第二十五話 つながる糸
六月のある雨の日。
その日は外まわりで、午後からずっと出ずっぱりだった。
下請けの町工場に行った帰り、見覚えのあるマンションを通りがかった。
「………」
これも何かのお導きだろうか。
そういえばさっき、ケーキ屋さんもあった。
「よし」
少し戻り、赤い屋根の店に入る。
『シュークリーム、3つ買うとひとつ無料』
張り紙に目がいった。
えっ!めっちゃお得。
手土産を購入し、赤茶色のレンガ調のマンションへ。
昔の団地をリノベーションしたような物件。オートロックではないので、部屋の前まで行ける。
ピンポーン…
出るだろうか…
3階の角部屋、若一と表札が出ている部屋。
ガチャ
インターホンではなく、
直接、人が出てきた。
「はい」
細い弱々しい感じの中年女性。長い黒髪をサイドでまとめている。
儚げな感じが、エミちゃんに少し似ている。
「あ、あの。突然すみません、佐藤と申します。実はその…恵三子さんとおつきあいさせていただいてる者で…。ちょうど仕事で近くを通りがかったので、この機会にご挨拶できればと思って…。あ、よろしければこれどうぞ」
手土産を渡す。
「あぁ、あなたが…。娘がお世話になっております。立ち話もなんですし、どうぞ中へ」
よかった、落ち着いてるようだ。
お言葉にあまえて、しばしおじゃまさせていただくことに。
あまり注視するわけではないが、部屋の中も思いのほか片付いていた。
「ちょうどさっきヘルパーさんが帰られたところなんですよ。だから忘れ物でもしたのかと思って、すぐドア開けちゃいました。必ず相手を確認してから出てって、娘にもよく言われてるんですけど」
あぁ、そういうことか。
不用心だなぁって気になってたから、それならまだよかった。でもドアはすぐ開けないほうがいいけど。
冷蔵庫から冷たい麦茶を出し、入れてくれた。
「どうぞお構いなく」
「いいんですよ、私も飲みたかったところだし。ヘルパーさんが作っておいてくれるんですよ。何から何まで助かってます。…あの子がいた時も、何でもしてくれました。夫が亡くなったショックで体調を崩し、1日中寝込むことが多くなった私に変わって、まだ中学生のあの子は自分もショックだろうに、私を励ましながら家にいる時は家事を全部やっていました。申し訳ない気持ちでしたが、私は自分のことで頭がいっぱいであの子のことを見ていなかった。そのうち精神面も病んで障害手帳の交付を受けると、行政の支援も手厚くなりヘルパーさんが来てくれるようになったので、あの子はバイトに学校にと忙しい日々を過ごしていました。…私がこんな状態だから、もし自分に何かあったらと心配だったので、新しい家庭を持てるなら安心しました」
饒舌によくしゃべる。
これがエミちゃんが言ってた躁状態ってやつかな。
「佐藤さん…とおっしゃいましたか」
「はっ、はいっ」
急に名前を呼ばれるとびっくりする。
おまけに僕の両手をギシッ、と握られた。
「どうか娘を!恵三子をよろしくお願いしますっ。中高の一番いい時期に、苦労させてしまった不憫な子なんです!どうか、どうかあの子を幸せにしてやってください…」
大きな目を見開いてグイグイ来られると少々のけぞってしまうが、想いは十分に伝わった。
「それに…私夢をみるんです…」
「夢…ですか…?」
「あの子を殺す夢を…」
「えっ!?」
「夫が亡くなってあの子とふたりで暮らすようになってから頻繁に…まだ小さなあの子を冷たい水の中に沈めるんです。ごめんね…ごめんね…と言いながら何度も。もしかしたら私おかしくなって本当にあの子を殺してしまうかもしれない。そう思うと怖くて、あの子を突き放すような態度もとっていました。だから…正直ほっとしたんです。あの子が出ていってくれて。これであの子を傷つけずに済むって思って…」
「………」
エミちゃんが言ってた錯乱状態や幻覚、妄想ってこういうことなのだろうか。
「そういえば恵三子も幼い頃不思議なことをよく言っていました。自分が生まれる前は妖怪だったとか…私も夫もアニメの見過ぎだろう、なんて笑ってたんですけどね。あの頃は一番幸せでした…」
「……」
それは真実なんです、なんて言えず。
僕は仕事の途中なので、と話を切り上げ、若一家を後にした。
「あの、佐藤さん」
帰り際呼び止められる。
「本当に、ほんとうにありがとう。恵三子のこと、よろしくお願いします…」
その時の笑顔と目の輝きは、一瞬正気が戻ったようにみえた。
その夜。
学校を通信に変えたエミちゃんはバイトの時間を早番に変え、20時過ぎにはうちに帰って晩ご飯の支度をしてくれている。
かいがいしく僕のお世話をしてくれるエミちゃん、ニトリのだけど光沢あるパステルカラーにに前面黒のレースをあしらったエプロンが似合い過ぎて色っぽ過ぎて、僕は毎日興奮と欲情を空腹という本能が抑えてくれていることに感謝です。
加えて夏になり半袖とかノースリーブだから、白く細い腕が指先まで美しく、夏という露出が増える季節があることが心からうれしい。
「はい、これおみやげ」
「えっ、うれしいっ。なんだろう」
そしていつでも僕の手土産を目をキラキラさせて喜んでくれる、そのはじける笑顔がスーパーキュート。
次は何を買って帰ろうか、毎日にそんな楽しみができた。
「これ…うちの近くのケーキ屋さんのだ」
「今日外まわりでたまたま近くを通ったから。…だから、お母さんにもあいさつしてきたよ。ごめん、勝手なことして。でも同棲から1ヶ月経つし、顔くらい見せなきゃって思ってて」
「!そう…ありがとう、気遣ってくれて。お母さんどうだった?元気にしてた?」
「体調良さそうだったし、恵三子のことをよろしくって何度も言ってくれたよ」
「…よかった、落ち着いてたんだね」
僕は話そうかどうか迷ったが、お母さんの言っていたことが気になって、少しオブラートに包むような物言いになったが、概要を伝えた。
「お母さん、怖い夢をよく見て…愛するエミちゃんを自分が傷つけてしまうんじゃないかと、あえて遠ざけるような冷たい態度をとってしまうこともあり、申し訳なかったと言っていたよ」
さすがに娘を殺す、なんて恐ろしい夢とは言えなかった。
「!? そう!そんなことを…」
エミちゃんはしばらく何かを考えていた。
「どうかした?」
「えっ? あっ、ううん、何でもない。…運命の糸は、やっぱりつながってるんだなぁ、と思って」
「運命の糸…」
僕とエミちゃんのような運命の赤い糸。
エミちゃんとお母さんの間にある親子の糸。
僕はエミちゃんのつぶやきの意味はこの時まだわからなかったけれど、人と人との間が世代を越えて糸のように細く長く結ばれていくことを、後々知ることとなる。
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