていたシャルフの腕がエルザの肩から離れた。エルザがまるで宙に投げ出されたような感覚に襲われるのとは裏腹に、軍曹が安堵したような溜息を吐き――。


「不敬だろう」

「は」


 剣を抜いたシャルフに、間抜けな顔をする。シャルフは無表情のまま小首を傾げた。


「この私を前に下馬せず説教まがいの口上を述べるとは、不敬だろう。頭が高い、というやつだ」


 エルザの体がぐるんと回り、シャルフの剣が一閃する。エルザが外套越しの背中にパラパラパラッと生ぬるいものが降りかかるのを感じたのと、断末魔のような悲鳴が上がったのが同時だった。次いで、グシャリと重たいものが地面に落ち、馬が鳴き、兵達が騒然とする。


「で……殿下、ご乱心ですか、一体何を……」

「本来、王族への不敬は死罪に値する。これは君達の言う特例と違って法典に定めがあってね、王族自ら罰を下してよいし、その内容には裁量も与えられているんだ。私はどうかと思うけれど、悪法もまた法なりと言うよね」


 エルザが慌てて振り返ると、主を失い困った馬が鼻を震わせながら右往左往しているのが見えた。その下では、軍曹が呻き声を上げながらうずくまっていた。


「……殿下、お気を確かに。エルザ元第四王子妃には投獄の命が下されているのです。どうか、エルザ元第四王子妃をお渡しください。アメティスト軍務卿補佐の命令でございます」


 ぼんくらが演技なら剣が扱えないのも演技なんじゃないの? ――そう訊ねたときのことを思い出す。シャルフは「まあまあ」などと適当な返事しかしなかった。エルザにとって、シャルフの実力は未知数だった。


「……王族に“祝福”があることを知っているかい?」

「……は、もちろん存じ上げております。しかし恐れながら、殿下の祝福ではこれほどの人数をお相手にできないものと思われます」


 しかし、兵達にとってはそうではない。武闘大会のシャルフは、軍曹の一撃も受けきれずに負けた。その軍曹は今しがたシャルフに敗れたが、一対一の、しかも不意打ちであったし、現に殺すことはできていない。ぼんくら第四王子は戦争でもろくに活躍したことがない、それが実力の全てであるはず。

 この人数を相手に、どれほどはったりをかまそうが勝てるわけがない――違和感に目を瞑りながら自らを奮い立たせる兵達を前に、シャルフは静かに息を吸いこむ。


「……私の祝福は“征服されざる者”。剣を取るなら知らない者はいないな?」


 “征服されざる者”は、シュタイン王国が最大版図を築いた時代に君臨した戦王・クローヴィス王に与えられた祝福。クローヴィス王はその剣で幾千幾万の敵をほふり敗け知らずであったことから、誰も征服することができない王としてそう呼ばれた。


「下馬せぬ軍曹、王を気取った軍務卿補佐、軍務卿補佐の命に従えなどと戯言たわごとを口にする兵……舐められたものだ」


 兵達が息を呑み、見えないなにかに気圧されたように一斉に半歩下がった。


「我が妃を捕らえたいのであれば、まず私が相手になろう。ただしその場合、死をもって不敬を詫びろ」

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