7.没落令嬢、盗賊に遭う

 夜、こっそり瑠璃の宮殿を抜け出したエルザは、真っ暗な庭園を横切って白水の宮殿に辿り着いた。

 事件が起こったのはたった半年前だが、白水の宮殿は暗闇もあって廃墟のように見えた。第一王子も第一王子妃も、その侍女や使用人達も一斉にいなくなったせいで手入れする人がいないからだ。

 凍えるほど寒い暗闇の中で、エルザは外套ごと体を抱きしめながら身震いした。


「うっ……こう見ると不気味ね……レディ・アレクシアのいう肝試しをする人達がいるのも分かるわ」

「というかエルザ様、単純に風邪を引いてしまいそうですよ。雪が解けてしばらく経ちますけど、春の夜って意外と寒いですし……」

「そんなこと言ってたらいつまで経ってもお姉様の事件の真相は分からないわ。行くわよ」


 白水の宮殿の扉は閉ざされており、手をかけるとギイィィと重厚な音が響く。その石扉が氷のように冷たく、エルザは「あーもうっ既に寒い!」と手を擦り合わせた。


「たいまつを持ってくるべきだったわね。暗くてよく見えないし、暖も取りたいし……」

「明かりをつけたら人がいるのがバレるってエルザ様がおっしゃったんですよ」

「そうだわ、だからやめることにしたんだったわ」


 開けたままにした扉と窓の外からの月明かりを頼りに、エルザはクローネと共に足を進める。とはいえ、白水の宮殿の作りなど知るわけもない。どこに何があるのか見当もつかないし、ハンナの私室を見つけるだけでも一苦労だ。このままでは事件の手がかりなんて言っていられない。


「見取り図とかあればよかったんだけど。どこかにないのかしら」

「どこかにはあるんでしょうけれど……例えばフィン様とか、ご存知ではないのでしょうか? エルザ様が欲しがると怪しまれそうですけど」

「そうよねー、私一人だとこうやってコソコソ嗅ぎ回る以外できないわよね。フィン様はちょっと贅沢だけれど、宮殿内に誰か味方が欲しいところよね。他の王子妃とか……」


 うーん、と悩みながら階段を上り、一番手前の部屋の扉を開けるとき。


「ギャーッ!」

「キャーッ!」


 ギイィ……という音と共に開いた扉の奥に人影が見え、エルザは悲鳴を上げながら飛びのき、その悲鳴に驚いたクローネも悲鳴を上げる。ビタンッと激しい音を立ててエルザの背中が壁にぶつかった。


「何? 誰!? 亡霊!?」

「おおお落ち着いてください、エルザ様! 驚いてしまったではないですか!」

「なんでクローネが驚くのよ!」

「驚きます私だって! ……あ、エルザ様、ただの甲冑かっちゅうですよ。飾りです」


 そっとクローネが覗き込むと、扉の前に古びた甲冑が置いてあるだけだった。エルザはまだどきどきする心臓を庇いながら「なんだ、びっくりした……」と部屋に入る。古びた甲冑の他には古びた旗や槍があったが、どれもこれも暗がりでも分かるくらいには老朽化が進んでいるし、床には物が散乱していた。


「多分第一王子が集めていた品々よね……画廊ギャラリーだったのでしょうけれど、略奪でもされたのかしら?」

「そうかもしれませんね、第一王子となれば宝物品は豊富だったでしょうし……。……これ、ハンナ様じゃありませんか?」


 クローネに言われて近寄った壁には肖像画がかかっていた。赤毛と優しげなグレイの瞳が特徴的で、オレンジがかった赤色のドレスを身にまとっている女性の絵。背景はアンムート宮殿前の薔薇園だった。

 間違いない、ハンナだ。それを見ていたエルザは、鼻の奥がツンとし、目に涙が滲むのを感じる。

 ハンナが第一王子に見初められたのは、エルザの家から帰るところだった。第一王子は狩猟中に獲物を夢中になって追いかけるがあまり森の中で迷ってしまい、エルザの家から出てきたハンナと出会ったのだ。


「……第一王子に見初められたって話をしているときのお姉様は、本当に幸せそうだったのに」


 ハンナの優しく穏やかな雰囲気に惹かれ、第一王子はすぐにハンナの素性を調べさせた。そしてクリスタル辺境伯の長女と知り歓喜したらしい。第一王子は自分の立場をよく分かっており、必然政略結婚をせざるを得ないとわきまえていたのだろう。しかししくも、一目惚れした女性が名門侯爵家の長女――将来の王妃として申し分のない身分だった。第一王子の嬉しい誤算だったらしい、とハンナは照れ臭そうに話していた。


「そうですね。あのままハンナ様はお幸せになるのだと、私も信じておりました」


 エルザは手を伸ばし、そっと額縁に触れる。積もった砂埃はこびりつき、ちょっと触れるくらいでは拭き取れやしない。


「……お姉様が王妃になる前に引っ越そうって話してたのに無駄になっちゃったわね」

「結局あの家に住み続けることになりましたよね。エルザ様がクリスタル家の一員だと知られずよかったです」

「……そのことだけれど」


 ハンナの肖像画を見つめたまま、エルザは顎に手を当てて考え込む。


「本当に私の存在は明るみにならなかったのかしら?」

「……誰かが見逃したのではないか、ということですか?」

「いえ、見逃す理由はないから本当に気が付かなかったんだとは思うのだけれど。どうして気が付かなかったのかしらって言いたいのよ」


 陛下の弑逆しいぎゃく、しかもその主犯格が第一王子と王子妃だなんてまず間違いなく最たる不敬のひとつだし、シュタイン王国史に残るであろう大事件だ。現に――関与の程度は判然としないものの――正妃と正妃一族も含め、第一王子と血を分かつものはこの世から消し去るかのごとく徹底的に処刑された。王子妃も然り、クリスタル家は使用人まで含めて殺されたのだ。


「あんまり覚えていないけれど、私、十歳くらいまではクリスタル家にいたわよね」

「ええ、そうですね。その後は母上様とあの家にお住まいでしたが」

「クリスタル家って揃いも揃って赤毛だったし、私って傍目にもかなり異質だったと思うのよ」


 エルザは自分の髪を一房ひとふさすくってみせた。月明かりに照らされるそれはダークブラウンで、赤毛とは似ても似つかない。


「噂でハンナお姉様が魔女呼ばわりされてるってことは、クリスタル家に魔女がいるって噂は知られていたのよね。そして私を“魔女”って呼んだ人達はきっと私の存在を覚えているはず。どうして、もっと徹底的に調べなかったのかしら?」


 もし本当に一族に責任を取らせたいのなら、エルザのことも調べ上げて処刑していたのではないか。その疑問ゆえに、エルザは日々戦々恐々と暮らしていた。まだ調べが済んでいないだけで、自分も処刑されるのではないかと。


「記録が少ないことといい、やっぱりなんとも不自然なのよね。そのわりに大々的に血縁者と名がつくものを処刑しているのは“徹底的に処断しました”っていう対外的なわざとらしい広告としか思えないというか……」


 そのとき、カタリと床の軋む音がしてクローネは振り返った。しかし考え事をしているエルザは気が付かない。


「そう考えるとやっぱり処断を決めた人物が怪しいわよね。記録が薄いのもきっと処断者を隠すため……」

「……エルザ様」

「そもそも誰が主犯格だったのかしら? 噂はハンナお姉様ってことになっているけれど、記録にはオットー第一王子と並列して書いてあった。レディ・アレクシアの話ぶりだとハンナお姉様が――」

「エルザ様!」


 ハッとエルザが振り向くより素早く、そして力強くエルザの口が塞がれた。クローネが庇う間もなく、その体は乱暴にハンナの肖像画に叩きつけられた。


「なんだァ、同業者じゃあなさそうだな」


 ろくに顔が見えずとも、太く品のない声とその台詞で素性は明白だった。

 第一王子の宝飾品を略奪しにきた盗賊……! 土と埃の混ざった手が気持ち悪く、エルザは顔をしかめる。おそらく一通り白水の宮殿内を探索し終えた後なのだろう。その腕には首飾りや腕輪が乱暴に巻かれていた。

 この宮殿がもぬけの殻となってから半年、略奪は遅きに失したのか否か。暗くて何の品を持っているかも分からず、エルザは視線を外してクローネを見る。盗賊がその視線を追った。


「女2人で何してたんだ? オイ変な気起こすなよ」


 クローネが動く前に、盗賊の手が短剣を持ち出す。そのまま刃はぴたりとエルザの喉元に押し当てられた。


「こっちが主人か? エルザ様って、最近入った第四王子妃がそんな名前だったような気がするが……」


 じり、と一歩下がるクローネにエルザは素早く目配せした。いざとなればどうにかすることはできる、がアレクシアの言葉が気になる。白水の宮殿は放置されていても、宮殿の敷地内は衛兵が歩いているはず。実際「火の玉を見た者がいる」ということは少なからず外からは見られている。事件のことが何も分かっていないのに、下手なことをしてエルザがベルンシュタインの血を引くと知られたくはない。

 ただ、命あっての物種――。ドクリドクリと心臓が早鐘を打つのを聞きながら、エルザは短剣を見下ろした。刃は月明かりにあまり反射しない。きっと物が悪いのだ。これなら一瞬で首を切られることはないか? そうだとしても、エルザに武術の心得はない。賭けに出るには危険すぎる。


「まあ、どうでもいいか。王子妃様がこんなところほっつき歩いてるはずねーんだから」

「エルザ様!」


 冷たい刃先がチリチリとエルザの首をなぞり、悲鳴を上げたクローネが割って入ろうとして――盗賊の腕に跳ね飛ばされた。エルザが息を呑む間に、クローネの体はテンッとボールのように部屋の奥へ転がる。


「クローネ! ッ放しなさいよ!」

「っるせーな、暴れんじゃねーよ」


 その隙に暴れれば、エルザの体は再び肖像画に押し付けられ――さらにさっきと違い、後頭部が額縁に叩きつけられた。


「か、はっ……」


 ぐわんと視界が揺れる。しまった、ぶつかったところが悪かった。


「宝はそこそこあるんだけどなァ、さすがに女はいねーなと思ってたんだ。ツイてるぜ」


 力の入らなくなった体が足から崩れ落ちる。尻餅をついたエルザの前に盗賊が屈みこみ、手の短剣をもう一度胸元に滑らせた。

 朦朧とした意識の中でドクリと再び心臓が跳ね上がる。刃先は夜着に引っ掛かり、もったいぶるように上下に動きながら布を引き裂いていく。

 正体がバレることを危惧している場合ではなかった。四の五の言わず“加護”で跳ねのけるべきだった。でも今更気が付いても遅い、眩暈がしてうまく頭が回らず“加護”を使うことができない。

 このままだと、この盗賊に犯される。いやそれより、クローネが――。

 その瞬間、盗賊の胸から白刃が生えた。

 わけがわからず、エルザの心臓はまだうるさく鼓動していた。この白刃はなにか? 刃の先端から零れている水滴はなにか? そういえば、これが胸から生える前にズブリと音が聞こえたような気がする。一体、これは――。


「大丈夫か、エルザ」

「え、あ……」


 ぐわんぐわんとまだ視界は揺れている。ドクドクドクドク、心臓はまだ早鐘を打ったままだ。それでも、その声を聞いて自分が浅く短く呼吸をしていたことに気が付く余裕ができた。


「エル、しっかり。怪我はないかい?」


 盗賊の体が傾き、ドシャッと音を立てて床を揺らす。それを目だけで追っていると体が優しく抱き寄せられる。ついさっき壁に叩きつけたのとは違う、優しい手だった。


「しゃ……、シャルフ、殿下……」

「シャルフでいいと言ったのに、私の可愛い姫は強情だね」


 いつもの軽口に怒る元気はなかった。頭を打ったせいもあるけれど、手が震えているの然り、どうやら自分でも気付かないくらい怯えてしまっていたらしい。


「どう……してここにいらっしゃるんですか? いやそれより……」


 部屋の奥に跳ね飛ばされてしまったクローネは……。それを口にする前に「それは私の台詞なんだけどね……」と呆れた声が降ってくる。


「とりあえず帰ろうか。こんなところで君の無防備な姿を見ていると理性がおかしくなりそうだ」

「……もう少し、空気を読んでくれない?」

「兄上の部屋で初夜を過ごすことはないだろう」

「そういう、話じゃ、ない……」


 ああ、駄目だ――。ぐわんぐわんと揺れる視界が気持ちが悪く、エルザはそのまま目を閉じた。

 目を覚ましたとき、エルザは私室の寝台で眠っていた。その体を起こす前に「気が付いたかい?」といつものぼんくら王子の声がする。


「……殿下……」

「エルザ様ぁ!」


 でもその姿を見るより先にクローネが視界に飛び込んできた。えぐえぐと涙を流しながら、クローネはその場にへたりこむ。


「ごめんなさいエルザ様、私、お役に立てず! エルザ様が襲われそうになっていたのにお守りすることもできず! ご無事で何よりです!」


 落ち着いて――と口に出す前にシャルフが視界に割り込んだ。クローネは泣きじゃくりながら「あっ、失礼」と素早く後ろに下がる。


「……殿下、私……」

「水を少し飲んだほうがいい。それとも温かいもののほうがいいかな、紅茶を淹れさせようか」

「いえ、お水で大丈夫です……」


 エルザは差し出された杯に口をつける。喉が渇いていると思ってはいなかったが、口に含むとあっという間に飲み干してしまっていた。怯えていることにも気が付かなかったくらいだ、きっと自分でも知らないうちに緊張してしまっていたのだろう。

 空になった杯をしばらく見つめてしまった後、エルザはシャルフに視線を向けた。


「具合はどうかな、私の可愛いエル」


 その美しい微笑も甘ったるい呼び方も、いつもどおりのシャルフだった。服装だってそうだ、いつもどおり、ろくに体を守ってくれなさそうな軍服を着ているだけ。


「……悪くはありません。いえそれより、助けていただいてありがとうございました」


 ぼんくら王子に助けられるなんて、と内心で毒づくことを忘れずにエルザは頭を下げ、クローネもハッと「そうです! エルザ様を助けていただきありがとうございます!」慌てて頭を下げる。王子に命を助けられるなんて意識を取り戻した瞬間にお礼を口にするべきであったにも関わらず、シャルフは「当然だよ、愛おしい妻を守るのは夫の責務だからね」とのんびりと答えるだけ。ぼんくらと寛容は紙一重だ。

 いや――エルザは白水の宮殿での出来事を思い出す。シャルフは、エルザを襲っていた盗賊を一突きで始末した。盗賊に、いやエルザにもクローネにも、足音どころかその気配すら感じさせず近付いて、迷わずその急所を狙い、一突きで。


「どうしたの、エル」


 本気で愛おしそうに目を細め、指先でそっとエルザの頬に触れる。ぞくりと、触れられたところから震えが走った。


「一応医者は大事ないって言ってたけど、まだ少しぼんやりしているね。今夜は一緒に過ごそうか?」


 いつもどおりの甘い声なのに、急激に芽生えた不信感が疑問とおりこして恐怖を抱かせる。

 この王子は本当にぼんくらなのか――?


「……殿下、あの」

「ああそうだ、夜着だけれど、破られていたから代わりのものを用意したよ」


 ……その混乱が突然止まる。言われてみれば、エルザの夜着は盗賊に胸元を破られてしまったのだ。

 まさかシャルフに胸元を見せ続けてしまっていたのか? 慌てて見下ろしたが……、破れているどころかほつれすらない綺麗な夜着をまとっていた。


「……シャルフ殿下」

「どうかしたのかな、私の美しいエル」

「……どなたが着替えさせてくれたのですか?」


 まさかまさかまさか。視線だけで胸元とシャルフを往復すると、少しきょとんとしていたシャルフは――輝く笑みを浮かべた。


「美しいドレスなんてなくとも君自身が美しいよ、私のエルザ」


 パァンッ、と鋭い平手打ちの音が、瑠璃の宮殿に響き渡った。

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