第6話

 オキが伝えてきたロンの見立てをまとめるように、ランは天井を仰ぎながら口を開いた。

「セイは、道士の術で消えたわけじゃないようだ。術から己を守るために消えたから、道士のせいじゃないとまでは言えないが」

 その傍に座るエンも頷いた。

「すぐに思いつくのは、その道士が何かしらの術で、ロンをはじめとした仲間に見えない細工をした、という説ですが、これは当の道士がセイを見つけられていない時点で消えます」

「ロンやオキですら、何となくその気配が分かるくらいで、ワン家の獣どもも、少しはおかしな気配を感じてはいるようだ」

「キィと言う獣の兄弟が、毛を逆立てていたのはそのせいでしょう。何をやっていたんでしょうね」

 怖がられる姿かたちをしていない、しかも今は完全に見えない子供の何を、そんなに怖がっていたのか。

 それに答えたのは、オキだ。

「置かれた紙に、筆で字を書いたんだ。誰もいないのに、筆だけ動いて字が書かれれば、恐ろしいに決まっている」

「……何やってるんだ、あの子は」

「まあ、あの離れの主が尋ねたことの答えを、文字にしただけだが。どうやら、あのチャンと言う老人だけが、姿を見止められるらしい」

 ランが唸った。

「つまり、老人には見えるのか。それとも……」

「後者は、そこまで有力には思えません。ワン家の長子が、ロンたちとの顔合わせの場にいたんですよね? ロンは道士の後ろのあの子の気配に気づいたし、チャンと言う老人も、その姿を見つけた。その長子も見えていたのなら、騒ぐはずです」

 エンのもっともな言い分に、ランはまた唸る。

「死期は、関わりないか。じゃあ、老人に見えるのか。どうする?」

「どうするもなにも」

 色々な気持ちを込めた問いに、エンは穏やかに答えた。

「お爺さん子にしてしまった責は、オレにありますので、早急にジャックを天に召します」

「それで、おさまるか? お前も、婆さんの立ち位置から、兄の立ち位置に変わらない事には、根元の所は治らない。あの子の完全な短所になる前に、しっかり心づもりをしてくれ」

「分かりました。その前に、目下のジャックの件を、さっさとこなして来ます」

「ちょっと。仲間割れは、後にしてよ」

 身軽に立ち上がったエンを、今まで黙っていたマリアが呆れ顔で止めた。

「大体、あのお爺さんが天の方に召される? 地獄の方でしょ」

「じゃあ、地獄、もとい修羅の国に、突き落として来ますね」

 何で、この二人を遊ばせて、皆出払ってしまうのだろう。

 マリアは苦い気持ちを顔に出しながら、留守を言いつかった手前、精一杯窘める。

「そちらよりも先に、考えなきゃいけないことが、あるでしょ? どうすれば、消えてしまったあの子の姿が、私たちに見える様になるの?」

「それな」

 ランは短く言った頷き、真顔で言った。

「そんなものに対する文献が、この世に出回っていると思うか? 隠れ家の書物にも、そんな都合のいいもの、ないぞ」

「じゃあ、どうしてロンは、文献で調べろと?」

「文献と言うより、訊いてみろという事だろうな」

 ランは答えて、大きく溜息を吐いた。

「まあ、オレくらいだからな。あの人と楽に、繋ぎを取れるのは。もっとも」

 女は襟口から一つの封書を取り出し、苦笑した。

「単に、あの人の弱みを握っているから、すぐに繋がるってだけ、なんだけどな」

 あの人とは誰か。

 そう問う前に、それは現れた。

 封書を開こうとするランの手首を、誰かの手がしっかりと掴んだのだ。

 明らかにエンでもマリアでもない、男の手だ。

「……お前は、なぜこういう場で、呼び出そうとするっ?」

 真面目な声が、焦っている。

 自分と同じくらいの背丈の、同じような細身の男を振り返り、エンが思わず叫んだ。

「親父さんっ?」

「え? この人、カスミの旦那?」

 初顔合わせのマリアが、飛び上がるように椅子から立ち上がった。

 同じように立ち上がったエンと、立ち竦む女を見回し、ランは唐突に現れて自分の動きを止めた男を見上げた。

「あの獣は、術の類に長けてるんだろ? 訊きたいことがあるんだ」

「そんなことのために、わざわざ遠いこの地まで呼び出すな。帰れなくなったらどうしてくれる。あの人はな、行きはいいが、帰りは面倒臭がる獣なんだ。最悪、この辺りに住み着くぞ」

「いいじゃないか。その方がこちらとしては、有り難い」

「私が、この群れを出た意味が、なくなるではないかっ」

 珍しく、悲痛の混じる言い分だった。

「……戻ってきたら、いいじゃないですか」

 驚きから覚めたエンが、冷ややかに返した。

「あんな小さな子に全てを押し付けて、気楽な身の上になる理由が、その獣だと言うならラン、構わないから呼んでください」

「そのつもりだ」

「やめろ。一体、何の用で呼び出す気だ? ものによっては、私が、答えてやるから」

 ランの口元が僅かに緩んだ。

 意外に策士だ。

 元々、ランが呼び出したかったのは、この二代目頭だ。

 しかも、自分の口で答えると言う約束まで、引き出した。

 話の進みにはついていけないが、マリアにもその事だけは分かった。

「……いつもこうなら、苦労はないんだが」

 オキが呟く。

 本当にと無言で頷く女の前で、ランは先の話を手短に父親に話した。

「……そうか。随分唐突に、開花したのだな」

 立ったまま話を聞いたカスミは、そう言って頷いた。

 何とか、ランの持つ封書を奪おうとしているようだが、それを強引にはできないらしく、再び襟口にしまわれるそれを、なんとも言えない顔で見守りながらの頷きだ。

「……開花ってほど、大仰な話か? 件の道士の術から身を守るために、ついつい姿を消したってだけじゃなく?」

「これまで、術の類の力は、見せたことがないのだろう? ならば、開花でいいだろう。ただ、自分の身を守るその術をかけるつもりはなかったから、なぜそうなったか分からず、解けなくなっているだけだ。だから、一生そのまま、という事はない。感覚をつかめればおのずと、解く方法も分かるはず」

 真面目に言う男に、娘は溜息を吐いた。

「一生そのままではないにしても、いつ解けるか分からないのは、困るんだ。最悪、姿が見えないまま、移動もしなくちゃいけなくなるじゃないか」

 元々、感情の起伏が乏しい子供だから、気配でそれが分かるようになるかもしれないが、不便なのは変わりない。

 老人だけには、見えているかもしれないと言う考えに至った今では、尚更そう思う。

 やはり、件の獣を呼ぶか、と考え始めるランに気付き、カスミは真面目に言い切った。

「あの子も、姿が見えないと言うのが不便だと言うのは、感じているだろう」

「そうか? この方が楽だなんて、思ってはいないかな?」

「……恐ろしい事を、言わないでください。有り得そうなんで」

 父親の考えを、ランも真面目を装ってぶった切るが、それはエンが顔を引きつらせて窘めた。

 構われたい年頃なのに、全くその様子が見られないセイを知る兄貴分の、心の底にあった不安だった。

 そんな姉弟に構わず、父親は真面目に言い切った。

「術がきっかけなのならば、その術の元が消える、あるいは、その術を使うことになった発端が消えれば、安心して出てくるかもしれない」

「……結局、それ頼みしかないのか? それは、最後の手段にしたいんだよ。あの獣の道士には、生き地獄を味合わせてやりたいんだ。あんな気持ち悪い目にあわされたのに、その発端が瞬殺じゃあ、溜飲が下がらない」

 完全な私情が、ランの口から飛び出した。

 意外に、先の出来事が尾を引いている。

「いい薬になって、何よりだ」

 オキは小さく笑っているが、マリアとしては少し複雑だった。

 ランはカラカラな性格で、人好きのする顔と相まって、男女に親しみを持たれる。

 色恋も、色だけが先に進み、恋にまで至る前に別れる方が多く、その相手にはマリアの父母も含まれていた。

 件の役人のせいで、その関係が壊れるのではないかと思うと、父親は耐えられないのではないかと思う。

 ランが子を孕めないからと、仕方なく無理に契った女との間にできた子供が、マリアだった。

 例えよそに気持ちが向いていても、女のランに思われているのは自分だと言う、妙な自信も芽生えている父は、物心ついた時から娘の前でも、見知らぬ女の事を募っているのを隠さなかった。

 母親の方にも経緯は聞いていたから、これも娘としては複雑なのだが。

「……まあ、いい薬になる、かな」

 ラン本人だけではなく、父親の方にも。

 最近は、驕りも見せ始めていたから、いい機会だと思い直して顔を上げると、初顔合わせの先代頭に、何故か見つめられていた。

「……っ」

 慌てて笑顔を浮かべ、小さく頭を下げて見せると、カスミはやんわりと笑った。

「父とは違い、有望な子だな」

「だろ? それとなく煽った甲斐があった。単純だからこそ、遊んでも後腐れない男だったんだよな」

 しみじみと答えたランは、マリアを見つめながらも、その母親を思い浮かべているようだ。

 母は、自分を身ごもった時で、かなりな高齢であったらしい。

 だから、新たな分身が欲しかった。

 ランには子を身ごもらせることはできず、別な男を探すしかなかった。

 子までなした男女は、それぞれが引き合わせた当人に懸想していた。

 ただ懸想と言っても、男と女の心の機微は、少しだけ違う。

 好んでいるのは同じだが、父親の方には打算も確かにある。

 今、目の前にいる先代の娘を手中に収め、群れの上層にのし上がると言う打算だ。

 マリアを押し付けた時には既に、カスミから幼い子供へと代替わりしていたおかげで、半ばその夢は潰えているが、子供が美しく成長しているのを見ているうちに、また別な野望が住み着いたようだ。

 母親の、今までの人生の経験を全て受け継いだマリアは、もう少し年を重ねたら独り立ちし、群れたちと違う意味での汚れ役を引き受けることになる。

 今は、セイが出来ない衣服の繕いの類を主に手伝うくらいしか、役に立ってはいないのだが。

「……私の父の事はいいから。朝までに何とかしないと、そのご老体まで、手にかけないといけなくなっちゃう」

「先の短いご老体は、苦しませぬように、怖がらせぬように、あっさりと手にかけますので、ご心配なく」

 色々な考えを振り払いながらの言い分に、恨みしかないとしか思えない返しを、エンはきっぱりと口にした。

「落ち着けエン。先が長いか短いかは、会ってみないと分からないだろ? それに、聞いた限りだと、お前と似た境遇……」

「だからこそ、苦しまぬ様に逝かせるつもりなんですが。オレなんかより何十年も長く、そんな境遇にいたなんて、それしか慈悲にはなりません」

 きっぱり言い切る息子に、カスミが唸った。

「矢張り、放っておくべきではなかったか。十年前は、あの家の隠居が、二人の子供を抑えていたから、ここまでお面白おかしい事には、なっていなかったのだが」

 だからこそ、役所には目を付けなかった。

「二十年前も、役所には何の疑念もなかった。エン、お前が牢に入ったのも出たのも、今の隠居が手配したのだぞ」

 真面目に暴露した父親に、エンは当然驚いたが、ランも目を剝いた。

「親父、牢に入れられた息子を、そのままにしてたってのか? てっきり、賄賂を贈って助けたとばかり……」

 面白おかしい? 

 その言葉に引っかかったマリアの前で、ランは父親のあんまりな動きを知り、愕然としていた。

 そんな娘に、カスミは真面目に首をかしげる。

「助ける気は、全くなかったが。それで処刑となっても、それは息子の不徳だ」

 その言い分に流石のランも、目を険しくした。

 エンの方は、話が変わってから既に間合いを伺っている。

 そんな子供たちの傍で、カスミは立ったまま真面目に言った。

「我々の所業も、その元となった押し入り先の経緯も良く調べたうえで、あの御仁はお前を捕らえ、ほとぼりが冷めた頃に開放したのだ。どこからか保釈金が出たと言い訳してな」

 実際は、皆殺しにされた家の者の悪行が、全て出尽くした後、エン自身の潔白は分かったからだった。

 保釈金の余りとして、僅かだが食料を与え、釈放した。

「……」

「お前、何処まで故郷から離れる気だったのだ? 我々がいた山の中に辿り着いた頃は、与えられた食料を少しずつ食していたとしても、全く残っていなかったはずだ」

「まあ、完全に、人生を悲観してましたからね」

 やんわりと答えたが、そっぽを向いたところを見ると、今では後ろめたい思い出のようだ。

「この辺りは、ジャックに感謝だな。矢張り、黄泉送りは、見送るか」

「今考えることはない。あれも、そう長くは生きないだろう」

 居心地悪そうにしている弟の前で頷く娘に頷き、父親が話を戻した。

「あの子を隠れたいと思わせた元は、その道士とやらだろうが、それでは少々解せぬ話だ。何故、姿云々は別として、お前たちの元に戻らなかったんだろうな?」

「……」

 そう言えば、とマリアが目を見開くと、ランとエンは顔を見合わせた。

 無言で、目を交わしているところを見ると、思うところはあるらしい。

 マリアにも、何となく考えていることが分かった。

 だから、安心させるためにも答える。

「セイの考えを手繰ったら、これ幸いと群れから離れようとしているんじゃないかって、そう思っちゃうけど、違うと思います」

「何で?」

 ランに信じられないと言う声音で問われ、あの子も苦労するわねと溜息を吐いた。

「そりゃあ、一番の願いはそれだと思うけど、今は、約束事があるでしょ? あなた達の元を離れるのは、十八になってからと。それを破ることは、絶対にしないわ」

「だが、約束事は、破るためにあるようなものだ」

「親父だけだ、そんなの」

 守れない時もあるが、破ることはない。

 ランがきっぱりと言い切るが、カスミは真面目に首をかしげる。

「同じことのように聞こえるが」

 そんな父親に構わず、エンは考え考え口を開いた。

「約束の事を考えると、確かに姿云々を言い訳に、我々の元に戻らない理由が、分からないですね。一体、どうして……」

 ワン家にいる獣たちの様子から、姿は見えないがいることは分かる、そんな感覚らしいから、自分たちにも気配位は分かるのだろうに、何故か一人で、己の事を何とかしようとしているようだ。

「……」

 ランの足元に座るオキが、無言で天井を仰いだ。

 何かに思い当たったようだが、口にするまでもないと思ったらしく、話に口を挟む様子はない。

 ラン姉弟も父親も、そんな黒猫の様子などに構わず、話を進めた。

「とりあえず、押し入ることが決まったのならば、己の信念は覆さずに望むことだ。日が昇る前に、もう少しあの家の事は調べ上げておくのだな」

 そう言って、昔触りだけ調べたその家の事を、簡単に教えてから、カスミは念を押した。

「これで、いいな? それはむやみやたらに、使う代物ではないからな。使うのは、あの国に入ってからにしろ」

「それ、意味ないじゃん」

 本当に困ったら呼べと言われているのに、国を跨げないのは、不便だ。

 不服そうな娘に構わず、カスミは来た時と同じように、唐突に消えた。

「……どうしましょう?」

 父親を見送った後、エンに伺いを立てられても、ランは首を竦めるしかない。

「調べは、他の奴らがやってるから、考えるしかないな。セイの姿を取り戻す方法を、幾つも」

「それしか、ないですね」

 弟は溜息を吐きつつも、紙と硯を取り出してきた。

「箇条書きにしていって、全部試しましょう」

 何せ、明日の押し込みの時に、ぶっつけ本番で行わなければならない。

 そのどさくさで試せる事を忘れて、一番手っ取り早い法を行ってしまうのは避けたい。

 道士の命を絶つのは、一番最後の手段だ。

 姉弟二人の考えは、一致していたのだが……それを行う間は、なくなった。


 ワン家に仕える獣としては老練なバァイだが、年齢はキィの方が遥かに上だ。

 だから、今夜はチャンの元に向かって、一晩守ってほしいと言う、真顔の猫の獣の頼みを、余程の事があったのだろうと思い、引き受けたのだ。

 ワン家に仕え始めたのは、ワンがまだ童子の頃で、巣から落とされて死にかかっていたのを拾われたときからだ。

 死にかかっていたから、その時は仕えると言うよりも養われているだけだったが、懸命の看病と世話を受けてすぐに成長し、恩を返すべく彼に仕え始めた。

 幼馴染のワンとチャンは、もう一人の幼馴染のリー家の童女と共に自分を拾ってくれ、チャン家の物置に住処をくれ、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。

 三人の内、武骨なワンに仕えることになったのは、ワンの家がこの地の守りの要の役人の家柄で、恨みつらみを買いやすい地位にいたからだ。

 武官を目指して共に修行と勉強をしていた、二歳下のチャンより一足早く年頃になり、ワンは試験を受けるべくこの地を旅立った。

 その後にバァイもつき従っていったから、残された幼馴染たちの不幸を知ったのは、ワンが己の父親よりも高い位の役人の座を掴み、戻って来た時だ。

 ワンの正妻として迎えたはずの幼馴染と、もう一人の幼馴染が、自分の父親によって奪われ、取り戻すにはその父親自体の排除しか、手がないほどにまでになっていた。

 夜目の利かない、しかも色の褪せた羽色の弱い鳥の獣が残っていたところで、どんな助けになったのかと今では思うが、その時は心底悔いた。

 旅路でも、それほど役に立たなかった。

 夜はワンの方が腕の見せ所で、賊にあっても追い返せるほどであったし、昼間はワンの肩に乗ったまま、風景を眺めていただけだった。

 せめて、もう二人の恩人たちを、命を懸けて守れたら、あそこまで悔やみはしなかっただろうが、ワンの怒りの方が、バァイの嘆きよりも目ざましかった。

 幼馴染の童女は、ワン家へと嫁いでいたが、ワン本人が留守の間の度重なる父の狼藉で、二人の子を産んだ後は流産を繰り返し、子を望むことはできなくなってしまっていた上に、妻と同年の幼馴染すら日を拝めない体にされたと分かったワンは、当時かなり荒れたが、狂ってはいなかった。

 冷静に物事を見極め、母親は実家に戻し、父親は強引に隠居させた。

 今の跡取りとその弟は、世間を気にした家としての考えで、ワンの子として一郎二郎と呼んではいるが、血筋的には年の離れた兄弟だ。

 充分な教育をするまでと、この地から出さずに兄弟を目の届く場に置いていたのだが、さっさと追い出すべきだったと、ワンはしみじみと話した。

「……」

 だから、何と話してるんだ、このご老体方は。

 離れに添えつけられている止まり木の上で、バァイは体を震わせて全羽毛を膨らませた。

 夕方、訪ねてきた猫の獣が用事があるからと、ワンと自分にチャンの事を頼んできた。

 離れの方に向かうと、キィの兄弟たちが毛を逆立てて二人で抱きしめ合っている目の前で、チャンは机に向かって座っていた。

 机には書を書く道具が並べられ、広げられた古い紙には文字が書かれていたが、ワンは首を傾げた。

 バァイも紙の向きと、チャンの向かい側からの気配に、羽毛を逆立たせた。

 そんな二人に気付き、チャンが笑顔になる。

「どうしました? もう日が落ちてしまったのに」

「キィが、用事で出かけるそうだ」

 短く答えたワンが、首を傾げたまま続けた。

「その子は、誰だ?」

 ただでさえ逆立っていた羽毛の下で、更に寒気が増した。

 矢張り、そこに何かがいる。

 なのに、自分にも猫の獣の二人にも、姿が見えない。

 そんなバァイを止まり木に移しながら、ワンは首を傾げた。

 楽しそうなチャンの方へと目を移し、もしやと呟く。

「我々にしか見えぬ童子、か?」

「そのようです。今まで話をしていたのですが、その様子をこの子たちに見せることが出来なくて。私が見える様子を、そのまま伝えていたのです」

「ほう」

 楽しそうなチャンの説明に、ワンも顔がほころんだ。

「その様子では、キィにも見えていないのか?」

「はい、恐らくは。先程この子、道士に張り付いていたんです。なのにキィには見えなかった。すごく残念そうにしていたもので、手招きしてここに招いたんです」

 何故か嬉しそうに微笑むワンに、チャンは文字が書かれた紙を見せる。

「ただ、声の方は私も聞こえないのです。ワンさまには、聞こえますか?」

 問われてチャンの向かいを見つめた主は、残念そうに首を振った。

「口の動きは見えるが、声までは聞こえないな……ああ、落胆することはない。口元は読めたぞ。なんだ、楽しいな」

「ですよねっ。この子たちもアバァイも、キィを通じないと何を言っているのか、何を感じているのか分からないから、悔しかったんです」

 童子に戻ったかのようにはしゃぎ、二人はそれから、全く見えぬ子ども相手に、自分たちの生い立ちを語り始めたのだった。

 正直者と頑固者と言う二人だが、口は堅いはずなのに、今までの経緯を話す様は、戸惑いよりも恐怖を呼ぶ。

 もう一人の幼馴染で、ワンの正妻だった女の死まで語り、キィとの再会を語ったチャンは、身を固くしたままのバァイの方に振り返る。

「ワンさまとの間には、お子が作れなかったから、この子が私を含めた三人の子なんだ。美しいだろう?」

 あふれる賞賛に、居心地悪くて首をすくめると、見えない子供は何かを言ったようだ。

「だろうだろう。白い鷹など、滅多に見ないだろう? 足も嘴も、透き通るようだし、この紅玉のような目。いつ見てもうっとりとしてしまうのだ」

「ワン様のこの立派な肩に留まる様は、いつ見ても素敵なんだ。こんなきれいな子を、親はないがしろにしたうえで、子供に突き落とさせたんだ。酷いだろ? 人の姿を取れる獣は、色の違いで子をないがしろにしないと、思っていたのに」

 代わる代わるいい、ワンが顔を曇らせた。

「我々の言葉は分かるようなのだが、話すことも人に姿を取ることもできない。我々に育てられたから、その術を教えるものがいなかったせいだろうと、キィは言っていたが。もし一人前になったら、所帯も持てて、子にも恵まれたのだろうと思うと、少し申し訳ないのだ。早くに、野に返してやることくらい、できたはずなのに」

 居心地が悪い思いをしていたバァイは、更に見えない何かの目にさらされている気がして、身を竦めた。

 何やら、じっと見つめられているようなのだが、相変わらず人の姿は二人しか見えず、本当に妙な気分だ。

 止まり木の上にいる白い鷹と、その下に座る二匹の猫の獣が、同じような気持ちで見守っているのに構わず、二人は楽し気に昔の事を語っている。

 どうも、姿の見えぬ童子とやらは、聞き上手らしい。

 昔どんなことを思っていたかなど、自分たちが思いもよらなかった心の趣を、多岐にわたって口を滑らせている。

 その度に申し訳ない気持ちと、喜ばしい気持ちをかみしめながら、その話を黙って聞いていたのだが、話が尽きた頃にチャンが不意に、真面目な顔になった。

「……と、この位話せば、お前さんの話も、聞かせてくれるかな?」

 先の不幸がなければ、ワンの片腕として活躍していただろうチャンは、やんわりと笑う。

 それを受けて、その幼馴染で、昔から意思が通い合っているワンが、豪快に笑う。

「まあ、大体の想像はついたが。あの道士もどきの後をついてきたという事は、先程逃げた白髪の女とその弟の、仲間なのだろう?」

「ついでに言うと、今牢にいる面々も、お前さんの仲間だな? あの場に引き出された幼子に、合図を送っていて気づかれなくて、困惑してただろ?」

 先程とは違い、代わる代わる問いを投げ、二人は悪人のような笑みを浮かべる。

 それを見ながら、バァイは笑いそうになった。

 父親を隠居させた後から数十年、ワンが隠居するまで行っていた尋問を思い出した。

 極悪な賊や、商売人には見せない、揶揄いじみた尋問だ。

 主に、土地の人間が出来心で犯した罪を裁くときに、罰の軽重を決めるために行う問いかけ方だった。

 自分たちの経緯や生い立ちを話し始めたのは意外だったが、交渉のつもりだったのならば、得心する。

 何だか目が晴れたような気がしたのだが、相手の方は答える様子はない。

 それどころか、不意に立ち上がったようだ。

「ん? 何処に行く?」

 呼び止めるワンは、目を見開いた。

「……」

「? 何だ? 何を言っているんです?」

 チャンが首を傾げて問う間に、見えない客は離れを立ち去った、ようだ。

 それを見送ったワンの言葉で、それが知れた上に、恐ろしい事態が起こりつつあるのが知れた。

「……謝られた。あの子のせいで、我が家が、狙われているようだ」

「?」

 困惑して続きを促すチャンに、ワンは強張った顔で続けた。

「牢にいる賊は、捕まったわけではない」

 一番簡単な法で、的に近づいただけだと。

 童子は、そう言ったとワンが言うと、チャンも顔を強張らせた。

「……まさか、あの賊か? 何十年か置きにこの地の裕福層を主に襲う、神出鬼没の……」

 あの賊。

 そう口にしたチャンに、ワンが頷く背後で、バァイも身を細くした。

 十年前と二十年前、いやそれ以前からも十年置きに、起こっていたのかもしれない。

 少なくとも、ワンがそれに気づいたのは、二十年前だった。

 当時頻繁にあった、裕福な民家への賊の押し込み。

 女子供すらも残さぬ非情な賊だったが、全く正体が知れず役所の探索も難航したが、ワンが調べるうちに、同じ手口と前兆があることに気付いた。

 一つは、押し入られる刻限だ。

 どの家も、何故か寝静まった夜中ではなく、人が行き交う昼間に、押し入られていた。

 そしてその後決まって、数人の使用人が姿を消す。

 その使用人は、長く仕えている者と、つい数日前に雇われた者もいた。

 消えた使用人は、全て身元のはっきりとしない者ばかりで、そんな正体不明なものを雇う家も後ろ黒いと、深い調査が行われた。

 そして、その家々の、暗い稼業が明らかになる。

 うちのいくつかは噂も流れ、役人も目を付けたことのある家だったが、そのほとんどは調べて初めて分かる悪行で、そのどれもが目に余る類のものだった。

 所謂、義賊に数えてもいいかもしれないが、その所業は目も当てられないほど非道だった。

 押し入った時にいた住民は全て皆殺し。

 何も知らぬ使用人や居候などは出かけていて無事だったが、血縁は女子供すらも残さぬ。

 残った血の量で測るしかないから、正しくは分からないが、皆殺しとはいかずとも、何処かに連れ去られているものと見え、行方は分からなかった。

 二十年前、突然起こったその賊の押し入りは、数件の家を犠牲に、ぷつりとやんだ。

 そして十年前も、同じように始まり、ある時期に再びやんだ。

「……十年経った今、また同じようなことが起こるのか。しかも、よりによって、我が家を襲う気か」

 歯ぎしりしながら言いつつも、ワンは頭を働かせていた。

 十年前は既に、ワンは役から身を引いていた。

 だから、出し抜いて押し入る前の家に、役人の手を入れる力がなかった。

 息子としていた年の離れた兄弟たちが、道を外さぬように見張るのが精いっぱいだったのだ。

 今は更に何もできない。

 とうとう、ワン家の存続が脅かされていると言うのに。

「……血縁を残したいと、あの子らを追い出さなかった付けが、回って来たのか」

 役所とワン家は隣接している上に、その仕切りの垣根も低い。

 行き来の楽さを考えての事だったが、罪人が牢破りして襲ってくることを考えたことがなかった。

「そうだとしても、知ったからには、迎え撃つ手を考えなければ。あの金色の髪の童子に、もう少し話を……」

 突然、止まり木の下で目を見開いて座っていた猫の獣二人が、奇声を上げて飛び上がった。

 驚いて言葉を止め、チャンが振り返る。

「ど、どうした? 大丈夫かっ?」

 絡み合うように二匹がそんな主に飛びつき、鳴きながら何かを訴えていたが、何を言っているのか分からない。

埒が明かないと思ったのか、黒い方が離れを飛び出して行った。

 呆気にとられた二人の元に、もう一人の猫の獣が兄と共に恐ろしい勢いで飛び込んできた。

「あんのガキっ。どこにいたってっ?」

 剣幕が、いつものキィと違う。

 流石に身を縮めたチャンと、少し身構えてしまったワンは、キィが落ち着くのを待って事情を話し、その話を聞いて頭を抱え込んだ猫の獣に今やっていた用事を、全て聞いた。

「……見張りが、いるのか」

「姿が、見えない? あなた方にしか? バァにも?」

 発音が難しいと呼び名を呼んで尋ねる猫に、バァイは無言で頷いた。

「色合いもはっきり見えた。やるか迷ったけど、触ったら触れられたかもしれない。生き鬼かとも思ったけど、筆を握って文字も書いたし、おかしいなとは思ってた」

「牢の中の者たちの仲間であり、死んだと言うわけでないのなら、キィに言伝た者の言の意は、あの童子の姿を取り戻す法を、探せという事だろうな」

「……あんの、クロスケ。そうならそうと……っ」

 拳を握って空を睨んだキィは、不意に力を抜いた。

「……そう言われていても、オレにはお手上げだった」

「……だよなあ。どうしろというんだ?」

 しょぼんとした猫の顔を覗き込んで苦笑し、チャンはワンを見た。

「これは、迎え撃つ方向で、考えた方がいい。穏便な治め方は、もう無理だ」

 見返したワンも、頷いた。

「明日の昼間、か。それまでは、じっくり休むか」

 久々に腕が鳴る。

 無骨な老人と細身の老人は、楽しげに笑いあった。

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