16.没落令嬢、王子を庇う

 アルノルトは、頬を赤く染めたシャルフをニヤニヤ笑いながら「では兄上、のちほど」と立ち去り、その隣で微笑んでいたアレクシアもちょっと小馬鹿にしたように笑いながらお辞儀をして立ち去った。

 2人だけ残った回廊で、エルザは思わず手を出してしまったままの立ち姿で硬直し、シャルフは頬を押さえもせずにじろりとエルザを睨んだ。


「……君のこれはなんだ。俺の愛が行き過ぎて恥ずかしいの演技だとして叩く必要があるか?」

「……いえ、ありません」


 こればっかりは申し開きができない。エルザはゆっくりと姿勢を戻しながらそっと顔を両手で覆った。


「以前は手籠めにされようがなんだろうが覚悟してきたかのような口ぶりだったが、あれは見栄か。それとも君にとっては接吻のほうが一大事か?」


 もちろんそうではない。あの覚悟は本物だったし、多分あの頃であれば接吻だろうがなんだろうが真顔で受け入れた。

 しかし、例によって好きになってしまうと話は別。好きな相手からの過剰な演出に耐えられるほど、エルザの恋愛経験値は高くない。むしろ経験値が低すぎる結果、過剰な演出を受けると過剰な照れ隠しをしてしまう。


「………………接吻のほうが、その……不必要かと、思いますので……その意味で大事かと……」


 今度こそ本物の見栄だった。しかし恋に惑い使い物にならなくなっているエルザにまともな返事などできようもない。


「ああそうか。だったらどこかの伯爵を呼びつけて部屋の外に待機させたまましとねを共にするか。俺は今晩でも構わないがどうする」

「………………失礼いたしました」


 耳まで赤くして顔面を覆い隠したままのエルザに呆れた目を向け、シャルフは「次に同じことをしても叩いてくれるな。言い訳が面倒だ」と先に歩き出す。


「……シャルフ様も避けてくださればいいのですが」

「女性の平手打ちひとつ避けられないぼんくらなもんでね。もしかして君の平手打ちはそのための演出か? そうだとしたら見直そう」


 後ろを歩きながらぼそっと反論すると見事に完封された。クローネの哀れみの目を受けながら「本当に失礼いたしました……」と再度謝る羽目になる。

 そんなギスギスした空気になってしまっても、関係者一同勢ぞろいの場のシャルフは「ではエルザ、行ってくるよ」と手の甲に口づけを落としながら優しく囁く(なお、目が「動くな」と言っていたし、エルザの指先が折れそうなほど握りしめられていたので、今度は平手打ちなどできようもなかった。)。十年以上のぼんくら演技は伊達ではない。

 シャルフが立ち去った後、一人で座りながら「……なんだか怖くなってきたわあの王子」と呟くエルザの後ろで、クローネも「まるで人格が入れ替わるようですよね」と頷く。ちなみに、少し離れたところにはアルノルト第五王子とアレクシアも座っているが、会場には民衆や兵が多く集まって好き勝手話していて、声が聞こえる距離ではない。


「本性を顕してからのシャルフ様は既に王様のような横柄さですが、他の方の前では徹底して優男ですし、エルザ様大好きって感じですよね」

「ちょっとやめてよ大好きとか」

「演技の話ですよエルザ様。演技、演出です」


 頬を染めるエルザに、クローネも遂に冷ややかな目を向けた。スン……とエルザは表情を消す。


「……クローネ、何かないかしら。こう……、恋を忘れる魔術とか。相手を嫌いになる魔術とか」

「陛下がかけられていると思われる黒魔術のたぐいですね。あるのではないでしょうか、私は反対ですけれど」

「……あの殿下ももう少し演技を抑えてくれればいいのに」

「もう少し殿方に耐性をつければ話も変わってくるのではないでしょうか? エルザ様、酔っ払いくらいとしかお話されたことありませんでしょう?」

「そんなこと言ったって、他に話す殿方もいないんだもの」

「いらっしゃるじゃないですか、フィン様とか」

「……言われてみればそうだったわ」


 話した回数が契約妃の話を持ってきたときと書庫で会ったときの計2回なのであまり意識になかった。頼んでも聞いてくれなさそうな堅物感は漂っているが、一度話してみてもいいかもしれない。


「きっと書庫に行けばいらっしゃるんでしょうしね。いいわね、今度頼んで――」

「おっはよう、エルザ」


 元気のいい声と共に肩を叩きながら、ビアンカがエルザの近くに座った。


「なにしてるの、こんな隅っこで」

「出番が最初だと言って殿下が行ってしまったから。……あら、オリヴァー殿下! おはようございます」


 そしてその後ろには所在なさげに突っ立っているオリヴァー第二王子がいた。溌剌としたビアンカの影に隠れてしまうほどその存在感は薄く、気付いたエルザは大慌てで立ち上がる。しかしオリヴァー第二王子はしどろもどろと視線を泳がせるときた。


「お、おはよう、ええと……」

「エルザ様よ。貴方、他の王子妃の名前くらい覚えなさいよね、失礼よ」

「す、すまないビアンカ……」

「私じゃなくてエルザに謝りなさいよ」

「あ、そっか、失礼した、レディ・エルザ……」

「殿下、どうぞお気になさらず」


 オリヴァー第二王子とビアンカが話すのは初めて見たが、どうやらその関係性はビアンカの性格から察するとおりらしい。やってきて挨拶を交わした、ただそれだけのほんの数十秒のやりとりが全てだった。なんならビアンカは「まったく」と顔をしかめる。


「しっかりしなさいよ、どっちが王族なのか分かったもんじゃないわ。ユッタ様がいらっしゃらないと本当になにもできないんだから」

「そういうわけでは……ただ何を話せばいいとも分からないし……」

「そういうときは話題を持ってきなさいよ!」


 まるで姉と弟のようだ。しげしげと興味ぶかげに眺めていたエルザをビアンカが振り返り「ね、いつもこの調子なのよ」と肩を竦めた。


「それよりエルザ、貴女、この間毒を盛られたそうね。大丈夫?」


 そういえばそんなことになっていた。エルザ自身の体調に問題があったことはないので「ええ、大丈夫。このとおりすっかり元気よ」と誤魔化しながら「オリヴァー殿下はまだ下に向かわれなくていいの?」とすぐに話題を変える。ビアンカは「出番はまだまだ先らしいわ」と肩を竦めた。


「どうせ大して勝ち進めやしないだろうけど、それなりに頑張りなさいって話してるの。……あ、陛下よ」


 操り人形状態かもしれない王の、登場。ハッと気を引き締めながらエルザは立ち上がり、他の王子や王子妃たちと共にうやうやしく王とその妃達にこうべを垂れた。コツ、コツと王と王妃達はゆっくりと歩みを進め、王を中心に左右に妃が2人ずつ腰かける。

 エルザは顔を上げた後、真っ先にリリー・グラナト第二妃を見てしまった。長く美しい髪は燃えるような赤色で、双眸は聡明で落ち着いた灰色。凛々しい横顔は本性を露わにしたときのシャルフに似ている。この場ではエルザに見向きもしないところも、シャルフの母親らしかった。

 そして問題の陛下は……。再び座りながら、少し高い位置に立つ王を盗み見る。


「……エルザ様、あれは……」

「……間違いないわね」


 武闘大会開幕の挨拶をする様子に、一見妙なところは何もない。年齢を感じさせないたたずまいも、朗々と響く声も、その挨拶の中身も、すべて誰もが知る王だ。

 ただ一点、その碧眼がどんよりと曇っていることを除けば。


「どうかしたの、エルザ」

「ああ、いえ、ごめんなさい。なんでもないわ」


 確かに魔術耐性が全くないのだろう。ビアンカも王を見ていたが、その怪訝そうな顔はエルザにのみ向けられた。

 精神操作に係る黒魔術をかけると、人の目はどんよりと曇る。なにがどう変わるのかと言われても難しい、ただ、どんな色の目であっても、なにか膜でもかかったようにくらく見える。そしてそれを見抜くことができるのは、その黒魔術より高度な魔術耐性を持つ者だけ。シャルフは見抜いたようだが、他の王子はどうなのか。

 ハンナの汚名を雪ぐつもりで来ただけなのに、王に黒魔術がかけられているなんて。なにか、とんでもない事件に巻き込まれてしまったような……。


「あ、貴方の旦那が出てきたわよ」


 王子を捕まえて“旦那”なんて言うのはビアンカくらいだろう。身を乗り出したビアンカの隣で、エルザも少し身を乗り出す。陽光に金髪が煌めいているが、表情までは見えない。エルザが平手打ちした頬の赤みも、離れると分からなかった。


「相手は――軍曹なのね。シャルフ殿下ってどのくらい剣を扱えるの?」

「さあ……。多少は腕に覚えがあるんでしょうけど、あんまり功績はないみたいだし」


 その点は性格や頭と違って実戦まで――つまりはエルザにとって永遠に不明なままなのだろう。肩を竦めて返しながら見つめる先で――早速、シャルフの剣が軽々しく飛んでいく。結局八百長にも構わずさっさと負けることにしたらしい。

 観戦に来ている民衆や他の兵の声には興奮も落胆も混じっていた。どうやら、いまさらシャルフが剣を弾き飛ばされたところで驚く者はいないらしい。ビアンカも、文字通り瞬く間に負けたシャルフを少し呆れた目で見ていた。


「……あんまり扱えないようね」

「そのようね」


 王の有様を伝えたいのはやまやまだが、どうせこんなところにいてはろくに話もできない。一体どうするつもりなのだろうかと首を傾げていると、後ろから「シャルフ殿下ったら、軍曹にも負けてしまわれたのね」とアレクシアの笑い交じりの声が聞こえた。振り向くと、その顔には台詞のとおりの嘲笑が浮かんでいる。隣にアルノルト第五王子はいないので、きっともうすぐ出番なのだろう。


「シャルフ様は武に秀でているわけじゃありませんから。仕方ないですね」

「あら、レディ・エルザったら、まるで他に秀でているものがあるような言いようじゃない?」


 まあ、ないことになっている。だんまりを決め込んでいると「そうそう、ビアンカ、エルザ様から聞いた?」とその嘲笑うような笑みが深くなった。


「ここに来るまでにシャルフ殿下とレディ・エルザが連れ立って歩いていらっしゃったのだけれど、シャルフ殿下ってば本当にレディ・エルザに骨抜きなのよ。アルノルト様に、レディ・エルザが自分にはもったいないほどの妻だとここぞとばかりに自慢して」


 シャルフがエルザに骨抜き、悪くない表現だ。クローネの冷ややかな目には気付きながらも、エルザは内心満足せずにはいられなかった。


「あら、仲が良いのね。シャルフ様、この時期にエルザを妃に選ぶなんて絶対に良い人に違いないと思ってたけれど、私の目に間違いはなかったわ」

「でもねえ、ビアンカ。レディ・エルザったら、頬に口づけられただけで恥ずかしがって殿下の頬を叩いたのよ」

「そんなことしたの?」


 武闘大会そっちのけで、ビアンカは声を上げて笑い始めた。お陰でエルザは再度赤面してしまう。


「あれはその、あまり外であんなことをされるのに慣れてないのよ。だからつい……」

「いいじゃない、相手はあのシャルフ様でしょ? そんなことで怒りやしないんじゃない?」


 冷ややかな目と口調で皮肉を並べたてられたとは言えない。


「そうじゃなくて、レディ・エルザの平手打ちを避けることもできずにまともに受けたって話よ」


 そして、ぼんくら演技はどこまでもしっかり通用しているらしい。ここまで真正面から騙されているアレクシアを見れば、シャルフも大層ご満悦だろう。


「びっくりしちゃうわ、王族は幼い頃から厳しい教育を受けて育つものなのに。ああいえ、シャルフ殿下はあらゆる訓練から逃げるのがお得意だったのかしら?」


 とはいえ、目の前でシャルフを馬鹿にされては腹が立つ。「剣の腕は知らないが盗賊を一突きで始末できるし、ぼんくらは全て演技で腹の内で何を考えているか分からない」と言ってやりたい。


「そうですね、シャルフ様からはそううかがっていますが」

「あら、お認めになっているのね」

「でもレディ・アレクシア、アルノルト殿下の妃に過ぎない貴女に、そこまで言われる筋合いはありません」


 じろりとアレクシアの目がエルザを睨む。王子妃の中でもアレクシアが幅を利かせているのは先日のお茶会で分かっていたこと、嫌われるのは得策でないことくらい宮殿政治に疎いエルザでも分かるが、もう遅い。


「皆がどんな噂をしようが、アルノルト殿下は第王子。第一王子が亡くなった今でもなお、四番目の王位継承権を持つに過ぎません。ましてやシャルフ様は第四王子、序列はアルノルト殿下のほうが下です。そのアルノルト殿下の妃に過ぎない貴女がシャルフ様をさげすむ権限などございません」


 アレクシアの目が細められ、それこそ蔑むように冷ややかに変わる。


「あらァ……ごめんなさいね、私ったら。そんなつもりはなかったんですけれど」


 その手は真新しい洋扇を取り出して広げ、口元を隠す。


「妃の貴女も姓すらない庶子だし、シャルフ殿下はとうに継承権を放棄したものだと深読みしすぎてしまったわ。考え過ぎてしまう癖があるの、私」

「王位継承権は血筋にりて与えられる一身専属のものであると同時に自ら放棄することは叶いません。放棄すると最初からその権利がなかったものとなりますが、王族の血を絶やしてはならない以上、“継承権のない王子”などという無意味な存在を作るべきでないからです。それがアダマス教の教義であるはずですが、レディ・アレクシアが“考え過ぎる”際はそれを見落とされたのでしょうか?」


 バチバチッと2人の間には火花が散った。思いがけず開幕した修羅場に、ビアンカは面白そうに目を輝かせ、クローネはオロオロとエルザを見守る。


「お待たせ、エルザ」


 が、その原因が間に割って入る。エルザが驚いて顔を向けるより早く、その手がそっと肩を抱いた。

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