第112話 界渡り
「———い、
肩を強く揺さぶられ、僕は目を覚ました。あれ、寝てたっけ。ひどく長い夢を見ていた気がする。ドアが開け放たれた大講義室からは、学生がゾロゾロと退出している。2コマ目が終わったところ、早くしないと学食が混んでしまう。もう遅いか。
それより、とてもリアルな夢だった。向こうで僕は、流暢なフランス語を操り、レベルを上げて魔道具を作り、それから…
「おい。まだ寝ぼけてんのか?」
バン、と背中を叩かれて、僕は正気に戻る。友人と共に、僕は学食へ急いだ。
僕は雨河怜旺、帝都工科大の2年生。首都圏まで進学して一人暮らし。故郷には両親と祖父母と…あれ。なんか、記憶に
僕は適当に話を合わせながら定食を掻き込み、午後の講義に出る。彼とは選択した授業が違うから、ここでお別れだ。語学は当たると面倒臭い。今日の範囲を辞書で調べながら、授業に備える。てか、そんなのスマホで翻訳すれば良くね?
———スマホ?スマホって何だ。
しかも、テキストに書かれた文章を、僕は何の苦労もなく読めてしまう。辞書なんて最初から必要ないほどだ。だってドイツ語は、隣国語だもの。隣のアルノルト皇国からは、ハイモさんが…
ダメだ。頭が混乱している。あの夢は何だったんだ?そしてこの違和感と、現実感のなさは。
僕は上の空ながら、難なく午後の3コマをこなし、家路につく。今日はバイトを入れてなくて良かった。
家に帰って開いたのは、大きなノートパソコン。こんなに大きくて重かったっけ。最近のは持ち歩けるほど軽かったはず、などと、どこの知識なのか分からない記憶が脳裏を掠める。僕が調べたかったのは、ただ1つ。夢の中で、調べなきゃ調べなきゃと思っていたキーワード。それが、「ラブきゅん学園」と「アーカート編」だった。
前者は、すぐに見つかった。インディーズレーベルの乙女ゲームらしい。作っているのは、同じ首都圏の大学、帝都文化大のゲームサークルだった。「アーカート編」っていう単語は見当たらなかった。なんせ、ラブきゅん学園は今年冬の即売会に出展予定の未完成のゲームだったからだ。僕はサークルにコンタクトを取った。
サークルの代表は、長居と言った。彼は僕がラブきゅん学園について調べて来たことにひどく感激し、主人公がいかに自分の萌え要素を詰め込んだキャラクターなのかを早口で捲し立てた。そして僕のことを早々に怜旺と呼び捨てにし、僕も彼を
僕はあれよあれよと昂佑に巻き込まれ、もうデッドラインギリギリのラブきゅん学園のテストプレイ、デバッグ、パッケージングから、当日の売り子まで任された。僕の専攻が、下手にゲーム開発に役立つのが良くなかった。サークルの人たちも「お互い、とんでもないのに捕まっちゃいましたね」と苦笑いしていた。
そうして、巻き込まれたまま3年生、4年生と過ぎ、僕は1年早く卒業した昂佑の起こしたベンチャー、Love & Kühn 株式会社に入社することになった。家族には、ゲーム会社なんてとんでもないと反対されたが、一応役員待遇での入社だ。社員はバイトを入れて、たったの3人だけど。
僕はがむしゃらに働いた。なんせ僕がプログラムを書かなければ、会社は一文なしだ。幸い、昂佑の発想力と、周りを巻き込む力、コミュ力は大したものだった。次々と企画を思いついては、社外の人材とあっという間にコネを作り、有名な絵師まで抱えて、すぐに形にしてしまう。僕は黙々と、彼の要求に沿って屋台骨を組み立てて行くだけだ。そういうのは苦にならない。
当然、全てが順風満帆とは行かない。睡眠時間を削り、ギリギリの資金繰りの中、僕らは何とか墜落を免れながら、会社を維持した。表向きは華やかに見えるゲーム業界も、裏側はとてもシビアだ。何度挫けそうになったか分からない。僕は昂佑の能天気な明るさに何度も救われながら、その日その日をキーボードを叩きながらやり過ごして行った。
しかし、大学2年生のあの日から、僕の視界は薄いベールを1枚通して見ているかのよう。得体の知れない何かに突き動かされながら、僕はこうして生きている。特に、「アーカート編」というキーワードが忘れられない。気が付けばあれから10年が経ち、会社も何とか軌道に乗り、社員を抱えるまでになった。ラブきゅん学園も既に5作をリリースし、次の6作目はオープンワールド形式の自由な攻略が出来るソーシャルゲームにしようか、と会議にのぼっていたところ。
「———アーカートって舞台、作りたいんだけど。いいかな」
ゲームのストーリーに初めて踏み込んだ発言をした僕を、社員は意外な目で見つめた。しかし、僕が時々アーカートという単語を口にしていたのを知っていた昂佑は、「いいぞ、そこのシナリオは任せた」と言ってくれた。
シナリオの仕様書を書くのは初めてだ。いつも上がって来るのに目を通しては、データが不足する箇所に朱書して突っ返すばかりで。こういうの、いつまで経ってもアナログなんだ、我が社は。やっぱり紙媒体は目に優しいのと、言った言わないを避けることが出来る。
アーカート編のシナリオは、初めてにも関わらず、恐ろしいスピードで緻密なものが仕上がった。だって、全部僕の頭の中にあるんだ。潮風香る港町、国内外から集まる優秀な生徒たち。クールな辺境伯の息子、熱血脳筋野郎、嫌味な宰相の息子にマイペースな宮廷魔導士の子息。ちゃらんぽらんな第二王子に暗殺者、それから悪役令嬢に、隠しキャラの———
その時、僕は全てを思い出した。僕はアレクシ。アペール商会の次男で、マロール領立学園の高等部2年生。僕はウルリカとリュカ様と一緒に、
僕は万感の想いを込めて、ラブきゅん学園6の制作に取り組んだ。僕の刻むプログラムの1つ1つが、僕の生きた世界を丹念に織りなして行く。もちろん、僕がここで打ち込んだことは、あちらの世界のほんのひとかけらに過ぎない。こちらと同様、あちらの世界には様々な人が住み、みんないろんな事情を抱えて、泣いたり笑ったりそれぞれの人生を精一杯生きている。仮想世界なんかじゃない。僕は、あちらの世界とこちらの世界の物語を、少しリンクさせているだけ。
僕がずっとループから出られなかった訳も分かった。だって、最初に出会った時、ヴィヴィちゃんが言ってたじゃないか。
「従者?そんな奴いたっけ。それよりクエンティン様ルートを攻めるのに、他の攻略対象も好感度50まで上げなきゃだしィ、ランチイベントあと3回、ヨロシコ☆」
そう。彼女らの恋を成就させたければ、僕とリュカ様も含め、ランチイベントをこなして好感度を上げなきゃいけなかったんだ。僕が彼女らとの接触を避け、特にリュカ様をラシーヌに留めて隠し通したおかげで、僕は自分で自分の首を絞めていた。
しかし、その設定も改めてしまおう。僕もリュカ様も隠しキャラから外し、代わりにラシーヌの貴族から適当な奴を送り込むことにした。模擬戦で活躍した、A組のセヴラン君と、B組のティボー君。彼らはそこそこイケメンだし、リーダーシップもある。先進的なアーカートへの留学と、光属性の美少女との恋物語だ。彼らにとっても悪い話じゃないだろう。
ああ、夢のような日本の生活も、あと少し。僕はもう、とっくにこの世界を卒業したはずなんだ。でも、こうして懐かしい世界に戻って、たまに家族の顔も見て。短い間ながら、恋人だって居たし、仲間と一緒に作り上げた会社も無事に成長した。僕、ここに帰って来られて、良かったな。
ゲームのリリースに合わせて、僕は身辺の整理を進めていた。教えられることは全て社員に教えたし、引き継ぎの準備も整えた。ギリギリになっちゃったけど、みんなに手紙を書いて、挨拶して。もう思い残すことはない。僕はみんなが退社したオフィスの中で、インベントリから界渡りの杖を取り出し、振るった。
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