第8話

翌日にはリュウ家を出て、その地を離れた。

 徐々に戦禍の香りが漂う地を渡り歩きながら、海を目指して移動する。

 二月ほどそんな生活が続いたころ、一つの知らせが届いた。

 チャンの、危篤の知らせだった。

「……で?」

「その子と、話したいと言うのが、主の願いだ」

 人の姿で現れたキィの言い分に、ランは物騒な笑顔を浮かべだ。

 夜中突然、セイの部屋の窓に現れたかと思えば、随分と無茶を言う。

「断る」

「今わの際の老人の頼み位、聞いてやって欲しいんだが?」

「気が触れたままでないことは、良かったと思う。だが正気ならば尚更、セイをあの爺さんの元には、行かせられない」

 幼い子に、恨みをぶつけられては困る。

 そう言い切る女に、キィは剣を帯びた目を向けた。

「そんな臆病者ではない。恨むなら、本人たちを恨む、そんな人だ」

「へえ、じゃあ、お前は、あの人の姿を貰って、オレたちに復讐でもする気か?」

「それも、いいかもしれないなあ」

 物騒なものが、二人の間を駆け巡る中、セイは二人を見上げながら、目を丸くしていた。

「あの人、元気じゃないのか?」

「気にするな。爺さんだったんだから、いつお迎えが来ても不思議じゃない。ジャックだって、朝起きて来なくなるかもしれないんだぞ」

「お迎え? 誰から?」

「うーん。死者の国、ってやつからの使いかな?」

「そうか……」

 言いながら猫の獣を見上げると、見下ろす目と目が合う。

「話したいことがあるそうだ。一人では行かせられないなら、誰か一緒でもいい」

「……ラン」

 ゆっくりと言われ頷き、セイが女の名を呼ぶと、ランは溜息を吐いた。

「オレが一緒で、いいな?」

「ああ」

 頷いたキィは、窓の外へと飛び出した。

 ランが一旦部屋を出て外へと出、セイは寝床に細工をして窓から出てきた。

 既に、三代目を極端に心配する時期が、仲間内では過ぎていたため、朝までに戻れば騒ぎにはなるまい。

 軽く外出の準備を整えた二人を、キィは背に乗せる準備をして待っていた。

「オキは、留守を頼む」

「ああ。しかし……」

「まあ、大丈夫だろう」

 留守を仰せつかったランを主とする獣は、目を細めて言葉を濁したが、その意を察しつつも女は言い切った。

「朝までには、戻る」

「朝までには、送ってくる」

 不安げと言うより、何やら含みのある顔でいるオキに、ランとキィが頷いて見せ、女と子供を背に乗せた猫の獣は、身軽に走り出した。

 吹き抜ける風から、セイを後ろでかばいながら、ランは黙り込むその気持ちを思いやって、気楽な話をしたいのだが、吹き抜ける風は突風に近く、息をするのがやっとでそれが出来ない。

 その風に慣れて話せるようになる前に、チャンがいる隠れ家についてしまった。

 セイを抱えて地面に下り、小さめの平屋の方を見ると、扉が開いて誰かが飛び出てきた。

「来たっ。いらっしゃいっ!」

 地面に下ろされたセイに飛びついたのは、老人だった。

「あ?」

 思わず荒い声が口をつくランの後ろで、キィが呆れ顔で老人を窘める。

「急に動かないで下さいと、何度言えば分かるんですか」

「だって、この年で、ここまで動けるようになるなんて、嬉しすぎるんだよっ」

 何処から、怒りを向ければいいのだろうか?

 チャンの危篤が嘘、というところか? 

 それとも、チャンが誰かを通じて、ジャックとつながりを持っていたことを、知らされていなかったこと、か?

「しかしお前さん、こうしてみると本当に、小さいんだな。ちゃんと食べているのか?」

「食べてます。差し出されるものは、残さず」

 セイが企んでいたわけではないようだと言うのは、全く含みなく話しかけるチャンに、戸惑っている様子からも分かるが、顔色も良くよどみなく話していることからも、危篤というのは真っ赤な嘘、だ。

 しかも、歩けないはずの足で、チャンは自分でここまで飛び出してきた。

 真っ先に、そのことに驚いて足元を見、怒りが湧いた。

 チャンが履いている物は靴ではなく、草履に似た履物だった。

 まだ、仮の履物なのだろう。

 歪な作りのそれは、小さな足に負担をかけぬよう詰め物を使い、地面を歩けるようにされたものだった。

 こんなものを作ろうと考えるのは、あのお爺さんしかいない。

「それは、違うぞ」

 目に剣を込めたランの心の内を察したキィが、先回りして首を振った。

「セイの爺さんと会ったのは、お前らが押し入って来た時だけだ。あの時、あの爺さんが、チャンさまの足を見て、気にしてくれたらしい」

「だったら違わないだろうがっ」

「だから、作ってもらった訳ではない。作ったのは、オレだ」

 気にはなったが、遠目で義足のようなものは作れないと、ジャックはオキを介して申し出てくれた。

「……」

「様子は、見に来ていたんだろう? お前が、見張らせていると言うのは、知っていた」

 ワン家の事は割り切ったが、チャンの事は後ろめたかったから、オキに時々、様子を見に行かせていた。

 あの猫っ。

 ランは裏切った獣に、心の中で毒づいた。

 自分の姿を、貰ってもらう相手でさえなければ……。

 歯ぎしりしつつ、キィを一瞥すると、猫の獣は更に先回りした。

「お前の姿は、こっちからお断りだ」

「何でだよっ」

 噛みつく女に、キィはオキを介して、ジャックの血を少し分けてもらったと白状した。

 折角自由になった主を、今までと同じように籠らせておくのは、勿体ないと思ったのだ。

 あの異国の老人が、気にかけてくれるのならば、歩けるように出来る物を作る、手助けをして欲しいと、キィは願った。

 セイの紛い物の手を、ここまで精巧に作れる老人ならば、朝飯前だろうと思っての願いだったが、渋ることなくあっさりと、血を届けてくれたのには驚いた。

 七日ほど前に、今チャンが履いている物を作り上げ、調整しながら歩く練習をしてもらっているところだ。

「まだ、歪な物しか作れないから、激しい動きは出来ないんだが、外を歩き回れるようになったら、この通りだ」

 この回復は、キィにとっても意外だったようだ。

 気の抜けた笑みで、主を見つめて言う。

 そんな様子に、ランも少し気が抜けたような気がする。

 気が触れてしまったのを見た時は、本当に申し訳なく思い、少しでも楽させてやりたいと思ったものだが、拍子抜けするほどに元気になっている。

 旦那だったワン爺の事は、思っていたほど慕っていなかったという事だろうか。

 最期に飛びかかって来た老人の、必死な形相を思い出すと、複雑である。

 そんなことを思っていると、セイと話していたチャンが振り返った。

「中へお入りください。お世話になっているので、こういう言い方もおかしいですが」

「いや、気にするな。寧ろ人がいないと、すぐに寂れてしまうから、思う存分住みつぶしてくれ」

 言いながら招き入れられた家内は、先に見た離れと同じく、小綺麗にされていた。

 チャンが動けるようになった分、家具も手が届くところにはなく、壁際で落ち着いている。

 茶を入れようとするチャンを座らせ、ランとセイは机の向かいに座るように勧めると、キィは奥へと引っ込んだ。

「……話があるとは、どういうことだ? さっき外で、話せる話じゃないのか?」

「話そうと思えば話せますが、改まって話したいと思うのです。このことは、特に真摯に話したい、と思うのですが……」

 チャンが、少し躊躇った。

「あなたは、何処までご存じでしょうか?」

「何処?」

 眉を寄せるランに、老人は答えた。

「ワン家の今を、何処までご存じでしょうか?」

「……遠縁が、家を継いでいるのは伝え聞いてる」

「そう、ですか」

 言いながら、チャンは天井を仰いで首を傾げた。

「あの、毛の長い黒い猫は、あなたを主としている獣ですよね?」

「オキの事か? ああ。キィもそうだろうが、切羽詰まった時でなければ、動かない。特にあいつは、人の姿を取れなくなって、長いから」

 軽く答えるランを不思議そうに見やり、老人はまた首を傾げた。

「ですが、ここやワン家の見張りは、あなたの命令ですよね?」

「? ああ。だが、余程危うい事になっていなかったら、知らせてはこない」

「そうですか。……だから、なのか?」

 考えて呟くチャンに、女は身を乗り出した。

「おい。何の謎かけかは知らないが、話とは何だ? くだらない話なら、帰らせてもらうぞ」

「あ、いや、申し訳ない。どうしよう。どう話せばいいか、分からなくなった」

「あ?」

 困った顔になったチャンの、訳の分からない言い分に、ランは思わず荒く返してしまった。

「取り繕う事はない。さっさと、話すことだけ話せばいいだろうっ」

「わ、分かった。じゃあ……」

 女にしては迫力のある言い分に、チャンは慌てて言った。

「お礼だけ、言わせて欲しい」

「は?」

 身を乗り出したままの姿勢で、女がきょとんとした。

 そんなランの前で老人は、キィが茶うけに出した餅を、勧められるままに口の中いっぱいに頬張っているセイに向かって、神妙に言った。

「ここまでの成り行きは、とても険しかった。だが、ワン家は今、立て直しに向かっている。有難う」

「待てよ」

 まだ気が触れているのでは、そんな不安を滲ませて呼びかけるランに、チャンは苦笑する。

「私は、正気です。心配には及ばない」

「だが、おかしいだろうっ? ワン翁は、もういないんだぞっ?」

 つい、言ってしまった。

 ランは、勢いで口走ってしまったその言葉を盛大に悔いたが、はっきりそれを聞いたチャンが、きょとんとして女を見つめた。

「す、すまない。斬った本人が、こんなことを言うのもなんだとは思うが、あんた、あの爺さんが最期、あんたを助けようと襲い掛かったの、分かってたよな?」

 目を丸くして黙ってこちらを見る目に、いたたまれなくなったランは、続きを口走った。

「こいつは、そんな奴らの頭をやってる子だぞっ。礼を言うのは、おかしい……って、何で笑うんだっ? あんた、本当に、あの爺さんを何とも思っていなかったのかっ?」

 驚いて目を丸くしていたチャンが、不意に優しく微笑むのを見て、ランは話の途中で怯んでしまう。

 狼狽える女に、老人はゆっくりと言った。

「本当に、あの方と私は、助けて下さる気だったんですね。矢張り、礼を言うべきでしょう」

「助ける気はあったが、助けられなかった」

 頑なに言うランに、チャンは優しく言い募る。

「助けるつもりであった、それを聞いただけでも、有り難いと思ったのです」

 それに。

 老人は小さく続け、後ろを振り返った。

 裏口から、誰かが騒々しく入ってきたようだ。

 キィと何やら話しながら、その誰かは騒々しくこの部屋へと入って来た。

「チャン、また来たぞっ。今日は、昼間に捕った鹿を持ってきたから、泊めてくれ。明日、干し肉を作ろう」

 無骨な老人は勢いよく押し入り、盛大に声を張り上げると、すぐ客に気付いた。

 顎が外れそうな勢いで口を開け放つ女と、頬を膨らませて口をもぐもぐと動かし、茶をすする童子を見て、老人は顔をほころばせた。

「おお、来たのかっ。健勝そうで何よりだ」

 ランは閉じられない口をそのままに、押し入って来た老人を見つめていたが、何とかチャンへと目を向け、どういうことかと目で問う。

 細身の老人は、優しい笑みを浮かべたまま言った。

「こういう事で、ワンさまは助かっているから、あなたが病むことも、ないでしょう?」

 どういうことだよっっ。

 叫びが出たのは、もう少し後だ。

 それほど、様々な衝撃が同時に、ランを襲ったのだった。


 ワン爺が女に斬り捨てられ、倒れ込むのを上から見つけ、バァイは悲鳴を上げて地面に落ちる勢いで降り立った。

「ワン様っ」

 思わず叫びながら、主に縋りつく。

 チャンの泣きわめく声と、キィの怒号も気にならない。

 斬られた場所を探し、まずは傷を塞いで血を止めようと、ワンの体を起こしたのだが、そこでおかしいと気づいた。

「?」

「……ん?」

 波が過ぎ去るように、賊の喧騒が去り、静かになっていく。

 それを怒り任せに追う気にもなれないくらい、動けなくなっていた。

 抱き起した主が、目を見開いて自分を見上げている。

「……」

 しまった。

 先程までの悲壮を忘れて、バァイは思った。

「……バァイ、か? 随分と、甲高い声なのだな、驚いた。もしや、このせいか? 今迄その姿を、見せてくれなんだのは?」

 まさに、このせいなのだが、頷く前に離れから獣が飛び出した。

「あ、姉上っっ。もう、嫌だっっ。山に帰ろうよっっ」

 甘ったれなことを叫びながら、もう一人の鷹がバァイに飛びついてくる。

「人間怖いっ。あんなのと、もう会いたくないようっ」

「落ち着け。それには頷くが、後始末位、して行こう。賊の死体が、死屍累々だ」

 短く言葉を区切りながら、白い鷹の弟を宥めたのは、一番初めに賊の餌食になったはずの獣だった。

「ん? お前、無事だったのか。随分と、細かく引き裂かれていたように見えたが」

「言わないでください。その衝撃を受け流し切れず、危うく狂うところでした」

 事実、同じような目に遭った役人は、賊の死体の間で悶絶していると、ワンの真顔の問いに答えた狼は苦い顔だ。

「何ともないような笑顔で、頭潰されたんだよっ。あいつ、生き物の風上にも置けないようっ」

 泣きわめきながらバァイに縋る弟の言で、ワンは離れの方へと目を向ける。

「倅どもは? 無事か?」

 己も斬られたと思ったのに、こうして無事だ。

 それならば、もしやと思った。

 衝撃だけは体に残ってしまい、中々動けなかったが、バァイの肩を借りて立ち上がり、離れへと向かう。

 獣たちも、倅たちも、命は助かっていた。

 ぼんやりと座り込む猫の獣の道士の奥で、一郎が泣き叫び、二郎は自分が入って来た物音にびくついて、身を縮めた。

 どちらも、完全に気が触れてしまったようだ。

「……完全に、手玉に取られてしまったようです」

 ぼんやりと座り込んでいた道士が、ワン爺に目を向け、うっすらと笑った。

「一体、どういうことだ?」

「怒りを静めるには、どうしても一度、そこの倅たちの命を、刈り取らせるしかなかったと言う事だ」

 静かに問いかけたワンに答えたのは、落ち着いた聞きなれぬ声だった。

 振り返るが誰もいない。

 が、道士の目線がやけに低い位置で止まっているのに気づき、老人は離れの外の地面に目を落とした。

 そこに、毛の長い黒い猫を見つけた。

 見たこともない猫だが、似た猫を知っている。

「……お前、同胞、か?」

 道士の問いに、猫は頷く。

「未熟な成獣、か。本人が気づくすべが、余りないのが難儀だよな」

「……本当にな。まあ、敵対するほど、競争心はないが。互いに見知った者でなければ、未熟者同士が気づかないと言うのは、本当に難儀だ」

 生粋の成獣ならば、未熟な者も成獣も、見分ける。

 ついでに、禁忌を犯した未熟者も、禁忌を犯した自覚がない者も、正しく見極めて成敗すると言われていた。

 自覚がない者は、正規の法で主の姿を貰ったと思っているから、真っ当な手順を踏んで、次の主を選んで守るから、成敗される的にはならない。

 道士も、自覚がなかった。

 小心者過ぎて、虚勢を張りだした一郎を、放ってはおけなくなってしまい、数年前から仕え始めたが、チャンの傍にいた三人が同胞だと言うのにも、全く気付いていなかった。

「ただの小心者で、放っておけなくてついつい仕えていたが、ここまで落ちてしまうとはな」

 窘めるのは、獣の仕事ではない。

 ただただ、指示に従い守るのが、猫の獣だ。

 だが、猫の姿のままの黒い獣は、その習性や本能に逆らって生きているようだ。

「……これから先、この辺りは戦で荒れる。なのに、役所という力のある場所がなくなってしまっては、戦禍でも戦の後でも、色々と障りがある」

 蛮族と、少しでも戦える者がいた方が、この地の者を救う事になるだろうと、気休めではあるがそう考え、本当ならばこの時期、役所には手を出さないつもりだったのだ。

 勿論それも、戦前という時期でなければ話が別だが、今は全て流して通り過ぎるのか最良だったのだ。

 なのに、それを覆した。

 ただ一人の、大事な人物を取り戻すために。

「あの金髪のガキな、あれ、あの賊の頭なんだよ」

「成程」

 獣たちとワンが揃って頷くのを見て、黒猫は目を細めた。

「驚かないのか?」

「いや、あれだけの事をしでかしておいて、ただの下っ端だったら、その方が驚きだ」

「あれ以上の者が、上にいるのならば、打つ手なしだろう」

 真顔で猫に答え、ワンがしんみりとしながら頷いた。

「別れるとき、謝られた。あの後も、心を砕いてくれたが、これが精いっぱいだったと、そう言う事だな?」

「……話が早すぎて、少し不安になるんだが、そう言う事だ」

 賊の頭が真剣にかけた初めての呪いは、賊たち全員を騙すことに使われた。

 道士の後について回り、見張りとして立っている役人を、隅々まで見て回り、自分が知る賊たちを思い浮かべる。

 喧騒が道士の眠るところに届く前から、ワン家と役所全体をその呪いに取り込み、死なせない呪いを、役人たちに被せていった。

「……賊のほとんどの顔を、まだあの子は知らない。だから、役人は生き、賊の殆どがあんたたちによって、死に絶えたという事だ」

 その上、この呪いには、大きな弊害があった。

「初めての試みである上に、人数も多かった。だから、痛みや感覚を無くすのは危ないと、何となく思ったらしい」

「ああ、危ないな。悪くすると、そのまま感覚を無くし、動けなくなったまま、生きながらえることになる。息すらできなくなっていたら、どちらにせよ死ぬ」

 黒猫の言葉に、道士が真顔で頷いた。

 鷹の弟が、口の中で悲鳴をかみ殺す。

 呆れ顔の姉に縋っているが、それを咎める者はいない。

 似たような思いが、獣たちの間では浮かんでいたからだ。

 先程の感覚を思い出すと、どちらが良かったか、決めるのは難しい。

 だが、あの童子が、こちらを生かす方向で、考えてくれていたのは分かった。

「この後、どうするかは、あんたの考え次第だが、そこの二人を、表に立たせるのだけは、やめて欲しいとのことだ」

 黒猫が、頭の言葉を伝えると、ワンはすぐに頷いた。

「そのつもりだ。どうせ、この調子ではもう、正気には戻るまい。まずは、倅どもと部下たちの介抱だな」

 それから、大忙しだった。

 無事だった部下である役人たちを介抱し、心が病んだ者は出来得る限りの手を尽くし、実家に送り帰した。

 恐怖が体に染みついてしまった者も、同じように送り帰したため、役所はほぼ無人となってしまった。

 その状態から、まずはワン家の立て直しに向けて動き、血筋を探し出して養子にして当主に据え、息子を試験に送り出す手はずを整えた。

 ワン爺の人柄を知る者たちのつてを頼り、役所の人材も確保し、落ち着いて隠居生活に戻ったのが、数日前だ。

 そこでようやく、チャンの行方が知れた。

 ワン家とその周りが落ち着いたと見た黒猫が、その場所を教えてくれたのだ。

「……余り、大っぴらに近づくな。ようやく、あちらも正気に戻ったようだから、当面は心配ない」

「わ、分かった」

 釘を刺されたが、ワンは辛抱が出来なかった。

 無事を確かめたい。

 自分も無事だと、チャンに伝えたい。

 そんな悶々とした気持ちを察し動いてくれたのは、病んだ一郎の面倒を見ていた道士だった。

 夜中にチャンを尋ね、こっそりと約束を取り付け、ある夜、これまたこっそりとチャンのいる隠れ家に、連れて行ってくれたのだ。

「これを、キィに渡しておいてください」

 今では、恥ずかしがらずに人の姿を取ってくれるバァイは、留守を引き受けてくれた上に、大きな魚を手土産に持たせてくれた。


 そして、今に至る。

 久しぶりに顔を合わせたチャンとワンは、呆れた顔のキィと、やれやれと首を振る道士の前で抱き合って、ひたすら泣いた。

「それまでで、出尽くしていたと思っていたのに、あの日は、頭が痛くなるほどに泣いてしまった」

「本当にな。互いに無事会えるとは、思っていなかったからなあ」

 それを思い出しながら、二人は寄り添って座り、しみじみと言う。

 今では、珍しくもない光景だ。

 その向かいでの、何故か暑苦しい揉み合いは、初めて見るが。

 近くの木に、貰った鹿を丸ごと吊るしてきたキィは、主たちの向かいで、ランが餅を咥えたままのセイを抱え込み、くすぐり攻撃を繰り出している様を見て、呆れた声を上げた。

「お前たちは、何を遊んでいるんだ」

「こいつ、オレに黙って、こんな手の込んだ騙しをやらかしてたんだよっ。くすぐりの刑の罰を下してるんだっ」

「……効いてないな」

 どちらも若く、容姿もすっきりとしているから、そう感じることはないはずなのだが、何故か暑苦しく感じる。

 セイが咥えている餅が、その顔よりも大きいからだろうか。

「……でかく作り過ぎたか」

 今日は元々、セイをここに呼ぶつもりで、朝からチャンと共に支度をしていたのだが、あの爺さんの力を少し頂いてからこっち、作るもの全てが大きいか、多くなってしまう。

 まだ兄弟が残りを食べてくれるからいいが、小食のチャンはいつも残してしまうから、最近はそれが悩みの種だった。

 味はいいと、褒めてくれるのだが……。

「くそっ。何で、笑わないんだよ、お前はっっ」

 くすぐるのをやめて、小さな体にしがみつくランを、セイは無感情に見つめつつも、餅を頬張るのをやめない。

 いつからここまで、食い意地が張った子になったのか。

 不思議に思いつつ見守っていると、ランが叫んだ。

「こらっ。寝るなっ」

 ……ああ、変わってなかった。

 目を開けたまま、器用に眠っている。

 そのくせ、頬張っている餅も、みるみる小さくなっているから、食べている途中で寝てしまったわけでもない。

 笑顔はなくなったが、それ以外は昔のままだ。

 懐かしい気持ちで見守る猫の獣の前で、ランはセイの体をゆする。

「だから、寝るか食べるか、どっちかにしろって。そんなんじゃあ、横に大きくなるぞっ。別にいいけどさ」

「……いいのか?」

「いいとも。ふくよかでも、この子なら、絶対可愛い」

 キィの呆れ交じりの問いに、女が胸を張って言い切った途端、セイの目がはっきりと覚めた。

「可愛いは、嫌だ」

 寧ろ、何でこんなに変わりがないんだ?

 逆に不思議がぶり返してしまったキィを見て、セイは目を瞬いた。

「爺さんの味なんだけど。こんなことまで、引き継げるのか?」

「こんなことまでしか、だな。血で引き継ぐのは、血の主の技だけだ。だから、加減が分からないんだ」

 剣技でも料理でも、同じだ。

 長い経験から得た、その場に順応する力は、引き継げない。

 だから、作る料理の量をうまく調節できないでいる。

 主の姿を貰えば、そのすべての技量を使いこなせるようになると聞くが、それを試す機会は今の所ない。

「私の姿を貰えば、キィは向かうところ敵なしの獣となれる。見れないのが、本当に残念だ」

「バイヘイは残念なことだったな。あまりに成獣にこだわり過ぎて、気がはやってしまい、道士が息を引き取った後も、しばし気持ちが残っていたのに気づいておらんかったらしい。化け猫と気づかれて、ほんの一時、抗いがその身に残ったせいで、未熟な成獣となってしまったようだ」

 いつのまにか、ワンは道士の獣に、名前を付けていた。

 一郎の世話を請け負ってくれているのを、感謝しているからだと言っていたが、意外に従順だと、可愛がっているようだ。

「……一郎の方は、悪ガキに戻ったように、庭を駆け回っておるそうだ。なりが大人だけあって、力のある者が抑えることになるが、まあ、このまま無邪気に、世を往生してもらえればと思っておる」

 道士だけでは心もとないと、狼と犬の獣が、一緒に世話に当たってくれている。

「二郎の方は、あれから随分と体が縮んでな、儂よりも小さくなってしまった。髪もみるみる真っ白になって、食も随分と細くなった」

 小さな物音にも飛び上がり、悲鳴を上げて泣き叫び、寝台から出てこない日もあった。

 こちらは、鳥の二人が世話をしてくれていて、徐々に音に聞き慣れて来て、少しずつだが落ち着いていると知らされた矢先、風邪をこじらせた。

「今は、寝床から起き上がれないほど、弱っておる。食べ物も更に受け付けなくなってしまって、白湯も二回に一度は吐き出すのだと、知らせがあった」

 ワン兄弟は今、親戚のいる小さな村にいる。

 ワン家のある地よりも寂れ人も少ないが、山よりの村であるため、実家よりものびのびと暮らせているはずだ。

「本当は、儂が隠居する前にそこに押し込んで置こうとも思ったのだが、跡継ぎがいなくてな。責を背負えば、少しはましになるのではと言う、淡い期待があって、思い切れなかった。目を離したら、田舎でも暴れまわるのではと言う恐れも、あったからな」

 こういう事になった後だから、思い切れた。

「出来れば、儂よりも先に逝ってくれれば、憂いも残らんのだが、それは高望みだな。お前さんは、あの獣たちにも、罰を与えているのだろう?」

 ワン兄弟の様子を、時々獣が交代で知らせに来る。

 その全員が、焦燥していた。

 兄弟の世話が苦痛なのではなく、休むたびに悪夢にうなされるのだと言う。

 あの日、賊の手にかかった時の事を、夢として鮮明に。

「一郎は、ひとしきり暴れた後は、現の世から逃げてしまった。二郎の方が、少しは骨があったのだろう、夢に出る現を受け止めようとして、病んでしまっている」

「あんたは? オレが斬った時の悪夢を、今も見るか?」

 言いながら、ランはセイの口をふさいだ。

 餅を食べ終えた後、話のある言葉に首を傾げ、訊き返そうとしていたからだ。

 どう考えても、話の腰を完全にへし折りそうな問いかけになりそうで、慌てて女は動いた。

 真面目な話の途中なのに、ワン兄弟の骨の有無の問いかけは、完全に的外れで気がそがれる。

 取り繕ってのランの問いに、ワン爺は疑うことなく答えた、

「まあ、偶に見るが。無念を思い出すうえでは、有り難い夢だ。もう、あんな下手な負け方はしない。そう覚悟ができるからな」

「そうか」

 良かったと笑顔で頷く女を、口をふさがれたままのセイが睨む。

 それは見ぬふりをして、ランは自分の気持ちを告げた。

「正直言って、こういう終わり方は、不愉快だ」

「ああ」

「だが、うちの者全員、ワン家の事は終わったと、そう思っている」

「うむ」

 頷く老人二人に、先程より苦みを込めた笑みを向けた。

「だから、オレも終わったと思うしかない。本当は、二郎は特に、許したくないんだが」

「? 何で? メカケ云々が、まだ許せないのか?」

 口をふさいでいた手を振りほどいて、セイが不思議そうに尋ねるから、それには首を振った。

「それだけじゃない。あの男は、牢の中で気持ち悪い事を、オレに仕向けてきたんだ」

「へえ」

 その時の怒りを思い出して、少し声を荒げた女に目を見張り、セイは頷きながら言った。

「食べられない物を口に突っこまれたり、死体に襲われたりしたのか。それは酷いな」

「そこまでは、倅も思いつかんだろうっ。どういう気持ち悪さだっ」

「ああ、されてないっ。というか、食べられない物ってなんだ? まさか……」

 ワン爺の鋭い文句に返し、ランはつい訊いてしまったが、途中で言い淀んでしまう。

「獣の糞」

 だが、それでは済まない返しだった。

 言葉を失った女に、静かにキィが呼びかける。

「おい、ラン」

「……何、だ?」

「あの狼、何やったんだ?」

 そこは、違うと言いたいが、似たようなものだなと非道なことを思う。

 己が女の元に逝くために、老婆に託した子を、そのままにしていたのだから。

「……狼は、この子を助けた後、ジャックの妻に押し付けたんだ。その後、この子は行方をくらました」

「……狼の、というわけではないと見て、いいんだな?」

「ああ。いくら何でも、そこまでおかしな奴じゃなかった、はずだ」

 キィに答えながら、ランは自分の怒りが馬鹿らしくなってきて、一気に肩から力を抜いた。

 比べるには酷すぎる気持ち悪さを、セイは平然と口にした。

 こちらを宥めるつもりでの言い分ではなく、完全な素の気持ちで。

 気が抜けすぎて力なく溜息を吐く女を、セイは首を傾げて見上げた。

 その顔を見下ろして笑顔を浮かべ、小さな頭を軽く叩きながら言った。

「喉元は過ぎたから、もうオレ自身の気持ちなんか、どうでもいいや。これからしばらくは、生き地獄の目に合うんだろうし、それで満足しとく」

 一郎の方は、楽なことになってしまったが、あちらには殆ど恨みはない。

 これで、あの地が少しは穏やかになったのだと思う事で、良しとすることにした。

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