6.没落令嬢、お茶を飲む
「あら、そちらにいらっしゃいますのは第四王子妃、エルザ様でなくて?」
少し鼻にかかった声に振り向くと、そこには数人の侍女を連れ優雅に佇む女性がいた。高く結い上げた深いヴァイオレットの豊かな髪、気の強そうな赤みがかった瞳、そしてパールグレイのドレス……。カチカチカチカチと歯車を噛みあわせるようにエルザの頭は情報を総合し、相手が誰かを思い出す。第五王子妃だ。
「ごきげんよう。式典ぶりですね、レディ・アレクシア」
「ええ、まったく。エルザ様ったら、私達のお茶会に来てくださらないんですもの」
「お茶会?」
そんなものに誘われた覚えはない、とエルザは眉を顰めるが、クローネが「ほらエルザ様、あれです」と耳打ちする。
「式典の終わりにレディ・アレクシアが話していたことですよ。将来の王子妃で集まって紅茶をいただきましょう、と」
「あれは社交辞令じゃないの?」
酒場の男達が「また飲みに行こうぜ」と肩を叩いて帰るのと似た文句ではないのか? エルザがさらに眉を顰めると、アレクシアは「あらやだ、エルザ様ったら」とわざとらしく眉を八の字にする。
「社交辞令だなんて心外ですわ。王子妃同士仲良くしましょうと申し上げておりますのに。それとも、エルザ様は我こそが王妃にと熱心な方かしら?」
「いーいえ、そんなつもりはなかったんですけれども」
“蹴落とす相手と仲良くする気がないイヤなヤツ”呼ばわりされ、エルザのこめかみには若干青筋が浮かぶ。派手な化粧を見た時点で直感していたが、アレクシアはどんぴしゃで苦手なタイプの女性だ。
「王子妃とはいえ、どこの馬の骨とも分からぬ私が皆さまの会にお邪魔していいものかと案じておりまして。行き違いがあったようで失礼いたしました」
「あら、そんなことをご心配なさる必要はございませんわ。だってユッタ第三王妃様もお生まれのことは気にしていらっしゃいませんもの」
どこの馬の骨とも分からない下賤な身であることを否定しろ――。エルザのこめかみの青筋が深くなる。しかも、娼婦あがりのユッタ第三妃のこともさりげなく罵った。第五王子は順序的に最も王位継承から遠いにも関わらず、どうやらその妃のアレクシアはずいぶん強気らしい。
それで、とアレクシアのてっぷりと赤い唇が弧を描く。
「エルザ様は、特にご用事もないのでしょう? いかがでしょう、私達、これからお茶会の予定ですので。いらっしゃらない?」
当然、行きたいはずもない。しかしアレクシアには有無を言わせぬ圧があったし、なにより王子妃達のお茶会。ハンナの情報を得るにはこれ以上ない最高の場所だ。エルザはその顔に今日一番の笑みを張り付けた。
「ええ、ぜひ、お願いいたしますわ」
そのお茶会はアレクシアが与えられている薔薇の宮殿の庭で開かれていた。エルザが向かうと、そこには既に他の王子妃が集まっていた。
「レディ・エルザだっけ? お久しぶりね」
最初にエルザに声をかけたのは、第二王子妃のビアンカ・レブン。黒く豊かな髪と同じく真っ黒な瞳に褐色の肌、そして大きな唇という情熱的な雰囲気のある女性だ。少し黄みがかった真っ赤なドレスを着ていて、アレクシアと真逆の嫌味のない喋り方によく似合っていた。
「……ええと、シャルフ殿下の、ご夫人ですよね……」
さらに対照的にボソボソと小さな声で話すのは第三王子妃のヴィルヘルミナ・ヤーデ。萌黄色の長い髪はあまり結わず柔らかく下ろしていて、おっとりとした目を少し覆い隠している。ドレスの色は髪の色に近く、お気に入りの色なのが見てとれた。
「ええ、そうよ。さきほどお会いしたから、たまにはいらっしゃってとお誘いしたの」
そして、ヴァイオレットの髪と赤みがかった瞳をパールグレイのドレスで引き立てる第五王子妃アレクシア・アメティスト。
「ご挨拶が遅れました、エルザと申します。改めて皆さまとお話できる機会をいただけて光栄です」
ダークブラウンの髪と灰色の瞳にブルーのドレスを着たエルザは、この中において圧倒的に地味だった。負けるな自分、と奮い立たせるために微笑んでみせたが、まず侍女の数で負けている。一番少ないヴィルヘルミナの後ろにさえ3人の侍女が控えており、ろくに侍女を連れていないエルザの変わり者っぷりが分かるようだった。
「そう畏まらないで。まずは座ればいいじゃないの、今日はパンデピスを作ってきたから、よかったら食べてみて」
ほらほら、とビアンカは自らお菓子を取り分けエルザに差し出す。毒でも入っていやしないかと疑う前に「大丈夫、私が最初に食べるわ」ともう一切れを無造作に手で掴んで食べた。後ろの侍女達が「ビアンカ様、毒見なら私達が!」と悲鳴を上げるが、ビアンカは「私が作ったんだから私が毒見するに決まってるでしょ」とカラッとした笑顔を向ける。見た目といい喋り方といい、ビアンカは明るくさっぱりした性格のようだ。
ビアンカが毒見をしたことはともかく、手作りだと宣言した上で毒を入れることはあるまい。そう即断したエルザは勧められるがままに一欠けらを口に運ぶ。こってりとしたはちみつの味が口の中に広がった。
「おい! しい!」
「ははっ、いい反応してくれるね。作った甲斐があるってものよ」
「本当においしいです、こんなにおいしいお菓子は初めてなんですけど、パン……?」
「パンデピスね。王子妃って最高よね、いくらでもお菓子を作れるんだから」
「ビアンカ様は器用ですよね……こんなにおいしいお菓子をお作りになれるなんて……」
まるでリスがその小さい口でかじるように、ヴィルヘルミナはゆっくりと少しずつお菓子をかじる。
「私は不器用ですから……シュヴァッヘ様にもよく言われるのです、お前が何かすると必ず失敗してうるさいから、静かに詩でも読んでおいてくれと」
「第三王子は相変わらず見事な王子っぷりよね。オリヴァー様と足して割ってもらえないかしら」
ひょいと次のお菓子を口に放り込みながら、ビアンカは顔をしかめる。
「オリヴァー様ったら、なんでもかんでも口を開けば『母上』ばっかり、第三妃様の言いなりよ。もう少し母離れできないものかしら」
「ビアンカ様、この間も同じ話をしていらっしゃったわね。オリヴァー殿下、また何かされたのかしら?」
「今回は第三妃様に従って云々なんて話じゃあないのだけれど、狩りに出かけたときに、もう酷くって」
溜息を吐いたビアンカの口からはオリヴァー第二王子の愚痴がぼろぼろと零れてくる。夏の事件で今や民も知っている事情だが、オリヴァー第二王子の母親ユッタ第三妃は王に身請けされた元娼婦。女の園で戦ってきたユッタ第三妃は気も強いらしく、その反面息子のオリヴァー第二王子は母親に似ず気弱らしい。
「だからこの間言ってやったの、オリヴァー様が王位に就くことはないでしょうってね」
「ビアンカ様……さすがにそれは、オリヴァー殿下がお可哀想では……」
「だって、アンタ王になっても母上~って泣くつもりなのって思うじゃない? ていうか、オリヴァー様は金髪碧眼も受け継いでないし」
ぴんとビアンカは自分の黒髪を引っ張って見せる。オリヴァー第二王子の髪と瞳はユッタ第三妃似のダークグリーンで、だからこそ皆が本当に王の血を継いでいるか怪しいと口にする。実際には、オリヴァー第二王子には“祝福”があり、ゆえに王はユッタ第三王妃の不貞を咎めていないらしいが。
「だからオリヴァー様は最初から降りてるようなものよ。せっかく第二王子なのに中身もアレだしね。私はもう公爵夫人になるつもりでこの王位継承問題を静観することにしたわ、っていうか賭けてるの」
「賭け?」
それこそビアンカの話の行き先を静観していたエルザだったが、クローネと一緒につい目を丸くしてしまった。この文脈で「賭け」ということはそういうことだが、いやまさか。
ふふん、とビアンカは楽しそうに口角を吊り上げる。
「今のところ私はアルノルト殿下に張ってるわ」
やはり、誰が王位を継ぐか賭けているらしい。しかも相手は侍女達らしく、そう話すときのビアンカは侍女を振り返っていた。
「母君はセリア・ドレ第五妃で、ミヌーレ王国の王家の血も引いていらっしゃる。アルノルト殿下ご自身も金髪碧眼も受け継いでいらっしゃるし、一番戦績がいい。むしろアルノルト殿下以外に張る理由がないわ」
「光栄ですわ、レディ・ビアンカ」
アレクシアが誇らしげかつ当然のように頷く隣で、エルザはいささか呆れた顔をビアンカに向ける。さっぱりした性格のビアンカらしい遊びではあるものの……。
「そうですよね……シュヴァッヘ様は少しお体の具合が良くありませんし……」
はあ……とヴィルヘルミナが深い溜息を吐く。
「……祈祷のために修道士を呼んでいると聞きましたけれど、そんなに悪いんですか?」
「そっか、レディ・エルザはまだ宮殿にいらして日が浅いですものね」
その溜息はさらに深くなった。紅茶のカップを傾けながら、ヴィルヘルミナは眉を八の字にして目を伏せる。
「少し前までは体調の良い日もあったのですけれど、最近はすっかり……。そのせいでマリー第四妃様も気難しい日が増えて……」
「ヴィルヘルミナは気負い過ぎなのよ。正教会から腕利きの修道士が来ているのでしょう? きっと良くなるわよ」
「でもビアンカ様もシュヴァッヘ様には賭けてくださらないんでしょう?」
「さすがにアルノルト殿下が強すぎるんですもの。でもシャルフ殿下よりは上よ」
出た、朝は寝こけて昼はエルザに甘い言葉を囁きながら散歩し夜は賭場か酒場に出掛けるぼんくら王子。
ただ、自分の夫を悪く言うわけにはいかない。エルザは「そんな、どうしてでしょう?」と猫を被って小首を傾げてみせる。
「悪い方ではありませんよ、シャルフ様は」
「悪くないだけじゃ王は務まらないじゃない? でも本当にそうね、シャルフ殿下は良い方よ。それは私もそう思うわ」
そう言うビアンカこそいい人に違いない、とエルザは心の中で温かい目を向けてしまった。アレクシアが既に王妃のように目をぎらつかせているのとは裏腹に、自身の夫の尻を叩きつつ王位継承権は賭けの対象にして楽しむことにしているのだから。ヴィルヘルミナに対する配慮は少々足りないようだが。
「金髪碧眼も受け継いでいらっしゃるし。ただ……、ちょっと、ねえ……?」
「ええ、私もシャルフ殿下が王になられるのは少々不安がございますわ」
ビアンカの視線を受け、アレクシアが深く頷く。そういう態度もまるで王妃である。
「レディ・エルザがいらっしゃる少し前、ミヌーレ王国から
ああ……。エルザは遠い目をしてしまった。幼い頃から机を見る前に回れ右していたらしいシャルフ、当然外国語など喋れるはずもない。一方で、王子となれば2、3ヶ国語は喋ることができて当たり前であるし、隣国のミヌーレ王国の公用語くらいは心得ておくべきだ。
「結局ロード・フィンが全て通訳なさっていたわね」
「そうよねえ。途中でオリヴァー様と退出した私が言うのもなんだけれど、ロード・フィンに任せきりのあの態度には呆れたわ」
「でも、きっとシャルフ殿下は能ある鷹というものだと思っておりますわ」
酷評が続く中、ヴィルヘルミナがそっと頷いてみせる。
「他国から外務卿がいらっしゃるとなれば王子とはいえ緊張するものですけれど、シャルフ殿下は堂々と構えていらっしゃいました。あれは隠しきれぬ王子の品格というべきですわ」
「いや……どうなんでしょうね……?」
エルザの頭には「今日の夕餉には何を食べようか……」と呟きながら椅子に座り込んでいるときのシャルフの姿が浮かんだ。きっと何も考えていないときの態度だ。
「それに、ロード・フィンは若手随一と名高い才人ですし。陛下がロード・フィンをシャルフ殿下に仕えさせているのは、きっとシャルフ殿下の才を見抜いてのことだと思いますわ」
まるでヴィルヘルミナのほうがシャルフ殿下の妻だ。少し目を輝かせて語るヴィルヘルミナの隣で、エルザは「……そうかもしれませんね」とそっと視線を泳がせる。肝心のフィンは「多分幼馴染だからです」と話していたが、ヴィルヘルミナの純粋な期待を否定しないことにしておこう。
「じゃ、ヴィルヘルミナはシャルフ殿下に張ってるの?」
「とんでもないです、私はシュヴァッヘ様一筋ですから。ただ、そうですね……」
ズズ、と紅茶を啜るエルザの隣で、ヴィルヘルミナはそっと頬を赤らめた。
「もしシャルフ殿下が望まれましたら、エルザ様の次の妃にしていただくのもやぶさかではございませんわ」
「ぶっ」
その紅茶を吹き出しそうになり、盛大にむせ返る。ゴホゴホと王子妃にあるまじき品のない咳き込み方をしながら「え、次の、ですか?」とヴィルヘルミナを見る羽目になった。
「ええ。だって、シャルフ殿下はとっても綺麗なお顔をしていらっしゃいますでしょう? あのお顔で睦言を囁かれたら、私、高揚のあまり気を失ってしまうんじゃないかしら」
毎日毎日睦言を囁かれるとぶん殴りたくなるくらいには気持ちが荒れ
「ヴィルヘルミナったら、もうシュヴァッヘ殿下が亡くなられたかのような口ぶりね。よくないわよ、いくら政略結婚だからって」
「違いますわ! もしものお話ですし、一方に不幸があった際、残る兄弟に嫁ぐことは珍しいことではないじゃありませんか」
「そうなの?」
「それはそうよ。ヴィルヘルミナ様のいうとおり」
エルザとビアンカが揃って目を丸くすると、代わりにアレクシアが頷いた。
「王子妃だもの、それなりの家の娘ばかりなのだから、王子が亡くなったからって放り出すのはもったいないわ。確か先王陛下の第二妃は即位前に亡くなった弟君の妃だったはずよ」
「へえ……」
その手の裏事情はさっぱり縁がないので知らなかった。しかし、考えてみれば王子と王子妃など政略結婚以外ない。それにも関わらず公爵の地位ももらえぬままに王子が亡くなったとなれば、そこに嫁がせる予定だった娘を別の王子に宛がうのはごく自然なことだった。
「ね、それよりレディ・エルザ、貴女、もしかして貴族出身ではないの?」
「え? ええ、まあ……」
不意にビアンカが身を乗り出し、エルザは少し面食らった。それとは裏腹に、ビアンカは「そうだったの!」と嬉しそうに両手を合わせる。
「シャルフ殿下が外遊中に一目惚れしたって聞いてたから、そうじゃないかとは思っていたの! 私の母もそうなの、もともとは踊り子なのよ。一応父は伯爵の爵位号はいただいているけれど、そう大したものではないし。というか私とオリヴァー様も歌劇で知り合っただけで政略もなにもないし。だから私、正直庶民的な暮らしのほうが性にあってるのよね」
「なるほど、どおりで……」
レブンという家の名に覚えはなかったし、ビアンカのさっぱりとした性格は貴族らしくないと思っていた。きっと母親の影響なのだろう。それでもって政略結婚でもないとくれば家からの余計なプレッシャーもなく、のびのびして見えるのも納得だ。
「お菓子作りは好き? お料理は? 今度
「あ、ありがとうビアンカ……助かるわ、まだ宮殿に来たばかりで慣れないところも多くて」
その様子を、アレクシアは少しつまらなさそうに見ていた。紅茶を飲みながら、じろじろとエルザの頭のてっぺんからつま先までを観察する。
ただ、この空気の中でわざわざエルザを馬鹿にするほど切羽詰まってはいない。むしろぼんくらシャルフ王子の妃など相手にしない余裕がある。
「来たばかりってことは、レディ・エルザ、貴女まだ
途端、空気が凍る。
「……ああ。例の第一王子と第一王子妃が住んでいた宮殿ね」
その空気に気付かないふりをして紅茶を口に運びつつ、エルザは視線だけでビアンカとヴィルヘルミナの様子を
ビアンカのさっきまでの明るい雰囲気はどこへやら、その顔は唇まで青ざめ、お菓子をつまむ指先は震えていた。ヴィルヘルミナが俯き加減だったのは最初からだが、今はその顔を必死に覆い隠そうとするようにほとんど下を向いている。
……2人は、事件に関係しているのか? 気付かれないように視線を落としながら、頭の中で2人の表情を反芻する。ヴィルヘルミナの反応はかなり微妙だ、見た感じの性格からして事件のことを耳にしただけでも暗い顔にはなるだろう。一方でビアンカの反応は過剰過ぎる。半年近く前に第一王子とその妃が弑逆を企んだだけで、そこまで怯える必要があるだろうか。
「そうね。さすがに夏の事件は知っているのかしら?」
そしてアレクシアはまるで他人事かのような話ぶり……。
第一王子が最も王位に近かった以上、この場にいる王子妃には皆、第一王子の失脚を企む理由がある。じっと考え込むエルザの後ろでクローネも三者三様の反応を観察しているのが分かった。
「ええ。第一王子をはじめとした者達が陛下の弑逆を企んだ事件よね。昨年の一大事件だもの、平民でも知らない人はいないわ」
事件の話は聞きたい、しかし酒の肴以上の興味を抱いていると知られてはいけない――。慎重に言葉と態度を選びながら、エルザは少しだけ身を乗り出した。
「私達の間では、元第一王子妃のハンナが早く王妃になりたくて欲をかいたんだってもっぱらの噂だったわ。そうなの?」
「そうよねえ、平民に降りてくる話はそれくらいよね」
貴族の、なんなら王子妃の自分はもっと知っている――そうひけらかすようにアレクシアは得意気な笑みを浮かべていた。
「貴女、知ってる? 元第一王子妃はハンナ・クリスタル。そして、クリスタル家には“魔女”がいた」
「そうなの?」
「そうよ。あのベルンシュタイン一族の血を引く魔女がね」
どうやら、それは平民の間だけではなく宮殿内でも話題になっていることらしい。エルザ自身のことをこれからどう語るつもりなのか、そう考えるとちょっとした好奇心は湧いてくる。
「ハンナ・クリスタルは幻術を使って第一王子を惑わし、まんまと王子妃の座に収まった。でもハンナ・クリスタルの本当の狙いは玉座。だから第一王子は利用されたの」
「陛下に近づくために第一王子に近づいたってこと?」
「そうよ。処刑台にのぼった第一王子はとても正気には見えなかったそうよ、ハンナ・クリスタルの幻術のせいに違いないわ。陛下もそう、あの事件以来――」
その続きは何だったのか、ガタガタッと音を立ててビアンカが立ち上がったせいで聞くことは叶わなかった。
テーブルに両手をついているビアンカは、事件が話題にのぼった瞬間から変わらない青い顔をしていた。
「……ごめん、お茶会の途中だけれど、少し気分が悪くて。今日はこれで失礼するわ」
「あらレディ・ビアンカ、大丈夫?」
「ええ、大丈夫……ごめんなさいねエルザ、また今度ね……」
ビアンカが侍女達を連れそさくさとその場を後にすると、ヴィルヘルミナも「では私も今日はこれで……」とおそるおそる立ち上がってしまい、アレクシアの侍女達も今日はこれでお開きなのだろうという空気を醸し出し始めた。
「残念、せっかくレディ・エルザの歓迎会にもなったのに。仕方ないわね、日を改めましょう」
「ええ、そうですね。わざわざありがとうございました、レディ・アレクシア」
さっきの話の続きは? そう訊ねたいのはやまやまだったが、あまりに食いつきがよくて怪しまれてはいけない。仕方なく引き下がろうとして。
「あ、そうそう。さっき話しかけたことだけど」
思いがけず餌を差し出され、慌てて食いつくところだった。冷静になるために、エルザは一拍置いてから「さっきって?」とすっとぼける。
「白水の宮殿のこと。事件の後、誰も立ち入っていないはずなのに火の玉を見た人がいるんですって。“魔女”の亡霊よってもっぱらの噂だから、貴女も肝試しがてら行ってみたらどうかしら。きっと楽しいわよ」
そっち、か……。内心肩を落とすが、ハンナが住んでいた宮殿も気にはなっていた。アレクシアがこう言うということは、白水の宮殿内を歩き回っていても「探検してました」で済むだろう。
「そうなんですね。少し怖いですけれど、行ってみようかしら」
「シャルフ殿下と一緒に行ってみてはいかがかしら? 亡霊相手なら槍の扱いもなにもないでしょうし」
「そうですね、考えておきます」
火の玉か……。薔薇の宮殿を去った後、エルザは北西に視線を向ける。白水の宮殿はアンムート宮殿に遮られて見ることはできない。下手にハンナとの関係を勘繰られないよう、未だに近づいたこともなかった。
「……私、幻術を使うことができたのね。初耳だわ」
「私も初耳です、エルザ様。しかし、第一王子が正気に見えなかったというのは気になりますね」
はて、とクローネは首を傾げた。
「なにか恐ろしいものでも見たんでしょうか? それこそ亡霊とか」
「分からないわね。とりあえず、今度白水の宮殿に行ってみましょう」
「シャルフ殿下と一緒にですか?」
「あんなぼんくらと行ったら足手まといよ。当然一人で行くけど……」
ふむ、と帰り道でエルザは考え込む。アレクシアは肝試しにもってこいだと言っていたし、あの口振りなら夜間に白水の宮殿に忍び込む者がいるのだろう。もしかしたら亡き王子と王子妃の宝飾品が残っていると期待している者もいるのかもしれない。
「肝試しってことにするなら夜のほうが怪しまれなさそうね。夜に行きましょう」
「怖くないんですか、エルザ様」
「クローネがいるんだもの、怖くなんかないわ」
大体、死んだ人間よりも生きている人間のほうがよっぽど怖い。肩を竦めたエルザに、クローネはちょっと苦笑いしながら「そうですね」と頷いた。
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