第38話:新旧交代

徳川綱吉が死去した後に盛大な葬儀が行われた。喪主である徳川家宣は立派に役目を果たした後、私室にて寛ぎつつ、側近の間部詮房に愚痴をこぼした


「取り敢えずは葬儀は無事に済ませた。はあ~、将軍も楽ではないな。」


「上様、まだやるべき事がございます。」


「ああ~、そうだったな。先代の老臣の処遇か・・・・」


徳川綱吉に仕えていた側近衆、特に柳沢美濃守吉保の処遇についてである。家宣としては最早、用済みのため良くて隠居、悪ければ改易処分にしたいという思いがあった。そこへ小姓が現れ「柳沢美濃守様が参られました」と告げた


「噂をすれば・・・・」


「うむ、通せ。」


「ははっ。」


小姓に案内され、柳沢美濃守吉保が私室に入り、家宣に拝謁した


「上様にあらせましては・・・・」


「堅苦しい事はよい、何用で参った?」


家宣が用件を聞くと柳沢美濃守は「隠居したい」と申し出たのである。隠居と耳にした家宣と詮房は少し驚いたが我に返り、尋ねた


「隠居したいと申すのか?」


「はい、某は常憲院【徳川綱吉】様のお引き立てにより、今日まで生き永らえましてございました。東証大権現【徳川家康】様が家臣、榊原式部大輔【榊原康政】公が申された【老臣権を争うは亡国の兆しなり】に倣い、後進に道を譲り六義園にて余生を送りたいと存じます。」


徳川家康の家臣である榊原康政の名言に従い、隠居を申し出る柳沢美濃守に対し、家宣と詮房は呆気に取られつつも自ら隠居を申し出る事で手間がはぶけた事に内心、喜んだ


「吉保、最後に何か、望みはあるか?」


「望みに・・・・ございますか。強いていえば我等、柳沢家が末永く安泰である事が最大の望みにございます。」


柳沢家の繁栄を願う柳沢美濃守に対して、家宣は「相分かった」と伝えた。柳沢美濃守としては前置きを済ませた後、本題である綱吉からの遺言がある事を家宣に告げた


「畏れながらもう1つ、申し上げたき事がございます。常憲院様が生類憐れみの令を100年先まで続けよとの御遺言がございました。」


100年先まで生類憐れみの令を継続させよと遺言を残した綱吉に家宣はこう返した


「吉保、御遺言は正しいか?」


「亡き常憲院様への最大の孝行かと存じます。」


「蚊や蠅を殺めただけで万民が死罪や遠島になるのが最大の孝行か?」


家宣がそう言うと柳沢美濃守は何も言わず黙りこくった。柳沢美濃守も蚊や蠅を殺しただけで処罰されるのは行き過ぎだと分かりつつも当時の徳川綱吉や桂昌院の権力が強大だったため誰も意見できなかった。唯一、意見できた徳川光圀【水戸藩2代藩主】の隠居に追い込まれているのが実例であり、長い物には巻かれろ精神で今日まで生きてきたのである。家宣自身も生類憐れみの令に内心、反対しつつも直接、意見できなかった実情もあり、今日まで我慢してきたため鬱憤晴らしのために生類憐れみの令の廃止に踏み切る事を決めたのである


「御遺言には従うが万民を苦しめる悪法は改めねばならぬ、よいな吉保。」


「ははっ。」


その後、生類憐れみの令は新将軍、徳川家宣によって撤廃されたが牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護等、継続した。万民は生類憐れみの令を廃止した新将軍の英断に感謝した


「流石は新将軍様だ!」


「犬をしつけただけで島流しにされた奴がいたからな。」


「蚊を叩いただけで切腹になった役人もいたからな。」


「褒賞金目当てに濡れ衣を着せられて死罪にされた奴は溜まったものじゃないな。」


「これで鰻や鮎が食べれるわ。」


「犬小屋も破却するらしいぞ。」


「あぁ、あれのおかげで俺たちの生活が苦しくなったからな。」


「犬の方が俺たちよりもいい暮らししてたからな。」


誰もが綱吉の定めた悪法によって生活が苦しくなり、褒賞金目当てに冤罪を着せられ、大好きな鳥肉や魚等を食べられず、蚊を殺す事も躊躇うようになったが、綱吉が死んだ事でようやく開放されたのである。そんな万民を余所に隠居した柳沢美濃守吉保は万民の声を聞き、溜め息をついた


「はぁ~、分かってはいたがここまで恨まれていたとはな。」


「こればかりは仕方がありませぬ。」


「まぁ、窮屈であったのは確かですが・・・・」


溜め息をつく柳沢美濃守を余所に側近の細井広沢は「仕方がない」と公言し、側室の正親町町子はようやく開放された事に安堵の声をあげたのである


「まぁ、窮屈だったのは確かだな。ワシも蝿を扇子で叩き落としたから人の事は言えぬ。」


「それよりも本当に宜しいのですか?」


「隠居の事か、町子。」


「はい、てっきり粘るかと思いました。」


「ははは、正直申すと常憲院様の御側におるだけでも胃が痛む思いが何度もあった。まぁ、柳沢家がここまで大きくなれたのは常憲院様のお陰ではあったが、常に薄氷を踏む思いであった。」


柳沢美濃守は徳川綱吉の寵愛を受けつつも、度重なる期待に答えるために身を粉にして働いた。その分、何度も胃痛に悩まされた事もあった。その綱吉が亡くなった事で重荷から開放された気分であった


「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し・・・・」


「大権現様の御格言にございますな。」


「あぁ、常憲院様にとっては無念であったろうな。」


「こればかりは天命にございます。」


「ふっ、天命か・・・・是非もなし。」


一方、大奥では徳川綱吉の死後、落飾した浄光院【鷹司信子】は綱吉の麻疹がうつり、床についていた。浄光院の見舞いには瑞春院【お伝の方】、寿光院【大典侍】、清心院【新典侍】が訪れていた


「瑞春院殿、寿光院殿、清心院殿、私はもうすぐで死にます。」


「は、はい!」


「な、何を仰られますか!」


「浄光院様、そのようなお気の弱き事を・・・・」


「私は常憲院様の患った麻疹にうつったのです。自身の体が衰弱していくのを感じます。これも天命でしょう。」


天命と受け入れる浄光院に3人はそれ以上、何も言えなかった。すると浄光院は瑞春院に目線を変えた


「瑞春院殿、私は貴方に詫びなければなりません。」


突然の詫びの言葉に瑞春院は「わ、詫びとは」と尋ねると浄光院はありのままを述べた


「貴方が常憲院様と親密であった事に私は妬んでおりました。貴方のお子である鶴姫と徳松が死んでほしいと願った事もございました。だがそれは間違いだと気付かされました。鶴姫と徳松が生きておればと・・・・」


浄光院の本音に瑞春院は沈黙した後にようやく口を開いた


「浄光院様・・・・もう過ぎた事にございます。私も浄光院様を妬んでおりました。由緒正しき五摂家の出である浄光院と違い、私は卑しい身分の出、鶴姫と徳松が生まれた事で優位に立てたと思い、浄光院様に対して不遜な振る舞いをした事もございました。今にして思えば自分自身の心根の醜さがしみじみと感じました。浄光院様、誠に申し訳ございません。」


瑞春院は頭を下げ、浄光院に謝罪した。浄光院も瑞春院に頭を下げた。館林にいた時から続いた確執が解け、ようやく和解したのである。瑞春院に謝罪した浄光院は寿光院、清心院の方へ視線を向けた


「寿光院殿、清心院殿、貴方たちには苦労をかけました。」


「滅相もございません、私供もお役に立てず申し訳ございません。」


「・・・・お役に立てず申し訳ございません。」


世継ぎ誕生のために京より呼び寄せた寿光院と清心院は結局、子宝に恵まれなかった。両名としてははるばる江戸へ下向し将軍の世嗣ぎを生むという大役を賜ったにも関わらず何の成果も得られなかった事に公家の出であり女としての誇りがズタズタに引き裂かれるような思いであった。浄光院は3人を見渡した後、こう言い残した


「世の中、上手くゆかぬな。」


その言葉が遺言なのかは分からぬが浄光院は成人麻疹によって亡くなったのである。五摂家の一つである鷹司家に生まれ、将軍の妻として生きてきた女の凄絶な人生であった






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