第92話

 若様はセリナを助けるために、毒入りのパンだと分かっても命がけで我慢して食べた。しかも、全部食べたのだ。全部食べなければ、もっと楽だったはずなのに。死ぬ思いなんてしなくて済んだはずなのに。

『犯人が誰なのか、はっきりしない時点で異常を告げれば、君が犯人としてヴァドサ隊長にその場で殺されてもおかしくないからだ。だから、若様は我慢した。』

 ベリー医師の言葉が頭の中で木霊こだましている。

 セリナは何も分かっていなかった。静かに立っていて、セリナの労力を労ってくれたりしたシークの立場を理解していなかった。彼は親切な人だが、同時に親衛隊の隊長という重い立場にあり、その立場は己の判断でセリナを殺しても罰せられない立場であるということを。

 だから、シークにセリナが殺されたりしないよう、若様は必死になったのだ。そして、それを思った時にはっとした。若様はきっと、シークがセリナを殺さずに済むようにするためにも、我慢したのだと。

 衝撃的すぎて、何と思い、何と言えばいいのかさえ分からなかった。

『――だって、セリナは友達でしょ?』

 いつだったか若様が言ってくれた言葉を思い出した。はにかんだような笑顔を浮かべて……。

 その途端、涙が溢れ出した。

 全身が震える。

 若様の気持ちを何も考えていなかった。彼は本当に真心をもってセリナに接しててくれたのに、セリナは真心でもって若様に接しただろうか。違うことが分かっているから、余計に涙が止まらない。

『セリナは大丈夫?』

 若様が聞いてきたことを思い出した。怪しい人影がいることが分かって、逃げようとしているとき若様が聞いてきた。きっと、セリナが毒を口にしていないか、さりげなく確かめていたのだ。

 若様が殺されそうだという事実に怒り、その明確な殺意に怯え、パンを作らなければよかったと、ただただ、その事だけ後悔して押しつぶされそうになっていた。

 若様の優しさに胸が痛くて苦しい。

 なんて優しい人なんだろう。なぜ、そこまで思ってくれるの。

 物凄く苦かったはずなのに。セリナが一口毒入りのパンを口に入れた時、本当に一口だったのに、物凄く苦かった。重曹の味じゃないとすぐに分かったはずなのに、黙っていた。同じ小麦粉から作っているのに面白いね、とかそんな感想まで述べて。

 あの時の若様はずっとにこにこしていた。苦しそうな素振りは一切見せなかった。セリナを助けるために、黙っていた。

 セリナはしゃくりあげた。胸が痛い。とても痛い。若様の優しさが胸にしみた。セリナの方はただ、若様と一緒にいたくて、ベリー医師が指摘した通り、宝石のように綺麗な若様を自分の隣に並べて、自慢したかっただけなのに。そんな気持ちが半分くらいはあって。

「セリナ、行こう。」

 リカンナがセリナの腕を取って促した。促されるまま、自分達の控え室に入る。今はみんな仕事中で誰もいない。シルネとエルナもジリナの監視の下、洗濯か何かをしている。

「……セリナ、大丈夫? 大丈夫じゃないの、分かってるけどさ。こういう時、なんて言えばいいんだろうね……。」

 リカンナが心配そうに聞いてきた。でも、しゃくりあげるばかりで一言も答えられなかった。

「……どうしよう、リカンナ。わたし、ひどい女だよ……! だって、こんなことになるなんて、思ってなかったから! わたし、若様を傷つけてたんだ! きっと、若様もわたしの気持ち、知ってる!」

 何とか息が整ってくると、セリナは叫んだ。若様は思わぬ所で鋭い。きっと、若様が知ってると思うと、余計にセリナは悲しくなった。

「みんな、こんなことになるなんて、思ってないよ。村の子達はみんな、こんなことになるなんて、思ってなかったさ。あたしだってそうだよ。」

 リカンナは泣きじゃくるセリナに言い聞かせる。

「それに、若様があんたの本当の気持ちを知ってるかどうか分からないよ。言わなければ分からないんだし。それに、あたしだって同じだよ。あんたにひっついてれば、若様が声をかけてくれるんだから。自慢にならないって言ったら嘘になる。」

 確かにリカンナの言う通りかもしれない。

「でも、リカンナ、若様は鋭いの。わたしの気持ちをきっと知ってる。それなのに、わたしを命がけで助けてくれて。自分の命の方が危ないっていうのに……!」

「……うん、そうだね。あたしも聞いてびっくりしたよ。本当にあの若様は優しい人だね。」

 おいおい泣くセリナを、リカンナはしばらく背中をでてなぐさめてくれた。

「…ねえ、セリナ。あたし、思うんだけどね。あんたが若様に恩を返す方法は一つしかないと思う。若様があんたを友達だって言うのなら、あんたは若様の友達でいなきゃ。どんなことがあっても、友達でいてあげればいいんじゃないの? だって、あんなに命を狙われているのなら、そう簡単に友達なんてできないもんね。」

 リカンナの言葉がじんわりと胸にひびいた。

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