第27話:対面
「よう参った、千種屋。」
千種庄兵衛は京にて進藤刑部大輔長之と対面をした。進藤は警戒心のない笑みで千種を出迎えたが千種は平静を装いつつ警戒を解かずに挨拶をした
「進藤様、本日はお招き頂き祝着至極に存じます。」
「うむ、立ち居振舞いは商人なれど元武士なだけはあるな、千種屋・・・・いや五十嵐十郎太。」
進藤の放った言葉に千種は全身、鳥肌が立った。目の前にいる男は自分の事を知っている事に。それでも千種は何とか平静を装いながら返答をした
「お、畏れながら私は五十嵐十郎太という者では・・・・」
「隠さんでも良い。そなたの事は事前に調べておる。まぁ蛇の道は蛇、その道に長けた者を召し抱えておるからな。」
淡々と語る進藤に千種はこれ以上、隠し立ては出来ないと諦め、用件を聞いた
「・・・・して手前に何の御用で?」
「まぁ、そう固くなるな。ワシはそなたをどうこうしようと考えてはおらぬ、用件を聞きさえすればな。」
完全に逃げ道を封鎖された千種は予め、「手前ができる範囲」という事を付け加えて改めて用件を聞いた。進藤は笑みがなくなり、用件を伝えた
「遠島となった赤穂浪士の遺族の赦免願いに協力してほしい。」
「はい?」
赤穂浪士の遺族、特に遠島となった者を赦免するよう命じる進藤に千種は呆気に取られたが我に返り、聞き返した
「お、御待ちを・・・・今、浪士の遺族の赦免と仰いましたか?」
「そうだ。」
「いや、いや、流石にそれは無謀過ぎます!相手は御公儀ですぞ!」
「無謀か・・・・そなたにとっては無謀かも知れぬな。」
混乱する千種に対して進藤は動じることなく淡々と述べた。そんな進藤に千種は恐る恐る尋ねた
「お、畏れながら勝算はあるのでございましょうか?」
「なければやらぬ。」
勝算ありという進藤に千種は奇異な目で見ていた。そんな千種を無視して進藤はある考えを述べた
「我等は大赦令を狙うつもりだ。」
「た、大赦令にございますか?」
「そうだ、朝廷は厳有院【徳川家綱】様の27回忌法要に合わせ、大赦令を進言するつもりだ。朝廷を崇拝している大樹公【徳川綱吉】とて快く受け入れるであろう。」
大赦令と聞いた千種は妙に納得した。大赦令であれば赤穂浪士の遺族の遠島も帳消しになる。朝廷を崇拝する徳川綱吉なれば快く受け入れるに違いない。しかし何故、そこに自分が関わるのかが分からず、意を決して尋ねた
「不躾ながら御尋ね致します。何故、手前に協力せよと仰るのでございましょうか?」
「まぁ、大赦令を行うにも金がかかる。そのためにも多くの味方を募る必要があった。」
「それで手前を?」
「勿論、只働きではない。そなたを近衛家の御用商人に致す。」
「ご、御用商人!」
「あぁ、五摂家筆頭である近衛家の御用商人ともなれば千種屋の看板に箔がつく、決して悪い話ではないぞ。勿論、証文もあるぞ。」
進藤は証文を千種に渡した。千種は「では」と恐る恐る証文を広げると、そこには近衛家の家紋と当主の名前が記載されていた。五摂家筆頭である近衛家の御用商人と書かれた証文に千種は生唾を呑んだ。近衛家の御用商人ともなればそこいらの豪商よりも幅を利かせる事ができ、千種屋は末代まで安泰である事を約束されたも同然なのである
「どうだ、引き受けてくれるか?」
「はい、慎んでお受け致します!」
「流石は千種屋だ!」
こうして千種庄兵衛率いる千種屋は近衛家の御用商人としての地位を確立したのである。その後、千種は進藤刑部大輔から必要な資金等を支持する文面や協力する他の支援者と交流を深める事となった。また大石内蔵助の親戚である大石孫四郎信興【大石瀬左衛門信清の兄】と再会したのである
「孫四郎様・・・・」
「御久しゅうござる、十郎太殿。」
「まさか近衛家に仕えていたとは思いませなんだ。」
「従兄弟の三平殿に誘われてな。」
大石孫四郎は脱盟、弟の瀬左衛門と絶縁した後、母と共に讃岐国高松へ住んだが従兄弟の大石三平良穀に誘われ、近衛家に仕官したという。その後は進藤と共に赤穂浪士の遺族の赦免運動に協力している
「もう1人、会って貰いたい者がいる。」
「もう1人?」
「参られよ。」
孫四郎が呼ぶと1人の男が現れると千種は驚愕した。相手は何と大野九郎兵衛の息子である大野群右衛門であった
「ぐ、群右衛門殿・・・・」
「久しいな、十郎太殿。」
父である大野九郎兵衛と共に赤穂を出奔し、京都の仁和寺の辺りに住んだという。大野九郎兵衛はというと元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたという
「まさか、このような形で再会するとは・・・・」
「誠に不思議な事もあるものだ。」
「それにしても群右衛門殿はどうして赤穂浪士の遺族の赦免運動に参加されるので・・・・」
「進藤刑部大輔殿から仕官先を紹介すると誘われたんだ。我等としても暮らしぶりは貧しく食うに困る生活をしていたところ孫四郎殿から施しを受け、仕官先も紹介すると聞けば、藁にも縋る思いだったから受ける事にしたのだ。」
大野九郎兵衛と群右衛門は赤穂浪士の義挙の後、世間の白い目から逃れるようにひっそりと暮らしていたが生活は困窮していたところを大石孫四郎信興と進藤刑部大輔に誘われ、今日に至ったという
「それにしても十郎太殿が商人になるのは驚いたな。」
「まあ、色々ありましたからな。」
「色々・・・・か。」
群右衛門は何かを悟ったのか、それ以上何も聞いてこなかった。孫四郎も討ち入りに参加しなかった元赤穂藩士たちが世間から白眼視されていた事は聞いていたので、他人事ではないと思った。今は近衛家の青侍として活動しているが、そうでなかったらと思うと背筋が寒くなった。その後、千種は大坂へ帰還し赤穂浪士の遺族の赦免運動のための資金作りに奔走するのであった
「綱教、綱教!」
「兄上、目をお開けくだされ!」
宝永2年(1705年)5月18日、紀州和歌山城にて紀州藩主である徳川綱教が病にてその生涯を閉じたのである。側にいた前藩主である徳川光貞、綱教の異母弟である松平新之助頼方【後の徳川吉宗】は息子(異母兄)であり紀州藩の大黒柱を失ったのである。綱教が亡くなった事は直ぐ様、将軍であり義父である徳川綱吉に届いた
「綱教が・・・・お鶴の次に・・・・」
「御悔やみ申し上げます。」
綱吉自身は娘の鶴姫を殊の外、大切にしていた綱教の事を息子も同然に見ていたので亡くなった事に少なからずショックを受けていた。柳沢美濃守吉保は内心、徳川家宣の時代が来る事を確信したのである
「(紀州殿亡き今、甲州の立場が磐石となった。柳沢家が生き残るにはより親密にせねば・・・・)」
一方、綱教が亡くなった事を知った家宣は静かに瞑想をしていた。間部詮房と新井白石はこれからの事を話し合っていた
「紀州殿亡き今、殿を阻む者が亡くなり申した。」
「いや、桂昌院様と上様が御存命にござる。」
「桂昌院様も病重く、上様にはもう子供を作る能力はござらん。」
「例の御落胤の事はどう致す?」
「柳沢様は自分の首を絞めるような事は致しますまい。」
御落胤というのは柳沢美濃守吉保の息子である柳沢侍従吉里の事である。綱吉は吉里に松平姓と自分の片諱(かたいみな)を授ける等、寵愛が厚く一部では綱吉の御落胤だと噂されたのである
「柳沢にその気がなくても上様が御落胤を世継ぎにする可能性があるかもしれませぬぞ。」
「仮に世継ぎにしようとするものなら、その時は・・・・止めねばなりませぬな。」
詮房と白石は家宣の将軍就任のために奔走する一方、綱吉最大の庇護者である桂昌院は宝永2年5月18日に亡くなったのである。綱教に続いて桂昌院が亡くなった事で綱吉は益々、気持ちが沈んだのである
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