10.没落令嬢、秘密を知る

 ドックンと、エルザの心臓は飛び出そうなほどに跳ね上がった。

 そこでシャルフはようやく表情を変える。口元は笑ったままだが、目が笑っていない。エルザを愛おし気に見つめるのと本当に同じ目なのかと思えるほど冷ややかで、値踏みするような目。 その目で微笑まれると、まるで獅子に獲物として品定めされているようで……“ぼんくら”という形容など到底できなかった。

 しかし、その笑みこそシャルフの本性なのだろう。エルザが思い返してみれば、その笑みは初めて会ったときに一度だけ見たことがあった。エルザが契約を結ぶと決めた後、まるでエルザが頷くと分かっていたかのような表情――あの笑みと同じものだ。

 いや、それより。ドクンドクンとエルザの心臓はうるさく鳴ったままだ。

 シャルフは、エルザがクリスタル家の人間だと知っている。


「知って……いや、聞いて……?」


 思わずクローネに一瞬視線をやってしまったが、クローネはぶんぶん首を横に振っている。きっと知られているなどとは考えていなかったのだろう、息を呑んだままその表情が硬直していた。


「もともと知っていたよ。が素性も知れぬ女を身代わりにするとでも?」


 だって貴方はぼんくらと有名で――と口にしかけてつぐんだ。


「……十八年間、ぼんくらのを?」

「もっと短いんじゃないかな。いくらなんでもよちよち歩きをしながら小難しく考えた覚えはないから」

「そういう話じゃない!」


 叫んだ瞬間、気管になにかが詰まって激しく咳き込んでしまった。そしてこんな時でも、シャルフはエルザを優しく扱う――そっと背中を撫でて「大丈夫?」なんて甘く囁きかけて。

 気味が悪くて手を振り払うと、シャルフは意外にも驚いた顔をした。なぜ拒絶されたのか分からない、そんな顔だった。


「……なんのつもりでこんなことするのよ」

「なんのつもりって、言っただろう? 君は私の愛おしい妻、ということになっているからね」

「……身代わりでしょ? アンタみたいな薄気味悪い王子と婚約してるのが誰かなんて知ったことじゃないけど、ここまであからさまな演技をする必要はないわ。誰が見ているわけでもないのに」

「“誰が見ているわけでもない”、本当にそう思う?」


 まさか見られているのか? ハッとしたエルザが窓の外を見るより早く、肩に手がかけられる。エルザは咄嗟にナイフを掴んだ。

 ドサッ、とエルザの体はソファに押し倒された。しかし同時に、シャルフの喉元には肉汁で汚れたナイフがほんの一ミリの隙間を残して押し当てられていた。

 二人はしばらく見つめ合っていた。エルザの暗い茶色い瞳には無表情のシャルフが、シャルフの明るく美しい碧い目には眉を吊り上げたエルザが映りこんでいた。


「何の真似だ?」

「護身用よ。クリスタル家の血途絶えたりなんて殺されたくはないわ」


 とはいえ、所詮食事用のナイフだ、脅しにはならないだろう。男のシャルフに力で敵うわけがないし、しかもどうやらぼんくらではない。下手をすれば剣の腕もそれなりだ。

 それでも、みすみす殺されたくはない。今度こそ指名手配されるだろうが、シャルフが剣を抜けば“加護”をぶっ放して逃げよう。

 そう毅然とシャルフを睨み付けていると、その口の端から、ふ、と笑みが零れた。


「安心してくれ。俺は君の姓に興味はない」


 じゃあ何をするつもりか? そう訊ねる前に、シャルフの親指がエルザの唇を押さえた。

 それが何を意味するか、分からないほどエルザは鈍くない。

 ただ同時に、契約時点でこの状況を想定しないほどエルザの覚悟は弱くなかった。黙って耐えていれば終わると思うし、なんならべたべた甘ったるい言葉を吐かれるよりよっぽどいい。お陰で、シャルフを見上げるエルザの目は怯えるわけでも怖がるわけでもなく、ただただ冷ややかになった。


「……好きにすればいいわ。このくらい覚悟の上よ」


 しいていうならクローネに見られたくはない。でも視界の外へ目配せすることはできないので、気を利かせて出て行ってくれることを期待することにした。

 シャルフは表情を変えなかった。相変わらず、湖のような碧い双眼でエルザを見下ろしているだけだった。

 こうして見ると、やっぱり顔だけは良いのね――。現実逃避にそんなことを考えていると、ゆっくりと唇が降りてくる。それでも目を瞑るのは癪で、エルザはその顔を睨み続けていた。


「少し」


 しかし、シャルフは静かに口を動かしただけだった。


「少し、静かに。君の声はうるさすぎる。心配しなくても、ここはちょうど死角だよ」


 つまり、わざわざ仲睦まじさを見せつける必要はないところ。

 当然ながら、この一室はシャルフがあらかじめ用意していた部屋だった。調度品から装飾品まですべて揃え「必要なものがあれば言ってくれ」と。そしてあらゆる家具も装飾品も、なぜかぴたりと固定され元の位置から動かすことはできないようになっていた。

 この部屋は誰かに監視されていて、ソファの上が数少ない死角なのか?


「……誰が見てるの?」

「分かれば苦労しないよ。契約のときに話しただろ、俺の妃の座は貴族連中がこぞって狙ってるってね」


 エルザの部屋を監視する理由は何か? エルザが本物の妃ではないと疑っているから? いや疑われる契機はないはずだから、本物の妃であることを前提に監視している? あくまで演技はついで?


 ということは、エルザという“第四王子妃”の命を狙う誰かがいる。そして宮殿に出入りできるということは、貴族の誰か。


「……第四王子妃の座を狙った貴族が私を殺すつもりでいるけれど、その途中で私が契約妃だとバレたら本末転倒だから死角以外で邪険に扱うなって言いたいのね」

「話が早くて助かるよ。君の性格は色んな意味で誤算だな」


 どうやら殺されるわけではないと分かり、エルザはホッと胸を撫で下ろしながらナイフも下ろす。カシャン、とそれがテーブルの上に戻ったのを確認したシャルフは上着に手をかけた。


「……は? いや、ちょっと何してんのよ!」


 話とは裏腹に服を脱ぎ始めるシャルフに、エルザは動揺通り越して憤慨した。


「死角だって聞いてアンタとイチャこくつもりないわよ私!」

「君は頭が悪いのか良いのかはっきりしたほうがいい。演出は必要だって話だよ」


 ぽいぽいっとシャルフは上着をソファから少し離れたところに投げ捨てる。続けて襟元を寛げるその仕草はつやっぽく、さすがのエルザも心拍が速くなってしまうのを感じた、が。


「この位置でこの体勢なら外からは見えない。特に今日は雨だからね、せいぜい静かに喋ってくれ」


 あたかも仲睦まじく情事に耽っていると思わせる“演出”……。襲われると思っていたのは自意識過剰だった。シャルフは知らん顔してシャツのボタンを外していたが、そこで初めて顔を赤くしたエルザに気付くと鼻で笑った。


「襲われても照れる可愛げはないのに、襲われると勘違いした羞恥心はあるのか。変わってるね」

「うるさいわね! ……で、これどういうことなの」

「これって?」

「惚けないで、どれもこれもよ」


 どこの誰とも知らない王子妃狙いの貴族に監視されていることはともかく、シャルフが白水の宮殿に出入りしていたこと、ぼんくら演技をし続けていたこと、そして――エルザがクリスタル家の人間だと知っていたこと。


「第一王子妃は魔女で第一王子を惑わして弑逆を企んだなんて言われているのに、その異母妹を契約妃にするなんて正気?」

「それだけ聞くと正気じゃないだろうね」

「……順を追って聞かせてもらうわ。貴方のぼんくら、演技だったのね」


 押し倒されたまま睨み付けるけれど、シャルフは穏やかに微笑むだけで肯定も否定もしなかった。


「……何のためになんて聞くまでもないわね。有力候補だと第一王子のように殺されるから?」

「そうだね。歴史で見れば分かるけれど、王子の不審死は食事にパンが出てくるのと大差ない珍しさだ」


 少し昔話をしようか、とシャルフはどこか他人事のような口ぶりで話し始めた。


「俺が最初に死にかけたのは生まれた直後だそうだよ。俺を受け取った侍女か誰かが誤って・・・落としそうになったらしい」


 一瞬深くなった笑みは、それが故意であったと語る。


「次は3ヶ月かな、昼寝中に誤って・・・寝台に埋もれるように眠ってしまっていた。その次が7ヶ月、誤って・・・胡桃を喉に詰まらせそうになった。その後も1歳、1歳2ヶ月、1歳3ヶ月……と数え始めるときりがない。俺はずいぶん悪運が良いらしいね」

「……そこまで事故・・が頻発した原因は何? 生まれたときの人相占いの結果が良かったの?」

「それをいうなら生まれる前だろうね。俺の母はリリー・グラナト第二妃。グラナト侯爵が手塩にかけて育てた娘だからね、血筋に申し分がなさすぎる」


 それは民衆の間でさえも言われていることだ。だからこそ、頭が悪くて残念だと言われ続けた。

 頭の悪ささえ除けば、まったくもって非の打ち所のない将来の王だと。


「……それで、ぼんくらのふりをしていたの?」

「お陰で7歳になる頃には毒見も必要なくなったよ。今でも悠々と一人で歩けるし、我ながら英断だった」

「……なぜ、白水の宮殿にいたの?」

「オットー兄上が無実だと知っているからだ」


 エルザとクローネは、ゆっくりと目をみはった。素直に答えてくれるのもその内容も想定外だった。


「……私の姓がクリスタルだと知っているのはなぜ?」

「むしろ知らないほうがどうかしている。クリスタル家の系譜を注意深く調べれば君の痕跡がある、魔女と呼ばれた辺境伯令嬢がいたこと然り、クリスタル辺境伯に妾がいたこと然りね。あとはオットー兄上がハンナ・クリスタルに一目惚れしたのが辺境の奥地だと知っていれば君の居場所も割り出せるよ」

「……やっぱり、それはそうよね」


 抱いていた疑問に対する回答を与えられたようで、エルザはどこか観念したような溜息を吐いた。


「……おかしいと思った。私、クリスタル家は出たけれど存在を隠されてたわけじゃないし……陛下の殺害なんて一大事件なんだから、クリスタル家の血筋を引く人間なんて草の根分けても探し出すのが自然なのに」

「まさしくそうだね。一族郎党皆殺しの大義名分を掲げて慌てて始末したことが丸分かりだ」


 シャルフの評価は、エルザのものと全く同じだった。途端に孤立無援の宮殿で仲間を得たような錯覚に陥るが、騙されてはいけない。この王子が何を企んでいるか、まだ何も分かっていないのだ。


「……貴方、第一王子が無実だと知っているって言ったけれど、第一王子妃が黒幕だと考えているの?」

「いや」


 それでも、ハンナ黒幕説を否定されただけで味方になってもらったような気がした。


「俺はまだ黒幕を断定していないという意味で否定しただけだよ。第一王子妃が黒である可能性は捨ててない」


 続く冷たいい方で、エルザは自覚なく安堵を顔に出してしまっていたことに気付き、表情ごと気持ちを引き締める。


「さて、もう一度訊こうか、


 シャルフの口の端が吊り上がる。妖しく、そして怪しく。


「君は、白水の宮殿で何をしていた?」


 ここでの答えを間違えれば、殺される。そう思わせるくらいの威圧感がその笑みにはあった。ごくりと、またエルザの喉が鳴る。

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