第66話
「よし、よくやった。」
側に来たセリナにシークは言った。
「いいか、よく話を聞け。いいな? 私の言うことを聞くんだぞ? 分かったな?」
セリナがぎこちなく
「いいか、セリナ。一、二、三で向こうの放牧地の方に走るぞ。距離を稼げば、矢も飛んでこないはずだ。」
理屈ではそうだ。でも、今は立って走る方が恐い気がした。セリナがためらっていると、軽い足音がした。
シークの背中の向こうに誰かが跳んできた。フォーリだ、とすぐに分かった。右手に扇子を持っている。いつも、帯に挟んでいるものだ。その扇子で飛んでくる矢を次々に打ち落としていく。生まれて初めて見るニピの踊りに、セリナはみとれた。本当に踊りだ。優雅に確実に矢を払っていく。
やがて、矢は飛んでこなくなった。逆にフォーリが背中に背負っていた弓矢を取り、構えて矢を射る。二、三本、続けざまに射った。
「…逃したか。」
フォーリは呟き、すぐにこっちを向いた。
「若様は?」
「すまない。おそらく、毒を。」
「分かっている。置いてあったパンを調べた。ヴァドサ、お前達は大丈夫か?」
フォーリはシークの腕から若様を受け取り、軽々と抱き上げながら尋ねる。
「…フォーリ。」
シークが答える前に、若様が少しだけ目を覚ました。
「わ、若様…!」
セリナは思わず叫んで若様に近づこうとしたが、シークに遮られた。側に行きたいのにいけない。もどかしいが、仕方なくそこから若様を見つめる。
「若様、遅くなりました。」
「ふぉ…、フォーリ、セリナのせいじゃ……ない。セリナの、せいじゃない。」
「分かっています、若様。」
息も絶え絶えの若様の言葉にセリナは涙がこみ上げた。目を覚ましてすぐにセリナをかばってくれているのだ。しかも、セリナ自身が一番、知らずに毒物を入れてしまったかと不安なのに、若様はセリナを信じてくれている。
「……っ、…。」
ごめんなさい、若様。そう言いたいのに、
「やっと追いついた。」
ベリー医師だった。走ってきたらしい。少しの間、膝に手を置いて息を整えていたが、すぐに体勢を整え、まっすぐ立って周りを見回す。一瞬、シークの姿を見て黙ったベリー医師だったが、すぐに気を取り直して尋ねる。
「どんな処置を?」
若様の脈を測りながら確認した。
「吐かせて水を飲ませました。水には炭を入れました。」
シークが簡潔に答える。
「炭を?」
ベリー医師が聞き返す。
「はい。いけませんでしたか?」
「問題ない。吐かせて水を飲ませたのはいい。」
それを聞いてセリナは心底安堵した。思わずその場にしゃがみこむ。炭が良くなかったんじゃないかとか、いろいろ気をもんでいたのだ。
ベリー医師が何とか意識を保っている若様に解毒薬を飲ませる。飲むのがとても苦しそうだ。むせたり戻しかけたりしながら、若様はなんとか薬を飲む。薬を飲んでしまうと、若様はフォーリがいて安心したのか気を失った。
すると、複数の足音が道の向こう、さっき丸太が転がった山道の方からやってきた。
「隊長…! 隊長、若様はご無事で?」
何者かを追いかけていった副隊長のベイルと、他に三人が走ってきた。
「一体、これは何事ですか!?」
ベイルは質問しながら、意識のない若様がフォーリの腕に抱かれ、ベリー医師もいることに気がついた。シークに何か手で合図され、後ろの部下達にも何か伝えている。
「後で話を聞く。今は若様の治療が先だ。」
「分かっている。私は隊の怪我人を確認して連れ帰る。」
フォーリの言葉にシークは当然だと頷いた。
「セリナ、お前は一緒に来い。兵を一人、借りるぞ。」
シークが承諾して頷くと、兵士の一人が前に出た。
「セリナを背負え。走って戻る。」
フォーリの言葉にセリナは意味が分からず、ぽかんとしているとフォーリに
「セリナ、ピオンダの背中に乗れ。」
シークが意味を補足してくれて、ようやく理解したセリナは慌ててその兵士の背中に負ぶわれた。
「先に行く。」
フォーリは言うと走り出した。その兵士も一緒に走り出す。ベリー医師がシークに何か言って、後から追いかけてきた。
馬を使うことは許されていない。だから、お屋敷には馬が一頭もいない。自力で走るしかないのだ。それでも、セリナはついていけないので、最初から背負われることになったのかと納得した。
なんで、こんなことになったのだろう。セリナは訳が分からなかった。なんで、同じ材料から作ったのに、若様だけが毒に当たったのだろう。まるで、若様に渡すパンを知っていたかのようだ。セリナしか知らないはずなのに。
セリナは自分が絶体絶命の状態だと気がついた。セリナじゃないのに、犯人はセリナしかいない。恐かった。若様においしいって言って貰いたかっただけなのに。ただ、それだけだったのに。
なんで、こんなことになってしまったのだろう。
兵士の背中の上でセリナは泣いた。
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