22.没落令嬢、謝罪をする

 疑問形になってしまったのは、その顔が明らかに今まで見たどんなときよりも不機嫌だったからだ。その冷ややかな顔といったら、まるで回廊の冷気がすべてシャルフから滲み出ているのかと思うほど。まるで冬の山脈だ、こんな冷ややかな顔をしていてご機嫌がいはずがない。東国のことわざでいえば逆鱗に触れているというやつだ。


「ああ、どこぞの妃のお陰で最高の気分だ。気遣ってくれてありがとう」


 訳「エルザのせいで最悪の気分なのに白々しい」。その場から動かず、冷徹な視線だけを寄越す態度も相俟って、エルザもクローネもさっきまでの気分は吹っ飛んで背中にびっしょり冷や汗をかいた。

 一体、エルザが何をしてしまったというのか。確かにいつもなら午後は自室にいて寝起きのシャルフを出迎えているところを書庫に行って留守にしていた。しかし侍女には行き先を告げたのでシャルフがエルザを探し回って苦労したはずもない。


「……何か御用でした?」


 狼狽するあまり敬語になってしまった。


「……軍務で明日からしばらく留守にする」

「あ、そうなんですね。どうぞお気をつけて」


 沈黙が落ちた。かつてなく不機嫌な顔にエルザの冷や汗は止まらない。


「……そのくらいでしたら、侍女に伝えていただいければ大丈夫ですよ」

「伝えてどうする」

「どう……する……? シャルフ様のお手間は減ったと思いますが……」


 再び沈黙が落ちた。これは、一体どういうことだ。シャルフは一体何が気に食わず、何に怒っているのか。


「……そ、ういえば、侍女のロミーの捕縛指示を出されたそうで。何も知らず失礼しました、ありがとうございました」

「そういえばそんな話もあったな」


 ……自分がしてあげたことに礼も言わないと怒っているわけでもない。


「私の食事に毒を混入させないよう、シャルフ様の取り計らいでフィン様に作らせているともお聞きしました。お気遣いいただきありがとうございます」


 シャルフの眉間の皺が深くなった。いまの話のどこかに問題があったのだろうが、どこだ。


「……もしかして、その、私のせいでフィン様にご迷惑をかけたことを怒っていらっしゃいます?」

「……迷惑?」

「その、フィン様はシャルフ様の側近ですが、私のために食事を作らなければならなくなったようですし……」


 自分の側近に仕事を増やしやがったと怒っているのだろうか。いささか斜め上の怒り方だが、他に心当たりがない以上はこうとしか思えない。


「……あ、あの、さきほど部屋にお邪魔しておりましたのは、クヴァルツ家が独自に歴史を記録しているという話が興味深いのでぜひ聞かせていただこうと思った次第で、もちろん私の我儘ではありますけれど、こう言ってはなんですが私の知る歴史も面白おかしく聞いていただいたのでフィン様も楽しんでいただけたのではないかと」

「そんなに面白かったか」

「はい?」

「昼からずっとフィンの部屋に籠りきりだっただろう」


 シャルフの目線がフィンの部屋の扉を示す。なぜ知っているのか。


「……もしかしてずっとここにいらっしゃったんですか?」

「あまりにも楽しそうに話す様子が聞こえたので邪魔しては悪いと思ってな」


 あ、そういうことね! 不機嫌そうなまま鼻を鳴らされ、ようやくエルザは納得した。

 シャルフのことだ、日中は適当にぶらついているなどと言いながらエルザの身を案じてくれてはいるのだろう。エルザはそんなシャルフの気も知らず好き勝手に歩き回り、挙句の果てにフィンの部屋で昼の間中話し込むときた。フィンはおそらく全く剣を扱えない、そのフィンと一緒にいては身の危険が迫ったときに対処できまいと心配してくれたに違いない。しかし、あまりに楽しそうな話し声が聞こえるため部屋に入るのは憚られ、結果、この寒い回廊でじっと待つ羽目になった。だから不機嫌なのだ。


 とはいえ、部屋に入ってくれてもよかったのにとは言えない。契約終了後の仕事のこと然り、シャルフがいるとできない話もあったし、クローネもあんなに嬉しい顔を見せることはなかっただろう。


「お待たせしてしまってごめんなさい。しかしご配慮いただきましてありがとうございました。お陰様で誰に気遣うでもなく話をでき、久しぶりに楽しい時間を過ごすことができました!」


 せめて丁寧にお礼を言おうと頭を下げたが、シャルフが溜飲を下げた気配はなかった。むしろその冷ややかな目の温度は一層下がった。


「あ、いえ、これは皮肉などではなく、心からの謝辞です! フィン様、少し変わった方ですけれどとてもいい方で、シャルフ様の仰るとおり歴史の話にも目を輝かせてくださいましたし!」


 クローネなんてまるで恋する乙女のようにはにかんでいました――とは言えないが、そのくらい楽しい時間であった。必死に弁解を連ねたが、やはりシャルフの不機嫌さが直る気配はなかった。

 これは、どれだけ謝っても無駄だ。諦めたエルザはスン……と静かになる。


「……その……何か、私にしてさしあげられることがございます……?」

「逆に何ができる」


 こういう面倒臭いところは平常運転だ。

 シャルフのご機嫌取りか、何がいいだろう。うーん、とエルザは頭を抱えて……ハッと思いつく。


「特製の紅茶を淹れてお持ちしましょう! 明日から軍務で数日王都を離れるとのこと、しばらくは紅茶など飲めませんでしょう? これからゆっくり、夕食までの時間にお淹れします。ね!」

「何がどう特製なんだ」

「それはお楽しみです。シャルフ様、渋い紅茶はお好きではありませんよね」


 シャルフと食事を摂ったとき、食後に運ばれてくる紅茶は渋みが薄いものだった。それを思い出し、そしてとにかく精神的にも物理的にも寒いこの回廊を立ち去ろうと無理矢理シャルフの腕を引っ張る。シャルフは鬱陶しそうに顔をしかめたが、それでもてこでも動かないというわけではない。


「……どこに向かう」

「調理場をお借りするんです。あ、シャルフ様は執務室にお戻りになられて結構ですよ」

「なぜ執務室に帰らないといけないんだ。紅茶は君の部屋で貰う」


 まだどこか不機嫌そうな声のままだったが、二文以上喋るようになっただけでも上出来だ。胸を撫で下ろしながらエルザは紅茶の準備をしたが、準備を終えたときのシャルフの顔は、今度は珍獣でも見るようなものになっていた。


「……何をしている」

「執務室には戻らないんですよね、私の部屋に戻りましょうか」


 お盆を片手に歩き出そうとすると、シャルフの手がそれを取り上げた。無言だが、持ってくれるという趣旨だろう。


「……こんなもので何をするつもりだ?」

「入れるんです」

「……入れる?」

「そうです、入れるんです」


 わざと説明しないまま部屋まで戻り、エルザはシャルフの目の前で温めた牛乳を紅茶に注いだ。シャルフは相変わらず怪訝な顔をしている。


「……そんなことをして美味いのか?」

「美味しいですよ。毒なんて入っていませんので、冷めないうちにどうぞ」


 ほらほらと促すと、渋々口に運ぶ。そしてその目は少し間抜けに丸く見開かれた。


「……美味いな」

「でしょう」


 少し得意になりながら、エルザも隣に腰かけて同じものを飲み「紅茶なんて高級品になんてことをと言う人もいるでしょうけどね、私は気に入ってるの」やっと緊張の糸が解けた。


「あ、牛乳はゆっくり火にかけて温めるのが大事よ。沸騰すると表面に膜ができるから、少し時間はかかっても焦っちゃだめ。まあ王子が牛乳を温める日なんて来ないでしょうけど」

「……なんでこんなものを知ってる」

「知ってるわけじゃないわよ、たまたまこういう飲み方をしたらおいしかっただけ」


 寒い冬の日、牛乳を手に入れて帰った日、朝に飲み残して冷たくなってしまった紅茶を見つけ、もったいなかったので温めた牛乳を入れて飲んだらおいしかった――なんて貧乏くさいことは言えない。


「……フィンは」

「ん?」

「……アイツは渋い紅茶が好きだろう」

「そうなの? 別に秘伝ってわけでもないし、フィン様に勧めてもいいけど。渋い紅茶が好きなら口に合わないんじゃないの?」


 シャルフは黙った。エルザが首を傾げるのにも構わず、ただ紅茶を口に運び続ける。


「で、貴方は口に合ったの?」


 返事はなかったが、黙々と飲み続けるのが満足している証拠だろう。いつの間にか眉間の皺もなくなっており、エルザはやっと肩の力を抜いた。


「……体も少し暖まったでしょ。……その、悪かったって思ってるから。今度からフィン様と話すときは気を付け――ようがないわね、誰を護衛につければいいかなんて分からないし」


 じろりと再び不機嫌そうな目を向けられ、全速力で頭を回転させ最後の一文を付け加える羽目になった。


「……えっと、本物の婚約者は? まだ王都に着かないの?」

「……先日リラ地方に差し掛かったと報せがあった」

「あ、そうなの。じゃあもうしばらくかかるのね」

「……それが何か?」

「いやその……確かにまだ私が死ぬと困るわね、って話」

「何の話だ?」


 今度はシャルフの目は不機嫌通り越して怪訝そうになった。が、それはこちらの台詞だ。


「私が護衛もつけずにうろつくと困るって話じゃないの?」

「そんな話はしてないが」

「え、じゃあ貴方一体何にそんなに怒ってたの?」


 今度はエルザが怪訝な顔をする番で、なんならシャルフは少しバツが悪そうな顔をした。


「……君は俺の契約妃だろう」

「そうね」

「…………」

「……それで?」

「……軽率な行動をとるなと言っている」

「……だから護衛もつけずに動き回るなってことよね?」

「俺以外の男と軽率に部屋に籠りきるのはやめろと言っている」

「……なんだ!」


 そういうことか! やっと答えが分かり、霧が晴れたような気分だった。エルザは顔を明るくしたが、シャルフは「なんだとはなんだ」とまたしかめっ面に戻った。


「いえ、ごめんなさい。そういうことだったの、って思っただけ」

「…………」

「分かってるわよ、私、シャルフ様を骨抜きにしている妃だもの。他の人と噂になるようなことがあったら計画が台無しよね。確かに軽率だったわ、ごめんなさい。以後気を付けるわ」


 今度こそ適切に誠心誠意謝ったはずだが、シャルフは一度口を閉じた。


「……分かったならいい」

「そういうことなら早く言ってくれればいいのに。……あ、いえ、もちろん、気付かなかった私が愚かだったんだけど、ね?」


 まるで反省していないと思われたのか、また眉間に皺を寄せられた。慌てて付け加えても続く言葉はなく、エルザは間を持たせるために紅茶を口に含む。


「……それで、えっと。軍務で数日いないって、どこに行くの? 遠いの?」

「グラオ地方に行ってくる。先日アルノルトが制圧したが、残党が近くの領民を悩ませているらしいから、その処理だな」

「それじゃ弟の尻拭いみたいなもんじゃないの。それ誰が出した指示なの?」

「アメティスト軍務卿補佐、第五王子妃の父親による提言だ。一応建前ではアルノルトがリラ地方へ視察に出かけ留守にしており他に適任がいないからということになっている」

「ふーん、大変ね。グラオ地方はまだ雪が残ってるかもしれないし、気を付けてね」


 そういうことなら仕方ないのか、と納得しながら頷いた、その顔が掴まれた。


「な――」


 次の瞬間、唇を塞がれた。

 今度の口づけは随分あっさりしたもので、エルザがその行為を認識する間もなく唇が離れた。


「美味しかった。帰ってきたらまた淹れてくれ」


 そのままシャルフは立ち上がり、呆然としたエルザを残して部屋を出て行った。




 その3日後、エルザは第四王子を惑わした偽王子妃として処刑されることが決定した。

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