第8章 散歩事件の顛末

第67話

 セリナは仮に医務室になっている部屋の隅で、椅子の上に膝を抱えて座って泣いていた。泣きたくなくても勝手に涙が染み出るように流れてくる。

 頭の中には、ずっと“どうして若様だけが”とぐるぐる回っている。なぜなのか、分からなかった。どうして、若様だけが毒に当たったのか。分からなかった。

 考えても堂々巡りで、何も思い浮かばない。ただ、ひたすらパンを持っていかなければ良かったと、後悔の波にザブザブとかっている。

 セリナはどこにも行くことが許されなかった。そこにいろ、とフォーリに命じられ、セリナを運んできた兵士に見張られている形で、じっとしているしか出来なかった。

 若様は今、高熱を出しているらしい。セリナを見張っている兵士が時々、水を汲みに行く。この屋敷には深井戸があって、そこの井戸水は深いので温度が一定だ。その水で額に当てる布を濡らしたり、体を拭くのに使っている。

 この事態に、いつも村に常駐しているカートン家の医師が手伝いにやってきた。ベリー医師の指示を受けて薬を作ったりして一緒に仕事をしている。しばらくして、この部屋の辺りは大変な事態になった。

 大怪我をした親衛隊員達が運ばれてきたのだ。四人も部屋に入りきらないので、隣室に運ばれていく。

 セリナの村は平和だったのだと思い知らされた。こんなに大怪我をした人達を見たことがなかった。村の医師が親衛隊員達の怪我の治療に当たる。

 若様の容態が落ち着いている間にベリー医師はそっちも手伝う。うめき声が響き、セリナをかばってくれた兵士がどうなったのか、それが気になった。血の臭いや薬の臭いが辺りに充満している。

 最初は辛かった臭いも、いつの間にか分からなくなっていた。

 しばらくして、隊長のシークが顔をのぞかせた。そういえば、彼はセリナをかばって背中に何本も矢が刺さっていた。自分で抜いたのか今は一本も刺さっていない。よく見れば、マントに穴が空いていなかった。矢が刺さっていたのは夢だったのだろうか。一瞬、そんなことが頭をよぎった。本当は着替えたのだろう。

「若様の容態は?」

 フォーリに深刻な表情と苦り切った声で確認した。

「……この通りだ。」

 フォーリは固い声でそれだけ答える。

「それよりもお前、大丈夫なのか?」

 フォーリは少しだけシークを振り返って尋ねた。

「革の胴着を着ていたから大丈夫だ。」

 それを聞いてセリナは安心した。鎧のようなものを着ていたらしい。セリナのせいで大怪我をしたんじゃないかと心配だったのだ。

「だが…。」

 フォーリが何か言いかけたが、シークが軽く首を横に振り、フォーリも気づいて黙った。

「フォーリ、すまない。私の責任だ。殺したかったから私を殺せ。」

 セリナはぎょっとしてシークを見つめた。隣の兵士もぎょっとしているようで、息を呑んだのが分かった。

 それはフォーリも同じだったらしい。くっと息を吐いた後、勢いよく立ち上がった。そして、ギン、とシークをにらみつける。セリナは自分が睨まれたわけでもないのに、縮み上がった。フォーリの全身から怒りが溢れ出る。

「殺したかったら殺せだと…!? それが望みなら今日こそ殺してやる!」

 フォーリはシークの胸ぐらを激しくつかんだ。セリナは震えた。フォーリの激しい怒りに体が勝手に震える。ひっ、と声が漏れ出そうになって拳を口元に当てて堪えた。そのフォーリの怒りは、セリナにも向けられているように思ったのだ。

 だって、パンを勝手に作って持っていったのは、他ならぬセリナ自身だから。

 胸ぐらをつかまれているシークは静かにフォーリの行動を待っていた。そのフォーリは左手でシークの胸ぐらをつかんだまま、鉄扇を右手で抜いて振り上げる。

「……隊長。」

 セリナを見張っている兵士が、隣で本当に小声で呟いた。セリナにも聞こえるか聞こえないかの大きさ。その呟いた声は泣きそうになっている気がした。

 だが、フォーリが振り上げた手は、しばらくそのままだった。

「……く。」

 フォーリの双眸そうぼうが揺らいだように見えた。その直後、ものすごく悔しそうにシークの体を向こうに押しやった。

「……殺せない。お前を殺せるか…! くそ……! お前を殺せば敵が喜ぶだけだ…!」

 シークは目をつむってため息をついた。

「……そうか、分かった。また、後で来る。」

 そう言って、静かに退室した。隣の兵士が大きく息を吐いた。何もなくて安心したようだ。気がついたらセリナも息を止めていて、大きく息を吐いた。手が小刻みに震えて止まらない。

 本当だったら、今のフォーリの怒りはセリナに向けられているものだ。それを思えば、セリナの気持ちは湿原の泥沼のように、深く沈んでいくのだった。


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