第76話
フォーリはすぐに出て行った。じきに二人を連れて戻ってくる。その間に少しでも時間が惜しくて、ベリー医師は薬を用意しておいた。パンの毒は思った通り、この辺に生えている草から作る珍しい毒だろう。ただ苦いだけならいくらでもある。微かな違いだが、わずかに重曹に似ていた。おそらく間違いないはずだ。
厳しい顔のジリナと、緊張した顔のエルナが入ってきた。
「エルナ。すぐに答えて。そうしたら、これをあげるよ。」
そう言って、絹の
エルナはごくりと唾を飲み込んだ。目が立体的な花の刺繍に釘付けだ。
「君はいつもシルネといるから、なんでも綺麗な物は彼女の物になるはずだ。だけど、私の聞いたことに答えるなら、彼女には内緒でこれをあげよう。」
ベリー医師の提案に、エルナがおずおずと周りを見回す。特にジリナに目が行ったが、何も言わなかったため口を開いた。
「……ほんとうですか?」
一応、遠慮して聞いてくるあたり、シルネより素直な一面がある。シルネなら貰って当然という態度に出るだろう。
「もちろん、本当だ。さあ、答えて。誰に油壺を壊すように言われたの? 怒らないから、全部答えてくれるかな?」
エルナは優しいベリー医師の言葉におずおずと頷いた。ベリー医師は、今、仕事用の笑顔を浮かべていたが、フォーリは内心で空恐ろしい笑顔だと思っていた。
「…実は――。」
エルナは事情を説明しはじめた。
この間、やってきた商人に絹製のリボンを手渡されて、もっと欲しかったら屋敷の油壺を壊し、粉を水瓶に入れるように言われたと答えた。そのリボンは他の娘達にも売っている物とは質が違い、本当に手触りも滑らかできれいだったと答えた。
シルネはそれですっかりやる気になり、一も二もなくやると答えたという。でも、エルナはさすがに油壺を壊して油を
そして、実行するのはいつでもいいが、誰もいない時がいいと言われたという。だから、今日は絶好の機会だとシルネは逃さなかった。
「でも……、あたしは恐かったんです。だって、油壺を壊して負けなんて、怪しいです。何度もやめようって言いました。でも、リボンは受け取ったから、やらないわけにはいかないって聞かなくて。」
おそらく、それはシルネも自分を正当化するために言っていたのだろう。
「それに、粉を入れるのだって恐かったんです。最初に来た頃に、若様の毒味係だという女性が死にました。粉は若様の水瓶だけでなく……、えーと、こ…国王軍? の水瓶にも入れるようにって言われたんです。」
エルナは両手を握っていたが、その手は細かく震え続けていた。何度も服をつかみ、両手をこすりつけている。誰だって、毒ではないかと疑うだろう。
ベリー医師とフォーリは顔を見合わせた。間違いない。標的は若様、フォーリ、親衛隊の三者だ。
「それで、その粉はある?」
エルナは固まったが、少ししてから服のポケットに手を差し入れ、小さな紙包みを差し出した。全部で四包みある。しかも、中身は入ったままだ。
「入れなかったの?」
ベリー医師の質問にエルナは小さく
「あたしは…、国王軍の方に入れるようにシルネに言われました。でも、あたしは入れたくなかった。だから……入れなかったんです。シルネは若様用の方に入れるって言いました。やめようって言ったのに入れたんです。」
エルナは乾いた声で答えた。自分達が悪いことをしているという自覚があるのだろう。逆にシルネは何をやっても許されると勘違いしているようだ。
「どうして、入れなかったの?」
すると、エルナは頬を赤らめた。
「……その、国王軍の人の中に…、かっこいいなって思う人がいて……、それで、入れたくなかったから……。」
「分かった。」
ベリー医師はその薬を受け取った。
「中身を小麦粉に変えたりしていないだろうね?」
その時、ずっと険しい顔で黙っていたジリナが詰問した。エルナは慌てて首を振る。
「そんなこと、してない…!」
ジリナの目がすぅーっと細くなる。
「本当だろうね。嘘を
「本当だもん、嘘じゃない…!」
その必死の形相からして嘘ではなさそうである。エルナは今から服を剥がされるかのように、慌てて胸の前をかき合わせている。すっかり、エルナの顔は青ざめて血の気がなかった。
「シルネには何度も恐いからやめようって言いました。でも、あの綺麗なリボンが欲しかったらやれって言われて。あたしはいつも、シルネよりも立場が下だから、伯父さんに言いつけるって言われたら、言うことを聞くしかなくて。それで――。」
「分かった。ありがとう。」
ベリー医師は長く続きそうな言い訳を遮った。時間がない。一刻の猶予もないのだ。
「約束通り、あげよう。でも、これはシルネには内緒だ。言ったら、だめだよ。当然、取り上げられるだろうから言わないと思うけど。もちろん、家の人にも内緒だ。ここにいる私達以外に、この件について話してはいけない。」
エルナに
ベリー医師が薬を
こうして、二人が現場に到着したという訳だった。
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