第3話
余りに頑固な染料で、綺麗に落とし切るまでに、随分かかってしまった。
エンが満足して顔を上げた時、上の方にあった日はかなり傾いていた。
途中、火を熾して続けた洗髪は、されるがままの子供を無言にさせるほど手こずった。
「……起きてるか?」
そっと呼びかけると小さく頷いたので、眠ってはいないとは思うが、この子の事だから、思い込むことはできない。
眠っていても頷くことはできるし、目を開けている時もあるのだ。
布を頭から被せ、ひとしきり体中を拭いてから、火の傍に座らせる。
「これから会うお婆さんとそのお孫さんは、先の時にも世話になったんだ。お前の事も、きっと気に入ってくれるぞ」
体が温まるまでそんな話をしながら座り込み、火を落として二人で立ち上がった時には、山の中は薄暗くなっていた。
まだ乾ききっていない頭に布をかぶせたままのセイと並んで、住処の近くまで近づいたのだが、何やら不穏なものを感じて足を止めた。
木々の影から見える住処の前に、武装した男たちがたむろしている。
見覚えのある格好の者たちで、エンの表情は知らず強張っていた。
何故、ここに役人が?
そんな疑問は浮かばない。
心当たりならば、腐るほどあるからだ。
緊迫した心に浮かんだのは、住処にいるはずの師匠や兄弟たちの安否の方だ。
遠目で無事と断じるのは早かったが、役人たちに気付かれるよりは遅かった。
隣のセイに、無言で袖を引っ張られて我に返った時、役人の一人がこちらを指さし、数人がこちらに突進してきた。
我に返ったエンは、とっさに子供と目を交わして踵を返す。
横の塊を布ごと小脇に抱え上げると、一目散に走り出した。
それを追って、走りにくい山道をものともせず、役人たちが走り抜けていく。
隠れ家を取り巻く役人は、それで少し減ったが、子供を抱えた男一人に割く人数はそう多くなく、ほとんど変わらない。
「……」
兄貴分を追っていく役人の背を見送ったセイは、草むらの影でそっと立ち上がり、無言で住処の方を伺う。
落合える他の隠れ家は、いくつか教えられている。
ここにいるはずの者がすでに逃げ、無事だと言うならば、もうあそこを気にすることはない。
恐らくは、自分とエンがいないうちに起こったこの逃走劇で、ジャックもマリアも、身の回りの物を持って行ったことだろうから、忘れ物を取るためにセイが敢て、あそこに近づく事もない。
やることは逃げることのみ、だった。
そこまで考えながら、組紐でまだ乾ききっていない髪をまとめて束ね、そっと踵を返す。
こういう時、小さな体が目立たない。
それを喜べないのが大人げないが、まだ子供なのだからと自分に言い聞かせ、音をたてないように動き始めた。
目指すは、落ち合う隠れ家の一つだ。
今日は疲れているので、一番近場を目指し、一眠りするつもりだ。
そこで、誰かと落ち合えれば楽だ。
そんなことを考えながら歩くセイの前に、突然人が降って来た。
いや、人ではない。
「よし、一人になったな」
目を丸くするセイを見下ろし、それは言った。
人の姿をしたそれは、羽を持っていた。
半裸で大きな羽を開いたまま、黒々とした目を自分に向けるそれは、鳥の獣らしい。
「……この国は、こんな獣まで化けるのか」
呟く背後にも、似たような獣が回る。
「殺すな、か。こんなひょろひょろ、食い甲斐がない。旦那様に差し出した方が、利になるな」
そう言った方も鳥の獣のようだが、セイは首を傾げた。
「人違いじゃないか? 誰かに狙われるいわれは、ないんだけど?」
白々しい言い分に、後ろの獣が少し詰まった。
「……このガキ、我らの目が闇に弱いと知っての、愚弄か?」
「そうじゃない。本気で分からないんだ。私は、ここに山菜を取りに来て、迷っただけの百姓だ。良く見てくれ、あんたの探している奴は、こんな髪色だったか?」
首を傾げた言い分に、二人は揃って言葉を詰まらせた。
そんな様子を見ながら、セイは言い切った。
「そういう事だから、さよなら」
「待て」
挟まれている前後を避け、横の方へと歩き出す子供の行く手を、別な獣が阻んだ。
小役人の衣装を身に着けた、目つきの悪い男だ。
「おい、何言いくるめられてるんだ。こんなところに、似た体つきの子供が、山菜採りにわざわざ登ってくるか? もっと下の方で採れるだろうが」
それにとセイを見下ろす目は、金色に光った。
「……」
「その匂い、さっき町で嗅いだのと同じだ。染料の匂いが取れただけで、変わっていない」
舌打ちしそうになって、目をそらす子供を見下ろしながら、その獣は断言した。
「さっさと、旦那様の元に連れて行くぞ。白髪の奴は逃げられたが、こいつさえ連れて行けば、ご機嫌は戻るさ」
油断しまくっている獣の前で、セイは大きく溜息を吐いた。
この国の言葉は教えられて、聞き取ることができるはずなのになぜだろう、分からない言葉があった。
それは後で兄貴分に訊くとして、気になっていたことは聞き取れた。
「……逃げ切ってるのなら、まあいいか。面倒くさいし」
いい加減、相手するのも面倒になっていた。
眠気が、激しく襲ってきている。
そんなことを考えての溜息だったが、獣たちは別な意にとった。
「諦めるんだな。旦那に目を付けられたのが、運の尽きだ」
「ああ、それは、諦めた方がいいな」
セイは頷いて、顔を上げた。
無感情な目を前に立ちはだかって笑う獣に向けながら、セイは微笑んだ。
真正面から見たものだけではなく、横からそれを見てしまった獣たちも、夜目にも美しいそれに一瞬見ほれてしまい、次の言葉の意をくみ取るのに間が空いた。
「あまりしつこいその旦那のせいで、ちょっと大きなけがをして、山に放っておかれるんだから。死んでしまったとしても、諦めてくれよ」
言い切らぬうちに、子供が消えた。
我に返った時には、前にいた獣が倒れていた。
その喉仏を足蹴にして、子供が立っている。
「はっ?」
羽のある獣がつい声を上げたが、その声に嫌な音が重なった。
悲鳴を上げる間もなく倒れた獣の首が、踏み折られる音だと気づいた時には、遅かった。
身を竦めたその獣に飛びかかる子供を見ながら、残った獣がけたたましく鳴いた。
それを聞いて、セイは溜息を吐いた。
「同胞でも呼んだのか? やめてくれよ。どんどん、加減が分からなくなる」
ただでさえ、すでに折るだけのつもりだった首が、胴体から離れかねない勢いでつぶれてしまっている。
「これ以上眠くなったら、あんたら命がないぞ」
「ふざけるなっ。その二人だって既に、死んでるだろうがっ」
「大丈夫、まだ虫が動くくらいの、息はしてる」
「虫の息かよっ。上手い事、言ったつもりかっ」
だから連れ帰ってくれと言う、淡い願いを暗に込めたのだが、獣は血走った眼で喚くだけだ。
順番を間違えたと内心嘆きながら、セイはまた溜息を吐いた。
「あんたを先に、黙らせておけば良かったな」
「っっ」
言いながら動く子供の前で、立ち尽くす獣の前に、別な獣が立ちふさがった。
前に躍り出た勢いのまま、殴りつけようとしてくるその獣の腕を蹴り、その勢いで間合いを取って地面の上に降り立つ。
新たに立ちふさがった獣は、鳥の獣ではなかった。
先の鼻が利いていたらしい獣とも違う、見慣れた獣だ。
「……これが、成獣なのか」
驚きよりも、少しだけ感動してしまった。
いつもそばにいる猫の獣が、主の姿を貰った後、真の主に仕えている姿が想像できる。
そんな子供の前で、猫の獣は羽をある獣を振り返り、冷ややかに言い放った。
「こんなガキ一人に、なに瀕死になってるんだ? だからお前らは、使えないと言われるんだ」
「わ、悪かったよ。いいから、早くそいつ捕まえて、帰ろうぜ。二人とも手当てしないと、死んじまう」
もう遅いかもしれないが、そう言う鳥に頷き、猫の獣はセイを見据えた。
他の獣達とは違い、体つきは細く弱そうだが、別な奇妙な気配がある。
この国の衣服だが、妙に動きにくそうな衣装だ。
確か、寺院のようなところの者が、こういう格好をしていると習った気がする。
二人が言葉を交わすのを見逃したのは、諦めてくれるかという、一縷の望みを抱いての事で、決して天敵同士が仲良くしている様が、面白かったからではない。
だが、立ち尽くしたまま見ていた子供を振り返った猫は、にやりとした。
「動けないだろう?」
「?」
「抗えば苦しいだけだ。そのまま大人しく、一緒に来てもらおう」
何のことかと首を傾げた時、猫は立ったままのセイに手を伸ばしたので、その手をひょいと避けて、その懐に入ろうと身を屈めたセイの背後から、何かが覆いかぶさった。
手を伸ばしていた猫がその手を引っ込め、目を剝く。
「なっ」
鳥も顔を引きつらせているのが見えたが、セイはそれどころではなかった。
恐ろしく強い力で、そのまま地面に引き倒されたかと思うと、襟首を何者かに捕まれ、地面から浮いた。
下で獣たちの怒号と驚きの声が響くが、すぐにそれも掻き消えてしまうほど早く走るそれは、どうやらセイの襟首を口で咥えているようだ。
軽く飛び上がって木の枝に上り、そのまま他の木々の枝に飛び移りながら、獣たちから遠ざかっていく。
こうなると、抗うのは逆に危ない。
完全に力を抜いたセイは、そのまま連れていかれることにした。
どの位、そうしていたのかは分からない。
途中で我慢が切れて、眠ってしまっていたようだ。
顔を柔らかい何かで叩かれているのに気づき、我に返って目を開けると、そこには青白い光が二つあった。
後ろに見える暗闇の中の星より大きな、二つの目の光だった。
木の枝に座ったセイの顔を、無言で大きな獣が覗き込んでいた。
若干、呆れの滲む目を細め、無言のまま踵を返す。
四つん這いで器用に枝の上を歩き、先の方まで行くと音もなく飛び降りた。
「っ、待っ……」
思わず声を上げて追いかけようとしたが、枝の上からずり落ちそうになって慌てて手をつく。
その拍子に、下を見た。
下が全く見えないほどの、暗闇があった。
「……」
ようやく、今自分が何処にいるのか、思い当たった。
辺りを見回すと、近くの木が遮らないほどの高さの木の上に、セイは取り残されてしまっていた。
役人たちは、逃げた男にすぐ追いついた。
子供を抱えているのだから、その分遅くなるはずなのに、古着を抱えているだけのように足早に走っていく男を、がむしゃらに追い、回り込んでようやく追い詰めた。
逃げ場がないと分かると、男はその場で座り込んだ。
蹲るように体を縮めるのを見下ろしつつ、役人たちは縄をかけるべく近づいたのだが、動かなくなった男の体が、不自然に震え始めた。
今更怖くなったのかと嘲笑しながら、槍を片手に構えて立つ同胞と目を交わし、縄を男の体に回し、縛り付ける。
と、不意に男の体がばらけた。
そう見えたのではなく、本当に土が崩れる様に、ばらばらに砕け、縄から零れ落ちてしまった。
縄を抜けた男の体は、そのまま砂のように風を舞い、消えていく。
「……っ」
縄をかけようとしていた役人が声のない悲鳴を漏らし、一緒にいた者たちも顔をこわばらせ、辺りを見回す。
古くは虎が住み着き、いつしか人ではない怪異が守っていると言われ始めていた山だ。
騒がせた人間たちを、疎ましく思ってしまったのならば、こんな消し方をしてしまうかもしれない。
ひんやりとした風が、何処からか静かに流れてきた。
「……妖物に、化かされてしまったんだ」
誰かがぽつりと言うと、その場の全員が黙ったまま頷いた。
そういう事にしよう。
上官への言い訳もそれで通じるほど、ここの役人たちもいい加減になっているようだった。
「……それで、まかり通るのか」
木々の密集した森の中での出来事を、近くの木の枝から見守っていた男が、つい呆れ声を出した。
月明りも乏しい中でも、つややかな白髪が目立つ、若い男だ。
エンの姉とは違い、天然の白髪の男は、枝の上から下を見下ろす。
「まあ、これで後追いされることはないが、どうする?」
そこには、木に寄りかかって息を整えているエンがいた。
「セイが心配だ。出来れば早く落ち合いたい」
大きく息を吐き、エンは真っ先にそう言う。
そう言うと思っていた男は、頷きながらもはっきりと言い切った。
「もう既に、ランが動いてる。落ち合えるようなら落ち合うだろうし、危ういようなら日が昇ってから迎えに行くつもりで、今は居場所を探している」
立ち上がったエンの隣に降り立ち、男は続けた。
「だからお前も、先にリュウの家に行くぞ。ジュリも一緒だから、心配ない」
「ジュラ。それは……」
「あのな、オレたちは、お前らが隠れ家に近づいて逃げるところも見てた」
エンは男の名を呼び、自分の不安をぶつけようとしたが、それを遮ったジュラと呼ばれた男は続けた。
「お前と別れたセイは、役人側に飼われていると思しい獣と、ひと悶着あったが、その後、木の上に連れていかれたと、ジュリの子が知らせてきた。分かるか? お前じゃあ、無理だ」
「暗いから、下は見えない」
「見えなきゃ逆に、危ないだろうが」
「じゃあ、どうするんだっ? まさか、一晩そんなところに、置いていく気かっ?」
「そうすることになった」
男たちの言い合いに、低い声の女が割り込んだ。
振り返ると、二人の白髪の女がすぐ傍にいた。
一人はランだが、そのランよりも小さい女が、振り返った二人を見ながら言った。
「エンみたいに怖がっていたら、無理でも助けるけど、平気そうだわ。自力で、木のてっぺんから半分ほど、下りて来てたし」
「……」
「肝の据わり過ぎは、逆に悲しいよな」
妙な顔で黙り込んだ弟に、ランはしたり顔で頷く。
「まだ役人が引ききっていないから、折を見て木を下りて、落ち合えるところまで動くように伝えた。明日の朝、迎えに行く」
「オキと、うちの子を一人つけてあるから、寒さはしのげるわ」
小さい女ジュリはそう言って、呆れ顔の兄の隣で歯を食いしばるエンに微笑んだ。
「だから、今日は引きましょう。あなたもランも、目立ちすぎたから。逆にあの子の邪魔になるわ」
「……どうして女は、痛いところをわざとらしくついてくるんだ? 男は意外に、打たれ弱いんだぞ」
わざとらしく呻いたランの嘆きに、ジュリはやんわりと言い返した。
「いいじゃない。向こう見ずな動きで、女を巻き込んで不幸にするのは、男なんだから。女として釘を刺しておかないと」
ね? と笑いかける先には、ジュラがいる。
無言で首を竦め、ジュリの兄は友人へと目を向けた。
色々な心配をようやく抑え込んだエンは、丁度いつも通りの余裕を取り戻しつつあった。
「……後で、夕飯を届けてくれるか?」
「勿論。かさばらない量でよろしくね」
その後、リョウの家に身を寄せるまでは、何事もなかった。
だが、翌日、これまでの考えがひっくり返る事態が、早々に起こってしまったのだった。
翌朝、ランはエンと連れ立って、落ち合う隠れ家の一つへと向かった。
本当は、ランだけで向かうつもりだったのだが、ジャックが一緒に行くと言ってきかず、目立つその老翁の代わりに、一歩譲って目立たないエンと一緒に行くことにしたのだ。
身軽に逃げることになったセイは、昨夜から着の身着のままで、一晩でどんなに廃れてしまっているか、分からない。
「……一人だと案外、ずぼらだからなあ」
「はい」
今は、周りの者の身の回りの家事を請け負っているから、そう感じることはないが、誰ともかかわらない日々があったら、恐らくは何もしない。
食べることすら、しないかも知れない。
昨日の今日で、食べ物のことは心配ないが、それでもジャックは、戻ってくる孫のために、リュウ婆と共にご馳走を用意するつもりのようだ。
「じゃあ、行ってくる」
軽く声をかけたランに、ロンも軽く答えた。
「気を付けてね」
一つの家に身を寄せた面々は、その背を見送ることなく、三人が戻ってくる間に、町での噂話に耳を向け、今後の動きを考えることに、頭を働かせていた。
だが軽く朝食をとった後、目立たぬ風貌に変装し、ジュラと共に外に出た時に、ロンはそれを知った。
件の盗賊が捕まった。
その件の、と言うほどに有名なのに、どの盗賊なのかは分かっていないようだが、幾たびかの押し込みと捕り物劇であったため、町の者たちは物慣れた様子で噂していた。
その中には、昨日籠を貸してくれた露店の夫婦や、様々なものを施してくれた者たちも混ざっていたが、どうやら下手人かどんな風貌なのかまでは、知らされていないらしい。
「……あの子は、来なくて良かったよ。こんな話が出回っている所に来ちゃったら、どんな難癖で役人に引っ立てられるか、分かったもんじゃないから」
籠を返し、施しの代金を払うロンに内儀の方がこっそりと言い、旦那の方も無言で何度も頷く。
「金持ちの主人持ちでも、あの一家にかかったら、どうしようもない。あの、白い髪の旦那にも、言っておいてくれ」
そう言って、他の品の代金と品書きを引き受け、代わりに代金を届けると請け負ってくれた。
こっそりと動く亭主を見送りながら、内儀が呟く。
「あたしらは、その日暮らしの貧乏人だから、身を縮めてやり過ごすしかないし、それで何とかなっているけど、よそよりはましなんだよね。今の役所のお偉い方は、そのご身分を気にしすぎる方でさ、機嫌を取るのも大変らしいって、贔屓にして下さってた商家の下人が心配してた」
金に糸目をつけずに媚びても、それで目を付けられるし、媚びずにまっとうに商売をしても、目を付けられる。
金のある者の贅沢な悩みと括るには、その目を付けられた者たちの最期は、笑えるものではなかった。
「その商家も、いまは一家離散して、何処にいるのか分からない。ご主人は刑死したって噂もある。この地は、どんどん寂れる一方だよ」
「じゃあ今、我々がお前さんたちに、代金を支払っている様も、その方にしては面白くないのかもしれんな」
ロンはそう軽く流してその場を離れ、それとなく役所へと足を延ばした。
野次馬がおっかなびっくりで、門から覗き込もうとしているのを、門番が強く咎めている。
「何だよ、ケチ。今日のは、どんな罪人だ? それだけは教えてくれよ」
大きな荷を背負った男に、門番はうるさそうにしながらも、興奮しているように見えた。
その理由は、おこぼれがもらえるかもしれないからだろう。
「若い男と女の二人組の盗賊だ。似た風貌だったから、姉弟だろう。生きがよくて、捕まえるのに難儀したって話だが、今の役所には道士様もおられるからな、赤子を捻るように簡単に、捕まえてくれたそうだぜ」
「そ、そうかよ。そりゃあ……」
期待を隠せないままの門番の言葉に、教えを乞うた男の方が顔を引きつらせた。
単に、捕り物を行った場所で行き会った姉弟、というだけであるかもしれないと、男も感じているのだろう。
それは、門番も分かっているはずなのに、悪びれた様子はない。
その二人が、旅人なのか偶々山の幸を採りに山に入った姉弟なのか分からないが、とんだ災難だ。
荷を背負った男が曖昧に話を収めつつ、傍を離れていくと、野次馬の面々も何とも言えない顔になりながらも、何も言わずに去って行った。
「……」
そんな様子を見守っていたロンは、無言でジュラと顔を見合わせる。
「……そんなはずは、ないわよね?」
嫌な予感がする。
だが、有り得ない。
ランは、いつも背に守り刀を背負っている。
あれは、多少の術なら防げるはずだ。
「ああ……そう言えば、何かおかしいと思ってた。見送ったランの背中が、物足りないなと」
ジュラは呟き、すぐに自分の小鬼を確かめに向かわせる。
すぐに戻ってきた小鬼は、その予感を裏付けした。
「……寝床に使ってた部屋の壁に、立てかけてあるのを見つけた、そうだ」
溜息を殺せずに言ったジュラに、ロンも思わず天を仰いだ。
「姉弟二人って、ランちゃんとエンちゃんかしら? セイちゃんは、捕まっていないという事よね?」
「と、思いたいが……」
一縷の願いを口にする男に、ジュラは曖昧に答えつつも別な不安を口にした。
「もしあいつらだとしたも、不味くないか? 他の隠れ家にも、役人の手が回っているってことだ。これから来る奴らが、捕まってしまう」
「道士がいるって言ってたわね。人間のそれなら、そこまでの力はつかないはずだけど、あたしたちが落ち着いていたあの隠れ家から、他の隠れ家を辿ったのなら、かなり強いとみていいわ」
となると、一網打尽にされてしまう事が、楽に想像できる。
これからやって来る者たちは、大勢の人がいるときに集まる連中で、信じるに値しない者が多いから、目くじら立てて救う事もないが、ラン達とそこで落ち合うはずだった子供まで捕まるのは、見過ごせない。
想像だけで全てを決めるのは早計だ。
すぐに万全の注意をしながら、セイとラン達が落ちあうはずだった隠れ家へと向かう事にした。
妨害なくついた小屋に近づこうとして、二人は足を止めた。
「……『鳴り子』だ」
これ以上近づいたら、潜んでいるだろう役人か件の道士に、知られてしまう。
これは、注意していなければ、引っかかる前に気付くことは難しい類で、ラン達がこれに気付かなかったのは、術を使う者と役人が、繋がっていることを知らなかったからだ。
だが、分かっていれば集中すれば直前で止まることができる。
誰もいないように見える隠れ家の周りにも、その屋内にも役人らしき者たち以外の気配はない。
「……何処に行っているのかしら」
捕まったとは思いたくない。
ロンが唇を噛んで不安をやり過ごしていると、その目の前に見慣れた獣が飛び出した。
鳴り子つきの壁の向こうで、オキは走り回っていたらしい。
瞳孔を丸くしたまま四つ足で立ち、ロンを見上げていた。
「オキちゃんっ? セイちゃんはっ?」
瞳孔を丸くしたままの黒猫はそれに答えず、辺りを素早く見まわした。
その背の上で、ジュリの小鬼もきょろきょろと辺りを見回し、黒猫にこくこくと頷く。
それに頷き返してから、オキは壁の外の二人の男に短く言った。
「そっちに出るから、身を隠せ」
緊迫した声音だ。
色々と訊きたいことはあるのだが、それは後と何とかこらえ、ロンとジュラは木の陰に身を隠す。
すぐに背に小鬼を乗せたまま、黒猫が飛び出した。
途端に風が揺れ、役人たちが湧いて出てくる。
が、そこにいるのが黒猫だけと気づくと、驚きもせずに笑いながらまた元の場所に身を隠すべく、背を向けて行った。
「やっと出たか。ここで餌でも貰ってたのか、諦めるのが遅かったな」
「もう少し遅かったら、夕飯にしてやるんだが、残念だったな」
軽口を背に受けながらも、オキは振り返らずにやり過ごし、完全に役人たちが立ち去るのを待って、男二人を見上げた。
いつになく焦った様子の黒猫は、衝撃的な言葉を告げた。
「……目の前で、セイが消えた」
「消えた? 大げさに言ってるわけじゃなく、かっ?」
驚いたジュラの返しに、オキは精一杯顔を歪ませながら、深く頷く。
嘘でないのは、その背中の上にいる小鬼が、必死に何度も頷いている事でも分かる。
だが、余りにとんでもない知らせに、ロンは珍しく頭が真っ白になってしまっていた。
「文字通り、消えたんだ。この鳴り子に触れてすぐ、逃げようと見上げた時には、いなかったんだっ」
「……それは、目を離したってことに、ならないか? この、馬鹿猫がっっ」
唐突に怒りをあらわにした男が、黒猫を鷲掴みにして吊し上げた。
「このまま、皮をはぎ取って、肉屋と三味線屋に売り払ってやるっっ」
「お、落ち着けっっ。ここでは、そんな楽器作ってないだろうっっ。それに、色々崩れすぎて、誰だか分らなくなってるぞっっ」
本当に毛皮を剥ぎにかかるロンを、ジュラが必死で抑えて宥める。
「大体、ほんの少し目を離しただけで、姿を見失うほど、普段のセイは鋭いかっ?」
苦し紛れに現頭をこき下ろすと、自分よりはるかに大きな男は動きを止めた。
しばし考えて、その場でオキの体を落とす。
「……そうね。朝一だもの。眠りながら歩いていても、おかしくないわ」
「……」
自分も大概失敬だったが、ロンはそれを上塗りしている。
「鳴り子の衝撃にも気づかず、ふらふらと歩きまわっているのかと探してみたが、あの中では見つからなかった」
真顔でオキも言い、溜息を吐いた。
「ここの役人どもが騒いでいないから、それはないとは思ったが、消えることの方があり得ないだろう?」
自分たちが来た時、役人たちは少し浮足立っていた。
恐らく、自分たちより先に捕まった奴がいたのだろうと言うオキの弁に、ジュラが頷いた。
「姉弟らしき男女が、ここか、別な隠れ家近くで捕まったようだ」
言いながら、少しだけ安堵する。
セイが、その姉弟の一人とされたわけでは、ないようだ。
だが、別な不安が残っていた。
「……ランちゃんとエンちゃんは? まだ来てないの? 随分朝早く、リュウちゃんの所を出たのよ」
「……なあ、その、捕まった姉弟ってのは、まさか……」
その不安を、オキも口にして唸る。
そちらが分かっても、こちらの不安は全く晴れない。
この際、あの二人が捕まったのは仕方がないと思うとしても、セイの行方が全く見当もつかなかった。
「……兎に角、あなたたち二人がくまなく探しても、見つからなかったのよね?」
ようやくいつもの冷静さを取り戻したロンが、ゆっくりと確かめる言葉を乗せると、オキと小鬼が大きく頷いた。
ならば、ここにはセイはいないと、そう考えるしかない。
「一度、リュウちゃんの家に戻りましょう。話はそれからよ。もしかしたら、一足先にあちらに行っているのかもしれない」
そうだとしても、この場をどうやって逃げたのかという思いが湧くが、無事ならば深くは問うまい。
だが、そんな淡い考えは、すぐに崩れた。
日が高く上った頃にリュウ家に戻った男たちと猫と小鬼は、役所から逃げかえった二人と鉢合わせしたのだ。
二人とも疲れ切っているようで、朝方よりもやつれて見えたが、それでも目は怒りでらんらんとしていた。
「セイはっ? ここに戻っていないってのは、本当かっ?」
ランの焦った声と、エンの笑みを消した顔を見て、戻った二人も再び緊迫した。
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