19.没落令嬢、王子を知る
口づけられた瞬間、エルザは目を閉じることができなかった。しかしシャルフが目を閉じている、それだけで演出には充分だろう。エルザの体を扉に乱暴に押し付けてしまうほど荒々しい口づけをして、そのまま、衛兵達が隣室にいることに気付けないほど夢中で唇を貪り続ける――そんな演出。
その演出は完璧だった。突然の口づけに狼狽したエルザが抵抗しないようにその手はしっかり押さえつけ、さらに押さえつける腕でエルザの驚いた表情を衛兵達から隠す。その後は何度も濃厚な口づけを交わせば、堪えきれなくなったエルザは自然に目を瞑る。そうすればもう、衛兵達からはエルザがシャルフになされるがまま口づけを受け容れているようにしか見えない。
離れるタイミングも完璧だ。呆気にとられた衛兵の一人が「あ……」などと声を漏らしたのを受けて目を開け、そこで初めて気づいたふりをする。唇を離すときはリップ音を立てて名残惜しそうにし、衛兵達が余韻を感じるほど濃厚な口づけであったことを装う。
「……何か?」
それでもって、覗き見たのはそちら側だと言うような自信たっぷりの問いかけ。エルザが僅かに肩で息をしながら視線を向けた先で、衛兵達は「し、失礼いたしました、シャルフ殿下!」と慌てて敬礼をした。
「式典の最中に盗賊でも潜りこんではいけないと巡回していたものであります。お邪魔しました!」
「そうだね、いつもと違って宮殿内は人気(ひとけ)がないし、隠れて何かをするにはもってこいだから」
こんな風にね、とエルザの髪を一房掬い上げる、その仕草にエルザはもちろん、衛兵達までもが魅了される。
「式典は……どんな様子かな、私は早々に腕を痛めてしまったのだけれど」
「は、ちょうどアルノルト殿下がファビアン大佐に勝利したところでした」
「じゃあ順調に勝ち上がっているんだね。今年もアルノルトが優勝かな」
そのまま颯爽とエルザの肩を抱いて「このまま部屋に帰りたいけれど、弟の優勝を祝わなければならないね」などと嘯き、どこか陶然とした衛兵達に背を向けた。
呆然としたままのエルザを半ば引き摺るようにして王の間を離れた後、シャルフはようやく視線を下げた。
「……いつまでぼんやりしている。まさか慣れてないなど今更かまととぶるつもりではあるまい」
くっ……とエルザは目を見開いた。まさか慣れていない、今更かまととぶる、だと。
慣れてるわけないでしょーが! これが部屋の中ならそう叫んでいた。確かに抱き留められたことなど幾度とあると見栄をはったのはエルザだが、それと口づけを同列に語るほうがおかしい。慣れているもなにも口づけなどしたことがない。衛兵の目を逃れるためならいくらでも他のやり方はあったはずだ。あくまで口づけが最も手っ取り早く楽な方法だったに過ぎないのだろう――シャルフにとっては。
そう考えると闘争心に近い炎が燃えた。舐められて堪るか。
肩に載った腕を振り払って毅然と立つ。
「ええ、別に、慣れっこですし、先日も申し上げたとおり覚悟しておりますので。
しかし、やり過ぎた。にっこり微笑みつきで強がるとプライドを刺激されたシャルフのこめかみに青筋が浮かぶ。
「君が大したことがないというなら今後も活用しよう、俺が君を溺愛していると知れ渡るし、あの衛兵達の反応を見るに咄嗟に相手の混乱も招くことができて一石二鳥だな?」
「ああいった場から逃れる案が他に浮かばないのであればフィン様のお知恵でもお借りしてはいかがでしょう? もちろん、シャルフ様が望んで口づけをしたいというのなら話は別ですが」
「溺愛していると知れ渡る利点があると言っているが? 式典の終わりは覚悟しておけ」
「もう充分に知れ渡っておりますので。これ以上はシャルフ様の個人的な欲と判断いたします」
「判断するのは俺だ」
「私です」
フン、とお互いに鼻を鳴らしたところで、トテトテとクローネが走ってくる。そういえばクローネにあの濃厚な口づけは見られてしまっただろうか。……見られていないことを祈りたいが。
「エルザ様、ああよかった! 少し残って衛兵達の話を聞いておりましたが、エルザ様達が何をしていたか分からなかったようですよ」
……これは、見ていた、のか……? エルザが思わず頬を引きつらせてしまいそうにになる前で、シャルフがぷいと顔を背けながら「戻るぞ、目的は達した」とまた歩き出す。
「……あの衛兵達、どう思ったのかしら」
「俺がぼんくらで式典もすっぽかして君と楽しくやっていると思ったんだろう」
「そうですね、まったくその通りでした。ああして見るとやはり第四王子は華だけはある、とも」
「衛兵達もやっぱりシャルフ様のことは馬鹿にしてるのね」
「そうでなければこの十年以上の価値がない」
十年以上、馬鹿のふり。皆に指をさして笑われ十年以上、そこまでしてこの王子はどうしてぼんくらのふりをしたのだろう。ただ死から逃れたかっただけではない、はずだ。
「……貴方、オットー第一王子と仲が良かったの?」
「……なんだ藪から棒に」
それなのに、そのぼんくら演技をやめるときがきたかもしれないと言った。おそらく、オットー第一王子の汚名を雪ぐために。
「貴方、この事件に随分肩入れしてるじゃない。どうしてそこまで? ビアンカからも聞いたけど、たまにオットー第一王子と一緒に演習をしていたこともあるって」
「…………」
珍しく、シャルフは黙りこんだ。何をどこまで喋るか考えるような横顔は、今朝王位についてどう考えているか尋ねたときと似ている。
「……別に話したくないならいいわよ。ただ純粋に疑問に思っただけだから」
他人の秘密を掘り返して暴く真似はエルザの信条に反する。だからあっさりと引いたのだが、シャルフはまだ考え込んでいた。
「……仲は良かった」
「……そう」
「……だが、あくまで兄弟の中で比較的だ。俺はオットー兄上の前でも演技をといたことはなかったしな」
式典の会場に戻る前、シャルフは立ち止まってそのまま回廊の柱に背を預けた。
「……オットー兄上に借りがひとつある」
「……借り?」
「……命を救われた。もちろん、もともと危なくなどなかったし、命を救われたこと自体は大した問題ではないんだが」
例によってぼんくら演技が浸透しており、シャルフに危険が迫っていると勘違いしたオットーが慌てて庇ったということだろう。
「軍について視察中に通りかかった村での話だが、俺が老婆に刺されそうになったことがある」
「……なんでもない、ただの村人にってこと?」
「そうだ。なんでも、その老婆の父は、かつてクローヴィス王に殺されたそうだ」
クローヴィス王、別名『戦王』。シュタイン王国が最大版図を記録した時代に君臨し、剣を振れば軍隊がひとつ滅びるとまで言わしめた最強の王。当然、彼が屠(ほふ)った領主は数多にのぼる。
「そのクローヴィス王の面影が俺にあったのか、金髪碧眼だから一見して王族と目についたのかは知らない。ともかく、恭(うやうや)しく頭を垂れるふりをして近付き、一刺しにしてやろうと企んでいたらしくてね。それをオットー兄上に庇われたという話だ」
「……でも、貴方のことだから自分で対処できたんじゃないの」
「まあな。ただ、オットー兄上が俺を庇ったことで老婆の企みが分かり、そしてどうやらディアマント家の誇りともいうべきクローヴィス王が一部の村民にとっては悪魔か死神であったと知ったわけだ」
父を殺されたと喚いていた老婆は、本来ならその場で首を刎ねられてもおかしくなかった。それをオットー第一王子が止め、事情を聞き、謝罪し、それどころか身に着けていた紋章入りの飾りを渡した。
「ただ一人の老婆になぜそこまでするのか訊ねたとき、オットー兄上は『過去にディアマント家が肉親を奪ったのだから当然だ』とまさしく当然のように答えた。当時は、なんとお人好しな兄だと思ったが……自分があまりにも命を相対化しすぎていたと気が付いた」
クローヴィス王がその老婆の父親を殺したのは、シュタイン王国の領土を拡大するためにその地方を統治していた領主に抵抗されたから。シュタイン王国を豊かにするために領土の拡大はやむを得ない。領土を拡大し国を豊かにしなければ、領民が飢え、領主が飢え、ひいては国が飢えるから。
「俺は、シュタイン王国を統治してきた王家には国を豊かにすべき義務があると考えている。しかし、国を豊かにするとはどういうことだ? 確かに、クローヴィス王が領土を拡大したことで作物の種類が増え、交易も盛んになったのは間違いない。しかしその裏側にあの老婆はいた――かつて領主であった父を殺され、新たな領主の圧政のもと泥水を啜って生きてきた、自称死にぞこないが。あの老婆を見ながら、国が豊かになったと、果たして言えるだろうかと」
オットー兄上のせいでそんな疑問を抱いてしまった――そう締め括り、シャルフは軽くかぶりを振った。老婆に狙われた金髪が少し冷たい風に揺れる。
「その疑問を俺にくれた、借りがあった。それに――俺は、王になるならオットー兄上でいいのではないかと思っていた。取り立てて秀でている能力は何もないし、おそらくオットー兄上の治世はクローヴィス王の真逆と言っていいほど特徴のないものだろうが、それでいい。豊かとは、特筆すべき争いがないことも言うのかもしれないから」
……意外だった。それはエルザの知らないシャルフの一面だった。
「……いや、それでいいのではなく、それがいいと思っていたんだ、俺は。オットー兄上が王になればいいと思っていた。他の誰も次の王に相応しくない」
この人は、実は優しい人なのだ。ぼんくら演技と、その反動のように冷ややかで投げやりな物言いで分かりにくいけれど、きっと誰よりも優しい。念のためとエルザから毒入り料理を奪ったのもきっとそうだった。もしかしたら、毎日無駄に睦言を囁きに来るのも、エルザの様子を見に来る口実だったのかもしれない。
「そして、そんなオットー兄上にいわれなき罪を着せて処刑させた者は、最も王位から遠くあるべきだ。だから首根っこを捕まえて白状させ継承権を奪いたい、ただそれだけだ」
相手がだれであっても、死ぬのを良しとしないのだろう。だから「継承権を奪う」などと言う。処刑するのではなく、王位を継がせないことにすると。
ふふ、とエルザは笑ってしまい、シャルフはしかめっ面をした。
「なんだ、何がおかしい」
「いえ、別に。ちょっと貴方のこと勘違いしてたわ」
クローネも少し不思議そうな顔をしていたが、エルザは構わなかった。
「もし貴方が王になる日がきたら、祝福するわ。貴方は、きっといい王になるわよ」
軽い足取りで先に式典へと戻るエルザの後ろ姿をしばらく見つめ……シャルフは小さな笑みを零した。
「アダマスだけでなく魔女の祝福も受けられるのか。光栄だな、しかしてその内容は」
「……え、おめでとうって言ってあげるって言ってるんだけど」
「言葉に何の意味がある。領土のひとつやふたつ寄越してみろ」
「イヤな王子ね! 貴方の本物の婚約者の顔が見てみたいわ、こんな王子の何がいいのかしら」
「お陰様で予定どおり王都に向かっている。運がよければ顔を合わせて帰れるぞ」
「冗談に決まってるでしょ。何が楽しくて契約妃と本物の妃が顔を合わせなきゃいけないのよ」
むしろ、その時が来たら本物の妃の顔は見ずに報酬だけもらってちゃっちゃと森の奥へ帰ろう。きっと、契約が終わる頃にはもっとシャルフを好きになり、その傍で王になるのを見守りたいと思っているだろうから。エルザはそっと決意した。
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