第23話:切腹と決別

赤穂浪士の処分は未だに決まっていなかった。世間の赤穂贔屓は減るどころか益々高まっており、徳川綱吉は処罰すべきか、許すべきか、迷いに迷っていた。そこで幕府の学問に精通していた2人の学者を召し出した。1人は林大学頭信篤、もう1人は柳沢美濃守吉保御抱えの学者である荻生徂徠である


「畏れながら幕府は朱子学を御家の学問としております。上様は忠孝を重んじよと武家諸法度にも記載しております。即ち、赤穂浪士の行った事は亡き主君の無念を晴らした事、これこそ忠義の手本すべきごとにございます。もし彼等を処罰すれば忠義の根幹を揺るがしかねない大事と相成りまする。」


林大学頭は忠義を大事である事を説き、赤穂浪士の罪を許すべきだと綱吉に唱えた。一方、荻生徂徠は赤穂浪士を罰すべきだと唱えた


「畏れながら浪士たちは徒党を組み、蛮勇にて吉良上野介を闇討ち致しました。徒党を組む事は武家諸法度で禁止されており、御公儀に弓引く物と存じます。浪士たちは罪人として死罪にすべきかと。」


「上様、彼等を処罰すれば上様が唱える忠孝を否定致します。そうなれば人々の心が乱れ、天下大乱の元となります。」


赤穂浪士を助命するよう林大学頭は綱吉を説得すると荻生徂徠は大学頭の方へ視線を向けた


「大学殿は某が血も涙もない冷血漢と見なしているようだが某とて赤穂浪士を思う気持ちは同じである。」


「なら、何故浪士たちを死罪にせよと申される。」


「彼等の忠義心を思えばこそでござる。今日までに耐えに耐え続けた純白の忠誠心を世俗の垢で汚したくはない。彼等が死ねばその忠義は未来永劫語り継がれる。美しい華は美しいまま散らす事こそ華ではござらぬか。」


「そのようなもの、認める事は出来ん!」


2人の論説に綱吉は黙りこくるしかなかった。赤穂浪士の処分が更に遅れたのは年賀拝礼の儀式があったのも理由の1つであった。朝廷から勅使と院使が江戸城に訪れ綱吉に拝謁した際に朝廷でも赤穂浪士の忠義を称賛する声が高く、時の帝も浪士たちの忠義に御満悦であったと綱吉に伝えたのである


「(どうすれば良いのだ・・・・)」


一方、大石内蔵助は細川屋敷にて正月を迎えており、精進料理を頂いていた。彼等の接待をする堀内伝右衛門である


「大石殿、殿より精進料理を賜ります。どうぞ御賞味くだされ。」


「忝ない。」


「此度の精進料理は料理人が腕によりをかけて作られた物、長年の浪人暮らしで舌が貧しくなった貴殿などに相応しゅうござる。」


「(こやつ。)」


横から聞いていた奥田孫太夫はイラッとした。堀内伝右衛門は軽輩の出身で士分に取り立てられた成り上がり者でもあり無神経な言動が多かった。酒の肴や菓子を用意しない事も度々あったが罪人として預かる身ではあるが故に我慢していたが神経を逆撫でる伝右衛門の発言にカチンときた孫太夫は1つイタズラを思い付いた


「堀内殿、よろしいか?」


「はい、何でしょう?」


「もし切腹を仰せつけられた場合なのだが、某は切腹の作法を存じておらぬ。堀内殿に是非とも作法をお教え頂きたい。」


「えっ、あぁ。」


堀内は答えに詰まった。軽輩の身分だったので切腹の作法を知らずにいたのである。それを聞いていた富森助右衛門が代わりに答えた


「形だけで構わぬ、首を差し出せばそれで終わりでござる。」


「おぉ、流石は助右衛門殿だ!」


「士分の者であれば誰でも知ってござるよ。」


この遣り取りを聞いていた堀内は顔を真っ赤にして黙り込んだ。孫大夫と助右衛門は堀内の鼻っ柱をへし折った心地であった。大石たちも苦笑しつつも伝右衛門の対応にイラっとしていたので孫大夫と助右衛門の対応に密かに喝采を送ったのである


その頃、大石主税と堀部安兵衛と大高源吾等は松平屋敷に預けられたが罪人として厳しく扱われた。鉄砲まで準備して監視し、見回り番、不寝番を置いた。「火の許不用心」という理由で煙草・暖房具(火鉢等)も禁られていた。更にまだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまったのである


「父上はどうしておられるだろうか。」


「主税殿、公儀の目から見たら我等は罪人でござる。こればかりは仕方がござらん。」


「しかし鉄砲を持ち出してまで我等を警戒するとは些かやりすぎではあるが・・・・」


毛利屋敷でも松平屋敷と同様、赤穂浪士たちは罪人として扱われた。護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせた。到着後は収容小屋に5人ずつ分けて入れ、窓や戸には板を打ち付けた。更に収容小屋の周りに板塀を循らし二重囲いにした。戸口と塀の所々に昼夜交代で複数の番人が見張った。本家の長州藩からも監視として志道丹宮・粟屋三左衛門等が数十人の小者を引き連れ派遣されたのである


水野屋敷では使っていない長屋に赤穂浪士たちを入れ、外から戸障子などを釘付けにした。、更に二重の囲いを設け、藩士に昼夜問わず長屋の内外を巡回させた。布団や酒も出さず暫くは体を現れなかった等、浪士たちを冷遇しており、細川屋敷が異例中の異例ともいえるほどの厚遇であった。世間では細川に倣って水野家が厚遇したと噂されているがそれは21日になって水野忠之と浪士たちが対面した後で対応が丁重になったからである。なお、この処遇について【細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる】(当時の狂歌)と批判されたのは言うまでもなかった





「はあ~。」


綱吉は溜め息をついていた。勅使と院使による年賀拝礼が終了しても赤穂浪士たちの処分は決まらずにいた。幕閣の間でも助命すべきだ、厳罰にすべきだと意見が割れており、柳沢美濃守は上様が決めるべきだと体よくあしらわれた。困り果てた綱吉は藁にも縋る思いで実母の桂昌院に相談したのである


「母上、浪士たちの処分について些か迷うておりまする。法を重んじるのであれば浪士たちを死罪にしなければならず、情を重んずるのであれば赦免する事も考えましたが将軍が決めた法を自ら破れば天下大乱の下になりかねませぬ。某はどうしたらよいか・・・・」


「上様のお立場を考えればお気持ちは御察し致します。私が言える事とすれば法を超えた存在に御すがりする他はございません。」


「法を超えた存在とは・・・・」


「公弁法親王様が年賀拝礼に訪れます。その御方に浪士たちの助命を促してはどうですか?」


「おお、なるほど。忝のうございます、母上。」


元禄16年2月1日(1703年3月17日)、公弁法親王が年賀のため綱吉に拝謁した。綱吉は雑談中に浪士たちの処分について法親王に相談すると法親王は少し考えた後、口を開いた


「大樹公の御心痛お察し致します。されど浪士たちは本懐を遂げられました。これ以上、無駄に生き永らえさせるのは酷にございます。」


浪士たちを処分するよう法親王が意見すると綱吉は涙を呑んで浪士たちを処分する事に決めたのである


「赤穂浪士を切腹に処する。」


綱吉の命は浪士預かりの大名屋敷に伝わった。それと同時に吉良家は改易、当主の吉良左兵衛は諏訪に流罪となったのである。そして切腹当日となると些細な問題が起きた、それは切腹の順番である


「何故、某は台所役(三村次郎左衛門)よりも下なんだ!」


切腹の順番は身分によって決められており、本来は神崎与五郎【徒目付5両3人扶持】、三村次郎左衛門【台所役人7石2人扶持】と身分では神崎の方が上であるのにも関わらず水野家の手落ちで神崎が最後となったのである。神崎は最後まで「些か閉口して御座る」と不平を漏らしていた。一方、三村次郎左衛門はというと終始、神崎に目を合わせず気まずい思いをしていたのはいうまでもなかった。その後、大石は別室にて堀内から浅野家再興に向けての話し合いが行われることが告げられた。それを聞いた大石は頭を下げ礼を述べた


「浅野家再興の儀をお伝えくださり感謝申し上げます。これで心置きなく黄泉の国へと旅立てまする。」


「大石殿・・・・某が自分が恥ずかしゅうござる。今までは殿の命にて皆様のお世話を仰せつかりましたが度々、無礼を致しました。誠に申し訳ござらん。」


「お気になされずに、某は罪人の身でござる。堀内殿、短い間柄ではござったがお世話になり申した。」


「お、大石殿・・・・」


そう言うと大石は再び頭を下げた。その姿に堀内は静かに涙を流すのであった。そして赤穂浪士たちの切腹の日となった。それぞれ白装束を身に纏い、刻々と待っていると最初に大石の名が呼ばれた


「大石内蔵助殿、参られよ。」


「さて御一同、先に殿にお会い致す。」


「御家老、我等も追っ付け馳せ参じまする。」


最初に切腹する事になった大石は同志たちに別れの言葉を述べると片岡源五右衛門がそう述べ、浪士たちは頭を下げたのである


「(武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原)」


大石が「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」という辞世の句を書いたとされているが実際は浅野内匠頭の墓前にて書いた句であり、実際はこちらが本流だといわれており、接待役の堀内伝右衛門が預かっている。大石内蔵助を始め、浪士たちは全員切腹となり、赤穂事件は終了したのであった





「五十嵐十郎太達敏に暇を取らす。」


五十嵐は義兄である大沼一之進一豊に呼び出されると上意が下され、五十嵐はクビとなったのである。当然の事ながら五十嵐は困惑し理由を尋ねた


「義兄上。何故、某が暇を出されなければいけないのですか!」


「これは上意だ。不忠者を召し抱えては三次藩の名誉に関わる。」


「そ、そんな・・・・」


「それと登代とは離縁致せ、良いな。」


大沼がそう言うとその場を立ち去った。五十嵐はしばらくその場に座り続け茫然自失となった。登代の方も親族から五十嵐と離縁及び菊丸と千代を仏門に入れるよう強要、更に藩の重役の後添えにしようと親族たちが登代に迫ったが肝心の登代はというと・・・・


「私は五十嵐十郎太様の妻にございます!共に白髪が生えるまで添い遂げようと誓い合いました!離縁に応じるつもりはございません!子供たちも仏門に入れるつもりはありません!」


頑なに拒む登代に親族たちも匙を投げられ、実兄である大沼からは絶縁状が送られた。その後、がっくりした様子で帰ってきた五十嵐は登代の報告を聞いて目を丸くした


「登代、そなた正気か!実家から縁を切られればどうなるか分かっているだろう!」


「旦那様、私は旦那様に嫁いだ時から覚悟をしておりました。例えどのような形であっても私は旦那様の妻にございます。」


「登代・・・・そなた。」


「旦那様、どうかお気を強くお持ちくださりませ。貴方様は1人ではないのですから・・・・」


登代の決意に満ちた眼差しを前に五十嵐はある決断を下した


「分かった。そなたがその覚悟ならワシも本心を明かそう。ワシは大坂で商人になろうと思うておる。」


「商人に?」


「ああ、ワシは役目柄、商人たちの立ち居振る舞いをよう知っておる。算術の心得もあるし塩や材木の目利きにも自信はある。百姓になる事も考えたができた米は年貢として取られ、飢饉や旱魃で作物が取れなくなる心配もあったからワシは商人になる事にしたんだ。」


五十嵐は暇を出された時、茫然自失していたがこれからの事を考えていた。討ち入りの影響で自分は不忠者の烙印を押され、武士としての人生を歩めなくなった。義兄から登代と離縁せとよ命じられ登代と別れた場合の事も考えた。普通の武士であれば潔く切腹するのだが、五十嵐はそういう考えには至っておらずあくまで生きる事を重視したのである。五十嵐自身は才覚だけではなく軽輩の身分故の切り替えの早さと軽輩時代から培った忍耐強さが彼自身を支えた。幸か不幸かは分からないが登代は実家と縁を切ってまで自分に着いていくと決め、子供たちも出家させない意向を示した事で五十嵐は一層、商人になる事を決めたのだが一抹の不安があった


「といいたいところだが如何せん金が必要だ。今ある金子だけでは足りないのも事実だ。」


「旦那様、そのように弱気になってはなりませぬ。」


「いや、しかしだな・・・・」


「旦那様が商人になるのであれば必ず多くの金子が必要でございましょう、少々お待ちを・・・・」


登代がそう言うと奥から6つの大きな箱を持ってきた。中を開けると100両の小判が入っており、合計で600両もあった。これには五十嵐は驚き、理由を尋ねた


「登代、これほどの金子をどうやって!」


「赤穂にいた頃から貯めておりました。まさかこんな形で役に立つとは思いませんでしたが・・・・」


「それにしてもそなた、意外と力持ちだな。」


「女子にいうことではございませんよ、旦那様。」


「あ、ああ、すまぬ!いやこれだけあれば店を開く事ができるぞ、登代!」


五十嵐は登代の内助の功に感謝しつつも子供たちや奉公人たちにどう説明するか考えていた。登代からはありのままを説明した方がいいと助言を貰い、子供たちと奉公人を集めた。五十嵐は三次藩より暇を出された事や武士を辞めて商人になる事を伝えると菊丸ともよ以外は呆気に取られた


「だ、旦那様、それは誠で?」


「あぁ、我等が生きていくにはそれしかない。だが無理強いはしない。ワシの下へ着いていくか、それとも別の道を歩むか、好きな方を選べ。もしワシに着いていく気がないのであれば、手切れ金を渡す。」


五十嵐がそう言うと奉公人たちは迷いに迷っていた。すると菊丸と千代は父である五十嵐に尋ねた


「父上と母上と一緒?」


「あぁ、もう武士には戻れないがな。」


「じゃあ、一緒に行きます!」


「あたしも!」


菊丸と千代は一緒に行く事を決めた。すると太吉と加代も決意表明をした


「旦那様、私も旦那様に着いていきます!」


「ここを離れる事ができるなら商人も悪くありませんよ。」


「太吉、加代、忝ない。」


「「「「「私たちも参ります!」」」」」


赤穂にいた頃から着いてきた奉公人たちは五十嵐と共に大坂を目指す事にした。それを見た五十嵐は目頭が熱くなった


「皆、礼を申す!」


太吉と加代とは別に奉公人たちの思惑は分からないが一刻も早くここから離れたいという思いは一致しており、かといって行く宛もなかったので五十嵐と共に大坂に行く決心をするのである。そしてとうとう出発の日となった。五十嵐たちは屋敷を離れた後、舟に乗るため城下町を立ち寄ると武士や町人から罵声と礫が浴びせられた


「とっとと出ていけ、不忠者!」


「貴様等がいなくなって清々するわ。」


「2度と三次藩に入るな。」


「出てけ、出てけ!」


五十嵐たちは罵声と礫を必死で絶えながら何とか城下町を脱出した


「皆、これより大坂に参る。今は苦しいかも知れぬが必ず春は来る、それまでは耐え忍ぶのだ。」


「「「「「はい!」」」」」


五十嵐たちは一路、大坂を目指して旅立つのであった


※忠臣蔵外伝【不忠者の人生】の前半は終了です、ここからは討ち入り後の後半です

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