第24話

「何をするの?」

 若様の少し緊張した声に現実に引き戻される。

「だって、ブローチがまだ…! 高価な物なのに…!」

 セリナにはそんな物が落ちていくのを、みすみす黙って見過ごす訳にはいかなかった。気をつければ取れる。

「そんな物より、君の命の方が大切だよ。」

「大丈夫、まだ、落ちてないし、気をつけて引っ張り上げれば取れますって。」

 セリナは立ち上がり、まだ落ちきっていない外套マントに近寄った。思ったよりもさっき若様を引き上げたのが足に来ていたが、気をつければ大丈夫だ。

 セリナがマントに手を伸ばしかけた時、外套マントがすっと落ちていきそうになる。思わず足で踏んで押さえ、寸前で落ちそうになったブローチを救出した。心配そうに見つめている若様に手渡し、戻ろうとした瞬間、足がふらついて外套マントにつまずいた。

「うわ!」

 踏んでいた外套マントと一緒に滑って尻餅をつき、立ち上がる間もなく崖下に落ちかかり、さっき若様が掴まっていた木の枝に左腕をかけ、右足を崖に伸ばして突っ張り支えた。左足は空をかいているが、右腕は若様が捕まえてくれていた。

 右腕をつかまれた途端に、パッと頭に流れてくる、若様の過去。

(……ベリー先生が連れてきた人……。いい人かな。私をばかにしたりしないかな……。)

 フォーリの後ろに隠れて、そっと様子をうかがう。

『初めてお目にかかります、セルゲス公殿下。このたび、護衛の任を陛下より賜りました、国王軍親衛隊配属のヴァドサ・シークと申します。本日は隊長の私が先にご挨拶に参りました。』

 藍色の制服を着た黒髪の青年が片膝を地面に付ける敬礼で挨拶をしている。しばらく、じっと様子をうかがった。恐いから何も言えない。でも、彼はじっと待っている。馬鹿にした様子もなく静かに。

「…だから、言ったよね!」

 若様の声で我に返る。今までに聞いたことがない大きな声だ。

「君の命の方が大切だって…!」

 若様は少し怒っているのだ。セリナが若様の忠告を聞かずにブローチを拾った挙げ句に落ちそうになっているから。完全にセリナが悪かったので、とてもばつが悪いが、素直に認めるのも何か少ししゃくだった。

「ご、ごめんなさい、でも…! もったいないって思ったんだもん!」

 つい、本音が出る。

「もったいないって…!」

 若様はまだ少年だ。必死になって引っ張ってくれているが、セリナを引き上げるだけの力はない。さっき、セリナが若様を引き上げられたのは、半分は若様が自力で登ってくれたからだ。セリナにはそんな芸当はできない。

 つまり、助けが来なければ二人とも一緒に落ちてしまう。せっかく助かった命が無駄になってしまう。

「若様、手を放して下さい…! わたしは大丈夫。若様より体重は軽いと思うし……。」

 言いながらそうでもない可能性にセリナは気がついた。体格はあまり変わらないのだ。それよりも若干、セリナの方が背が高いような気がする。

(……若干じゃないわ、わたしの方が高かった。)

 セリナは自分で素直に認めた。おそらく、いや、きっと確実に体重も重いはずだ。

「手を放すなんて、そんなことできないよ…! それに、君の方が軽いとはいいきれないよ。君の方が背が高いもん。」

 若様は必死にセリナの腕を引っ張りながら、しかし、冷静に状況を分析して、セリナと同じ事を指摘した。

「助けが来るまで持たないかもしれない。彼らもここまで来るには時間がかかる。とにかく、左足も崖に着ければ、さっきの私みたいに登ってこれる。やってみて!」

 セリナは恐る恐る空をかいている左足を崖の斜面に着けようとしたが、左腕の位置を動かさなければならず、動くたびに枝がゆっさゆっさと揺れるので、とても恐くて移動できない。状況を見た若様がさらに恐ろしいことを言った。

「じゃあ……、左腕を思い切って離して。一気に引き上げるから。」

 そんなことをすれば、若様を引きずり下ろしてしまいそうで、恐ろしくて実行しようとも思えなかった。

「む、無理…! だって、一緒に落ちちゃうかもしれないのに!」

「大丈夫。君だってできたんだから、私だってできる。」

 なぜか、妙な確信を持って若様は言った。思わず聞き入ってしまっていたが、その時、風がびゅうっと、しかも一層長く吹きつけた。そのせいで枝がはげしく揺れる。寒さも感じるし、服がバタバタとはためいて内側にも風が入ってきた。若様は一人でここにぶら下がっていたのだ。しかも、あんな芸当をして登るとは、度胸もある。

 セリナにはとても無理だ。無理だし、とても恐い。ようやく風が収まって、ほっとしかけた時、さらに風が強まった。大きく枝が上下する。

「きゃあああ! こわいいい!」

 セリナは恐怖で悲鳴を上げた。一度、恐いと思うと湧き出るような恐怖に心が支配され始める。少しも動けそうにない。今まで震えていなかったのに、体が震え始めた。

「セリナ! セリナ!」

 セリナは思わず、はっとして若様を何とか見上げた。名前を初めて呼ばれた。いつも『君』だったから。

「大丈夫。大丈夫だよ。しっかりして。」

「若様……。」

 セリナは思わず半泣きになった。

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