9.没落令嬢、食事をする
「遅くなってごめんね、私の愛らしいエル」
珍しく夕方になってから現れたシャルフに、エルザはゲッと顔をひきつらせた。
「しゃ……るふ……様、どうも、ごきげんよう……」
「どうしたの、エル。もしかしてこの間の怪我が治っていないのかな」
どもるエルザの頬をさも当然のように撫でる。例によってゾゾゾと寒気が走り「だからやめなさいって言ってるでしょ!」と手を跳ねのけた。
はあ……とシャルフは頬を押さえながら悩まし気な溜息をつく。中身はとんだぼんくらなのに顔の造形のせいで絵画になる美しさだ。
「私は愛おしい妻との関係を深めたいだけなのに、前回は頬を叩くし、今日もつれないし」
「叩かれるようなことをするからです。関係を深めたいなら順を追っていただけますか?」
「肌まで見た関係で頬に触れるのは何もおかしくないだろう?」
「その誤解を招く言い方はやめなさいよ! 貴方が一方的に、私に断りなく、しかも文字通り見ただけでしょ! いやっていうかあれは事故よ事故!」
思い出すだけでシャルフへの疑惑も忘れて赤面してしまい、エルザは誤魔化すために言葉を連ねた。
「夜半で侍女を呼びつけることができずに起こった事故! あれは関係性が深いだの浅いだのいえるものじゃないわ!」
「着替えさせるだけの関係性があったという話だけどね」
「契約上のね。で、何しに来たのよ」
ソファの上で気怠そうに頬杖をつくエルザなど意にも介さず、シャルフは「たまには一緒に夕食を摂るのもいいかと思っただけだよ」なんて呑気なことを言ってのける。エルザは早寝早起きだがシャルフは遅寝遅起きなので、普段は食事時間が1、2時間は違うのだ。
「……あ、そうですか」
それはそれとして、シャルフがわざわざエルザの部屋で食事を摂る理由は天気に違いない。ちらと窓の外を見ると、朝からの大雨がまだ降り続いている。この雨のせいで外へ遊びに行くのが億劫で、なおかつ自室にいても退屈なのだろう。
「もちろん、先日の君の怪我も心配でね」
「とってつけたように言わないでください。ちなみにしっかり治っておりますのでご安心を」
こっちの気も知らず呑気なことだ。はあ、とエルザは天井を見上げて溜息を吐いた。
ビアンカから話を聞けて多少事情が分かったものの、夏の事件に関する情報は以来全く手に入っていなかった。白水の宮殿にも「次は加護で追い払うから」とクローネに言い聞かせて足を運んだが、ハンナの私室には何も残っていなかった。きっと盗賊に根こそぎ奪われた後だったのだろう。ちなみにエルザを襲った盗賊の死体は見当たらなかったから、シャルフが処分させたに違いない。
これ以上の情報を得るにはおそらく、シャルフに訊くのが一番良い。虎穴に入らずんば虎子を得ず。というかシャルフはぼんくらなのだから少々何を聞いても怪しまれることはないはずだ、が。
隣に座ったシャルフはのんびりと紅茶を飲んでいる。どこからどう見てもぼんくらのはず……。
「そういえばエルザ」
「あっはい、なんでしょう」
「もうすぐ春の武闘大会があるだろう? 最初にフィンから説明していたと思うけれど、私の王子妃として観覧席に座ってもらうからそのつもりで」
「そういえばそんなものもありましたね。でもシャルフ様が武闘大会に出てもすぐ出番がなくなるのでは?」
つい投げやりに乱暴なことを言ってしまい、クローネにじろりと睨まれた。しかし例によってシャルフは何も気にしない。
「ああ、それは大丈夫。一応近衛将軍か他の王子に当たるまでは勝ち進むことになっているから」
「ああそう。……勝ち進むことになっている?」
妙な言い方に引っ掛かりを覚えれば「ああ、だって体裁が悪いだろう?」とさも当然のように返事がきた。体裁……。
「……八百長?」
「平たくいえばそうだね」
「平たいも尖るもなにもそうでしかないでしょ! 情けなくないの貴方第四王子でしょ!?」
「そうは言われてもねえ」
うーん、とシャルフは髪をくるくる指で弄ぶ。さらさらの金髪は指に巻き取られる傍から零れ落ちていき、そんな様子にさえ苛立ってしまった。
「私も出たくて出るわけじゃないからね、武闘大会に」
「……貴方って昼間何してるの?」
「何……。猫の後をついていったり、宮殿内を散歩したり、色々だね」
「それ何もしてないって言うのよ」
ちょうど侍女のロミーが「夕食をお持ちしました」とやって来た。もう一度深い溜息を吐きながらエルザは立ち上がる。
「シャルフ様には少し早いでしょうけれど、召し上がりますか?」
「構わないよ。君と夕食をとると言ったのは私だからね」
まだお腹が空いてないからやっぱりやーめたと言ってほしかった。さらにもう一度溜息を吐くと、クローネに「エルザ様、シャルフ殿下がいらっしゃってから7回目の溜息ですよ」と注意されてしまった。でも実際シャルフが苛立たせてくるのだから仕方がないのだ。
そんなシャルフの食事もすぐに運ばれてきたが、エルザのものとは違い大層豪華なものだった。さすが王族、庶民とは食べているものが違う。
しかし、シャルフは「豚肉か……」などと呟く。エルザの器に載っているのは魚なのだが……。
「……魚の気分なんですか? よろしければお取替えしますが」
「そうだね。寝起きに豚肉を食べる気にはならなくて」
もう寝る時間なのだが? どうやら今日のシャルフはいつにも増してお寝坊さんだったらしい。
「何回かお腹を殴って差し上げましょうか? いい運動になると思いますよ」
「そんな面倒なことをしなくても夫婦の運動ならもっといいものがある。知らないのかな、初心な私の姫は」
「本当にぶん殴るわよ」
本気で冷ややかに投げかけながら魚と豚肉の器を取り換えようとすると「盆ごと替えてくれ」なんて我儘を言い始める。酒杯に毒でも入れてやろうか、この王子。
とはいえ、丸ごと取り換えてエルザに損はない。そう言うなら今日は王子の豪勢な晩餐をいただくとしよう。
「今日は素食の気分なんですか?」
「そういう君は普段こんなに簡素な食事なのか? まるで修行僧だな」
「なんですか、修行僧って」
「東国の修道士みたいなものだよ。質素倹約を常とするそうだ」
「へえー。シャルフ様、意外と物知りなんですね」
シャルフが嫌がった豚肉をひょいと口に入れる。はるか昔クリスタル家で食べていたよりもさらに肉厚で、それだけで高価さが分かる代物だった。
「食事は私と同じものを用意させると言ったが、断ったそうだね」
「素食でもお腹は膨れますし、契約が終わった後に贅沢に慣れて元の生活に戻れないと困りますから。……こうして見ると、シャルフ様は一応第四王子なんですね」
食事を口に運ぶ姿が貴族の模範そのもので、苛立ちも忘れて感心してしまった。ビアンカの話によればシャルフの母・リリー・グリンマー第二妃は厳しく教養ある王妃。今は逃げ回っているとしても、幼い頃は相当躾けられたに違いない。ちなみに“一応”なんて口を滑らせてしまったのでクローネに白い目を向けられた。
「そうだね、四番目でも他国との会食には出席しなければならないし」
「そういえばミヌーレ王国の外務卿がいらしたときにフィン様に全て通訳させたって本当なんですか?」
ビアンカによれば母親は優に五ヶ国語を操るというのに……と少し呆れた目を向けたが、シャルフは「ああ、そうだね。アイツは語学が堪能だから」と事もなげに頷く。
「……契約妃の私が口を出す立場にはないような気もしますけれど、せめてミヌーレ王国の公用語くらい覚えては。シュタイン王国と最も交流がある隣国ですし」
「気が向いたらね」
コイツ……。本当にどこまでもやる気のないぼんくららしい。握りしめているナイフをそのまま投げてやりたくなった。
その後の会話はあってないようなもので、例によって第三王子の体調が良くないだの、武闘大会に向けて第五王子が張り切っているらしいだの、宮殿内の噂話だの、そんなものばかりだった。ちなみにシャルフは「あまり食欲がなかった」と少ない器の食事さえ残した。
……なんか本物の夫婦っぽい。食後の紅茶を飲みながら、エルザはそんなことを思ってしまった。王子と王子妃らしい食事だったとは思わないが(そもそも王子と王子妃は回廊のような巨大長机で食事を摂っているのでエルザの私室で隣に並んで食べている時点でらしくない)、他愛ない話を淡々と続けるのが夫婦らしいと感じてしまった。ぼんくらと心の中で罵っていたが、こうしてのんびり穏やかな会話ができるのはいいことかもしれない。
クリスタル家を出て母が亡くなって、まともな会話相手といえばクローネだけだったから……としみじみカップに口を付けていると「ところで、話は変わるけれど」とシャルフがカップを置いた。
「はいはい、なんでしょう」
「先日、白水の宮殿で何をしていた?」
ぴたりと、エルザは手を止めてしまう。2人を向かい側で見守っていたクローネも硬直した。
そっと隣を見ると、シャルフはいつもの締まりのない笑みではなく、表情を消してエルザを見ていた。
あれ、この王子って、こんなに怖い人だったっけ? そんな違和感が生じるくらいにシャルフの雰囲気が突然変わっていた。
エルザは気付けば膝の上で拳を握りしめていたし、背中には冷や汗が流れていた。
「……その節は、助けていただき……本当にありがとうございました」
「気にしなくていいよ。質問に答えてくれればね」
顔は微笑んだのに、目が笑っていない。エルザはぱたりぱたりと何度も瞬きをした。
この王子は本当にぼんくらなのか――? その疑問の答えが目の前にある気がした。
「……あの日は」
ごくりとエルザの喉が鳴る。急に、何が起きた?
「……レディ・アレクシアとお茶会でお話したときに、白水の宮殿での肝試しを勧められまして」
「肝試し?」
怪訝そうに眉を寄せられる。冷や汗が止まらなかった。
「……元第一王子がいなくなり使用人一人いないはずが火の玉が見えたと。それで……まだ宮殿に来て間もないのであれば行ってみてはどうかと勧められたのです。肝試しに最適だと」
「……なるほど、第五王子妃の彼女か」
ふむ、とシャルフは顎に手を当てて考え込む。何が気になったのかは分からないが、これで追及を免れればいい。
そして――もう一度喉が鳴る――エルザ自身にも、シャルフに訊きたいことがあった。
「……殿下、私も貴方にお訊ねしてよろしいですか」
「ん、何を?」
「……貴方は、何者なんですか?」
そういう自分も白水の宮殿で何をしていたんですか、なぜタイミングよく現れたんですか、第一王子の死について何か疑っていることがあるんですか、そんなことを訊ねたかったけれど上手くまとまらず、そんな曖昧な問いになってしまった。
当然というべきか、シャルフはいつものように微笑むだけだった。
「何者って。君の夫だよ」
「茶化さないでください。私は真面目にお訊ねしているんです」
いささか切羽詰まった声になってしまってもシャルフは笑みを崩さなかった。
「でも、そうとしか言いようがないだろう?」
そんなことを嘯いて。
「私は第四王子のシャルフ・ベンヤミン・ディアマント。母は第二妃のリリー・グラナト。王位継承権は現在3番目」
そして――と続けながらシャルフの手は、緊張したままのエルザの顎を捕らえた。
「妃はエルザ・クリスタル。元第一王子妃ハンナ・クリスタルの異母妹」
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