第65話

 シークが若様を抱きかかえたまま歩き出そうとした時、兵士の一人がうめいた。セリナが思わず振り返ると、シークも気づいたらしく近寄った。

 名前は覚えていないが、その兵士は丸太の下敷きになっている。

「スーガ、よく聞け。」

 呼ばれた親衛隊員は、隊長の声に上を見上げた。

「スーガ、すまない。今は緊急事態だ。お前達を助けている時間がない。敵を呼び寄せる危険もあるが、緊急事態の笛を鳴らす。」

 すると、シークの部下の一人が笛を吹き始めた。

「私達は先に行く。若様に毒を盛られたようだ。屋敷に先に戻る。後で必ず来るから、それまで持ちこたえろ。分かったな?」

 隊長の指示に彼は頷いた。

「…はい。私達は大丈夫です。早く、若様を屋敷に。」

 明らかに誰が見ても大丈夫じゃないのに、その兵士はそう答えた。それなのに、シークはうなずいた。

「行くぞ。」

 そう言って、歩き始める。セリナも誰かに背中を押されて歩き始めた。でも、途中で立ち止まってしまう。

「あの、ほ…他の人は……?」

 セリナを助けてくれた兵士も起き上がる気配がない。体が勝手に震えている。

「今は、若様を守る事の方が先決だ。早くしないとお命が危ない。」

 シーク自身も少し血の気がない顔で説明した。若様の命が危ないと聞いて、セリナは吐き気がこみ上げてくる気がした。だが、今は吐いているひまはない。一刻も早く戻らないといけないのだ。それくらい、セリナも分かっている。だから、意地で吐き気を飲み込み、上がってきた胃液も一緒に飲み込んだ。

 シークがセリナの様子を確認してから、歩き出した。よく見れば、彼自身も足をひねっているようだ。少し引きずっている。だが、立ち止まって手当をするつもりはないようだ。

「…あし、だいじょうぶですか?」

 震える声で聞いた。他のことに気を紛らわせていないと、吐きそうになるのだ。

「大丈夫だ。セリナ、私の隣にいるように。急ぐぞ。気をつけろ。」

 シークはセリナを自分の左側を歩かせた。素直に言うことを聞いて、シークの左側を歩く。そんなに長い距離じゃないのに、普段なら長くかかっても百歩以内に抜けている山道をようやく抜けた。物凄く長い距離を歩いたような気がする。

 セリナはようやく山道が終わってほっとしていたが、シーク達はきびしい表情のままだった。周りを慎重に眺め回してからシークは指示を出す。

「気をつけろ。行くぞ。」

 一体、何に気をつけるのだろう。さっきのような大岩や丸太を転がすのは無理だろう。でも、シークは痛めている足で小走りで進む。セリナも後を追った。木陰も何もない草原の小道だ。ここは去年まで数年間放牧地として使っていたので、わざと放置して休ませている場所だ。来年また使う。

 何か、空を切る音がした。

 直後にキン、と金属音がして隊員の一人が剣を振った。地面に棒状の物が落ちて矢だと分かった。狩りに使うのではなく、人を殺す武器としての矢を見て息を呑む。

「セリナ!」

 シークに呼ばれ、呆然と突っ立っていたセリナは、隊員の誰かに襟首をつかまれてシークの隣に押しやられた。

「しゃがめ…!」

 急いでしゃがもうとしたが、ガクガクしてすぐに動けない。実はすぐに動いているつもりで、まともに動けていないことに気づいていなかった。

 次の瞬間、シークが若様を抱いたまま体当たりしてきて、セリナは突き飛ばされて地面に転がった。どうして突き飛ばされたのか、理解できなくて顔を上げると、何か棒状の物がシークの背に刺さっている。

 人に矢が刺さっている。

 その光景を見て、セリナは恐怖がわき上がってきて完全に足がすくんだ。もし、シークが体当たりしなかったら、自分に刺さっていたのだ。戦いのことなど分からないセリナにも分かる。

「隊長、大丈夫ですか!?」

「大丈夫だ!」

 剣で矢を打ち落としている部下達に、シークは淡々と答える。

「大丈夫か、セリナ。動けるか? しゃがんだまま、こっちに来られるか?」

 シークに尋ねられてセリナは頷いたが、恐くて今すぐに立って走って逃げたい衝動に駆られた。

「立つな。」

 静かに命じられて、セリナは立つのを堪えた。そうでなければ、衝動的に立っていただろう。実際に立っていれば、セリナは矢の的になり死んでいたはずだ。

「セリナ、大丈夫だ。言うことを聞けば助かる。いいな?」

 シークに繰り返し言われ、セリナはなんとかしゃがんだまま移動した。その間にも、矢が頭上を飛んでいったりした。

 隠れようにも隠れる所がない。「気をつけろ。」とシークが言っていた意味を、今なら理解できる。だが、気をつけようにも気をつけられない。

 シークは若様を抱えたまま、にじり寄ってきたセリナもかばい、自分が背中を向けて盾になった。

 このままでは、どっちみち殺される…!

 ぐったりした意識のない若様の顔が、目の前にあった。生まれて初めて死の恐怖を感じた。崖の時は若様が手を握っていてくれた。だから、高くて恐かったが、死、という恐怖はあまり感じなくてすんだ。

 でも、今は違う。

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