第74話
すると、人影を見つけた。
(……隠れているつもりか? いや、隠れるつもりもないのか?)
思わずベリー医師は考え込んだ。それこそ、考え込みながら歩いているかのように、妙な中腰で歩いている二つの人影。かえって目立つ体勢でうろついている。
「シルネ、エルナ、君達、ここで何をしているんだい?」
ベリー医師の声に二人は飛び上がって
(いや、普通、まっすぐ突っ込んでくる?)
思わずベリー医師は、突っ込んでくる二人に心の中で突っ込んだ。
「ひぎゃ。」
「ぎゃっ。」
ベリー医師は二人の首根っこを捕まえた。ベリー医師が軍人ではなく医者なので、横をまっすぐ通り抜ければ逃げられると思ったようだ。しかし、カートン家の医師はみんなニピの踊りを身につけていることを忘れていたらしい。おそらく、村に常駐している医師が、のんびりした雰囲気のご老人だからだろう。
「悪いけどね、君達。逃がすわけにはいかないな。」
廊下で捕まえた二人を
「ちょっと、放して!」
ばたばたと暴れるので、さすがにベリー医師も立ち止まった。
「放すわけにはいかない。君達は入ってはいけないはずの、若様の厨房にいたんだからね?」
分かってるよね、という意味を込めて言うと、分が悪いと思ったのかシルネは一瞬黙った後、ベリー医師も思っていなかった騒ぎ方を始めた。
「……は、放してよ、放してったら! 何をするのよ、この変態!!」
さすがのベリー医師も二の句を継げない。この開き直り方は素晴らしい。思わず称賛してしまうほどだ。
「…そ、そうよ! 何をするつもりなのよ! 変なことでもするつもり!?」
ぽかんとしていたエルナも、シルネが
「やめてよ、あたし達に手を出すつもりなの!? あたしの父さんは村長なのよ!」
やたらと“村長”に力を入れている。シルネが知っている一番の権力が村長なのだ。そう思うと少し哀れだった。こちらは“国王”という権力者と会ったことがあるのだが。
「ちょっと、聞いてるの!」
子猫のように首根っこを押さえられたまま、シルネは大声を上げてきゃあきゃあ騒いだ。それで、少し離れた隣の親衛隊用の厨房から、ジリナが気づいて様子を見に出てきた。
「何をやって……。ベリー先生。どうかなさいましたか? この子達が何か?」
当然、ジリナはベリー医師が何かしているとは思わず、二人が何かしでかしたと思ってベリー医師に尋ねる。それが不満だったのか、ベリー医師が口を開く前にシルネが騒いだ。
「おばさん、ちょっと助けて! 変なことをされそうなの!!」
「…へえ、変なことねぇ。」
ジリナの目がすうっと細くなる。
「何をされたって?」
ジリナに
「……そ、それは。」
「……。」
黙って見返され、シルネは必死の形相で叫んだ。ここでベリー医師のせいにしておかなかないと、自分達が罰されることくらい分かっている。
「……そ、それは、その、だから、あたしのお尻と胸を触ったのよ! おっぱいを触ったの!」
どういう言い訳をひねり出すかと思えば、そんなことを言いだしたのでジリナは吹き出した。思わず笑ってから、直後に真顔になって怒鳴りつける。
「馬鹿なことを言ってんじゃないよ! 仕事を放り出しておいて、何をほざいてんだい!?」
二人を怒鳴りつけた後、もう一度ジリナはベリー医師に尋ねた。
「本当に申し訳ありませんねぇ。それで、先生、この子達が何をしでかしたんですか?」
「若様用の厨房に侵入し、中腰でうろついていたんですよ。それで、声をかけたら逃げようとしたので捕まえました。」
ジリナの目が恐いほどに厳しくなった。
「ほう、あんた達、入ってはいけない場所に入っておきながら、先生のせいにするとは良い度胸だね。」
「…な、何よ、セリナはいいのに、あたし達だけなんでいけないのよ!」
エルナの方はジリナの登場にすっかり大人しくなってしまったが、シルネの方はさらに言いつのった。
「…それに、本当に触ったかもしれないでしょ!? なんで確かめようともしないのよ! ふんっ!」
最後は鼻息も荒く締めくくった。他の人はその剣幕と勢いに押されてしまうのかもしれないが、そんなものジリナには通用しなかった。
「馬鹿だねぇ、この子は。そもそも、あの若様を毎日見ても欲情しない先生が、あんた達なんかに誘惑されるわけないだろ。」
「…ふ、普通の顔が好みかもしれないでしょ。」
「言っちゃ悪いけど、あんた達じゃ普通以下だね。親衛隊の隊員を見ても分からないのかい? 街に行ったら、あんなのがゴロゴロいるんだよ、男も女も。」
随分な言い様のような気がするが、それを横にベリー医師は一歩中に入って鼻をくんくんさせた。
「何よ、ひどい、おばさん! あたしは村中で一番、おっぱいが大きいんだから!」
「若い内だけだよ、大きいって自慢できるのは。肩は凝るし、子供産んだら途端に垂れるし、さんざんな目にあうよ。」
人生の経験者は様々なことを知っているものである。それを尻目にベリー医師は確信した。
「油の臭いがする。」
「なんで、そんなことが分かるのよ、おばさん、そんなに大きくないくせに!」
ベリー医師はシルネが騒いでいる間に、ジリナに二人を任せて厨房に入って確認した。薄暗いので押し上げ式の窓を開けて明るくする。さっと日の光が入り、惨状が明らかになった。油壺を壊して油を
「これ、君達がしたの?」
ベリー医師の厳しい声にシルネが黙りこくった。エルナも当然、黙っている。返事がないので振り返ると二人は蒼白になっていた。ジリナも同様であるが、こちらは怒りで蒼白になっていた。
「ほう、あんた達、
「何よ、どうせ、父さんは払わないもん……!」
負け惜しみを言うシルネの頬をジリナはひっぱたいた。
「何を馬鹿なこと、言ってんだい! ここにある物は、みんな、ご領主様の物だよ! それを壊しておいて、弁償しないだって!?」
「…あ。」
さすがのシルネも、自分達がしたことの重大さに気がついたようだ。
「しかも、油を撒いたのは、どういうつもりで撒いたんだい!? まさか、馬鹿なことをするつもりだったんじゃないだろうね!」
ジリナの剣幕にエルナが震え始めた。
「先生、他におかしな所はないですか?」
ジリナの声にベリー医師は振り返った。シルネとエルナに尋ねる。
「君達、このパンだけど、君達が置いたの?」
書き置きがあったが、念のために確認する。
「…違うわよ。どうせ、セリナが置いていったんでしょ。」
さすがに答えるシルネの声にも張りがない。
「何かした?」
「何もしてない。」
「食べてない?」
するとシルネが鼻で笑った。エルナの方にはそんな余裕はない。
「食べないわよ。どうせ、セリナが作ったんだから、固くてまずいに決まってるわよ。」
よほど、セリナが若様の料理係に任命されているのが悔しいのか、そんな負け惜しみを言っている。
「本当に何も口にしてないね?」
「だから、何も食べてないって。」
エルナはただ
「君達に教えておこう。なぜ、若様用の厨房が専用にあるのか、分かるかい?」
「ごちそうを作るためじゃないの?」
「そうじゃない。若様はいつ毒を盛られるか分からない。もし、親衛隊と同じ厨房で作ったものを食べるようにしていたら、全員、若様に盛られた毒で、一緒にあの世に行くかもしれないからだ。だから、別に作ってある。」
「……。」
さすがのシルネも黙った。
「もし、君達がそれを口にしていたら、若様の代わりに死んでもおかしくない。だから、しつこく聞いたんだよ。水も飲んでないね?」
ベリー医師の説明を聞いて今度は二人とも素直に、しかし青ざめた顔でぎこちなく頷いた。
「ジリナさん、その二人が他に何もしていないかどうか、聞いておいて下さい。さっき、見慣れない者が医務室をうかがっていたので。」
「分かりました。」
ジリナも顔に緊張を走らせて承知すると、シルネとエルナの首根っこを掴んで戻っていった。そして、さすがのジリナも、シルネとエルナが犯したことを知って、セリナがパンを作ったらしいということを失念してしまったのだった。
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