第23話

 若様の汗ばんだ手を握った途端、ふっと意識が遠のきそうになる。頭がふらついて、一瞬、どこが地面なのか分からなくなりそうになった。

(足がついている方が地面よ!)

 心の中で自分に言い聞かせる。それと同時に若様の記憶が流れ込んできた。

『――上、――上、おねがいです。どうか、開けて下さい。おりこうにしていますから、おねがいです。だから、姉上に会わせて下さい。』

 かすみがかかっている景色。見上げる扉は大きくてどっしりとしていて、どう頑張っても子供の腕で開きそうもない。どんなに叩いても誰も答えてくれない。

 ――孤独。独りぼっち。たった一人、寂しい部屋の中にいる。膝を抱えて座り、顔を腕の中に埋める。すると、場面がくるりと変わる。

『――、――、……た、また、お前は泣いているのか。役立たずのお前に何ができるというのじゃ。』

 誰かに上から見下ろされている。その目は凍り付きそうなほど、冷たい。幸いなことは、全てに霞がかかっていて、はっきりと見えないことだ。きっと、はっきり見えたら心が壊れてしまう。

 だって、――だから。知っている人だから。あまりに恐くて、悲しくて、胸が痛くなる。

 今度はなぜかほっとした。若様の温かい記憶だと分かる。

『……ねえ、もう、こわいことはおきない?』

『若様。私は恐いことが起きないように、お守りするために参ったのです。』

『………ほんとう?』

『はい。』

『あのね、ほんとうはひとりぼっちがいやだったの……。』

「――ねえ、大丈夫?」

 セリナは、はっとした。若様の記憶の波に一瞬、まれそうになっていた。若様のおかげで助かった。

「…ごめんなさい。大丈夫です。」

「良かった。やっぱり、重かったからやめる?」

 若様はセリナが何も言わなかったのは、重かったからだと思ったらしい。

「いいえ、だめですよ。大丈夫ですから、心配しないで下さい。」

 セリナは急いで元気そうな口調で言って取り繕った。

「じゃあ、今度こそ行くよ。」

「はい。」

 セリナは若様の手を握り直した。結構、硬い手をしている。それは、セリナには意外だった。仕事も何もしていないだろうから、柔らかいのだとばかり思っていたのだ。

 若様がもう片方の手も放してセリナに捕まった。途端、ずっしりと彼の体重がセリナの両腕両肩にかかってくる。それでも、全体重ではなかった。彼は器用に足は崖にかけたまま、少しずつ登ってきている。しかし、徐々に引っ張られ、セリナは必死に足を踏ん張った。必ず有言実行しなければ、二人の命はない。

 母ジリナの教えは、言ったことは必ず実行しろ、である。有言実行だ。言ったことはやれ、できないことは口にするな、ということだ。言った以上、必ずやり遂げる。こんな時だったが、母の教えの意味が分かったような気がする。

 若様は言ったとおり、自分で足の方から先に崖に上がった。セリナは若様の腕をつかみながら、邪魔にならないように自分の体の位置を大きく動かした。なんとかい上がり、二人はほっとして大きく息を吐いた。全身に汗をびっしょりかいている。

「……ありがとう。助かったよ。」

 若様がかすかに震える声で礼を言った。

「……いいえ。半分は若様が自分で登ったじゃないですか。」

「…それでもだよ。ありがとう。」

 重ねて礼を言われて、セリナは面はゆくて何と返せばいいのか分からなかった。

「そうだ、若様、仰向けになれますか。ご自分でそのブローチを取るのはむずかしいと思いますので、わたしが取ります。」

「え? …うん、そうして貰えるとありがたいよ。実際の所、手がガクガクして、細かいことができそうにないんだ。」

 長時間ぶら下がっていたのだ。それもそうだろう。セリナは若様の横にしゃがみこむと、ブローチに手を伸ばした。山は日が落ちるのが早いので、少し薄暗くなり始めている。よく目を凝らしながら、今まで触ったことのない生地に触った。上質の毛織りの外套マントは想像以上に滑らかだ。

 だが、今はそんなことよりも若様の可愛らしい顔が間近にあって、セリナは意識しないようにするのに必死だった。お礼を言われるのに照れて、ブローチに話題を変えたが失敗だったかもしれないと少し後悔する。意識すれば顔が紅潮してしまう。そんな様子を見られたくないので、ブローチの留め金に気をつけながら慎重に外した。だが、マントを止めるブローチは二つだ。もう一つも慎重に取り外す。

「あ、取れました。」

「うん、ありがとう。」

 若様が言いながら上半身を起こしかけた。その途端、服と離れた木の枝に絡んだままの外套マントがずるり、と崖の下に引っ張られる。ブローチの一つはセリナの手の中にあるものの、先に外した方がまだ外套マントについたままだ。上等そうな宝石がはまっている、手の込んでそうな作りの物だ。思わず手を伸ばすが、その手を若様に押さえられた。

 思わずドキッとする。顔が赤く紅潮しそうになるのを我慢しようと試みた。それと同時に、若様の記憶が流れて込んで来た。

 誰かに抱えられて走っている。若様はそれが誰か知っている。フォーリだ。

『もう少し我慢して下さい、若様。もう少しで追っ手をきますから。』

『……うん。』

 ガサガサと落ち葉を踏み分けて、どこかに身を潜める。フォーリの心臓の音がドッドッドッ、と肩につけていたら聞こえてくる。

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