第18話

 ジリナに雷を落とされて、二人はほうほうの体で裏庭を後にした。

 二人がようやく裏庭を出ようとした時だった。思いがけない人物とばったり行き会った。

 若様である。なぜか一人でうろついている。フォーリは側にいない。もちろん、親衛隊が側にいるのだが、セリナと仲良くしたがっているのを分かっているため、少し控えめに離れて護衛していた。そのため、慌てているセリナとリカンナは気づかなかったのである。

 若様は二人の姿を見て、目を丸くした。二人はなんで、こんな姿の時に出会うのだろうと恥ずかしさで逃げ出したい気分だった。

「…二人とも、どうしたの、その格好。」

 若様はおどろいて心配そうに聞いてくる。

「ちょっと、洗濯中に桶やらたらいやらにつまずいて、転んじゃっただけです。」

「え、ええ、そうなんです。だから、全身びしょ濡れになっちゃって。それで、今日は早く帰らせて貰うことになりましたから。」

 セリナとリカンナは大急ぎで言い訳した。

「でも、転んだからって泥が頭にべっとりついたりしない。二人とも誰かに意地悪されたんでしょ。」

 若様の意外な鋭さに二人は言葉を失った。自分達と育ちが違っておっとりしているので、つい、そんな鋭さがあるとは思わず、高をくくっていた。

「で、でも、大丈夫ですから。悪さした方はちゃんと罰を受けましたし。」

 セリナが慌てて言いつくろい、リカンナも隣で力強く頷く。若様は慌てている二人におかまいなしに、近づいて来て目の前に立った。手巾はんかちを取り出して背伸びをし、セリナの髪についた泥を拭ってくれる。リカンナが隣で息を呑んでいるのが分かった。

 若様の気配と動き。彼が動くたびに微かに良い匂いがかおって、目の前で可愛らしい顔が少し上向きになって、じっとセリナの頭に視線を注いでいる。セリナは石にでもなったように、指一本も動かせなかった。

 幸いなことに、手巾ハンカチ越しのせいか、若様に触れられても何も感じず見えなかったので、ほっとした。そして、同時に何だか妙に若様のその優しさが胸にしみる。柄になく涙が出そうになってきて、セリナは必死に泣きそうになるのを堪えた。

「やっぱり、全部は拭えないや。洗わないといけないね。」

 若様は残念そうにため息をついた。それを見た途端、セリナは胸を何かに刺し貫かれたように痛んだと同時に、嬉しいような気持ちになった。思わず見とれそうになるのを必死に叱咤しったして、口を動かす。

「…あ、ありがとうございます。わたしは大丈夫ですから。お気持ちだけ。それ、洗っておきます。洗ってお返しします。」

 見とれないうちにセリナは手巾ハンカチを受け取ろうと手を伸ばしたが、若様はさっと手を後ろに回した。

「いいや、君の仕事を増やすつもりはないんだ。これくらい、大丈夫だよ。私が自分で洗うから。こう見えても、自分でいろいろできるんだよ。野宿もしたことあるし。小さな洞窟で雨をしのいだこともある。」

「へへ、驚いた? 二ヶ月くらいかな?」

 二ヶ月ってけっこう、長いじゃないとセリナは思う。

「だから、その後、猟師の山小屋を使わせて貰った時は、本当に天国みたいだと思ったよ。」

 それは、そうでしょうね、二ヶ月もそんな暮らしをしたのなら。田舎に住んでいるからこそ、野宿がどれほど大変か分かる。自分なら絶対にしたくないとセリナは思う。

 その時、リカンナがくしゃみをして若様は、はっとした。

「引き止めてごめん。早く帰って着替えないと風邪を引いてしまうね。それじゃ、気をつけてね。」

 若様は小さく手を振ってくれた。思わず手を振り返そうとした二人だったが、静かに親衛隊の藍色の制服の姿が近づいて来たので、慌てて手を引っ込めた。

 若様は促されて、そのまま屋敷に戻っていった。それを見送ってから、二人は大急ぎで家に帰った。

 家に帰るとダナとメーラが、セリナの姿を見て追求した。二人は自分達がセリナをいじめるのはいいが、シルネにいじめられるのは許さなかった。猛烈に仕返しをするのだ。それをリカンナも知っているので、シルネとエルナのしたことを詳しく告げる。

「あんた、やられっぱなしじゃなかったでしょうね?」

「もちろん、やり返したわよ。」

 セリナの言葉にダナは頷いた。

「ま、そうよね。あんたが黙ってやられている訳ないし。」

 シルネとエルナのおかげで、セリナはこの日の家事を免れた。その上、姉達は髪を洗うためのお湯も沸かしてくれた。そして、ロナを呼びつけ、セリナの髪を洗うのを手伝うように命じた。ロナも渋々、洗うのを手伝ってくれた。なんだかんだ言いながら家族である。自分を誰かが殺すんじゃないかとか、疑う必要はない。

 それが当たり前のことなのに、それが幸せなことなのだと思い知らされる気がした。当たり前に生きることを許されない。高貴な生まれなのに、それが叶わない。

「どうしたの、セリナ姉さん。」

「なんでもない。でも、わたし達、普通に生きられるから良かったわ。」

 セリナの答えにロナは首をかしげた。

 その時、ふと、この間死んだ料理係の女性の死に顔が頭によみがえった。思わずぞっとしてしまう。あの後、彼女は村の火葬場で仮葬され、村の共同墓地に埋葬されった。

(なんか、夢に出そう。)

 そう思って気がついた。若様はちゃんと寝られるのだろうか。夢にだって見るだろう。それに考えてみれば寝込みをおそうのが一番、手っ取り早いではないか。だから、泊まることが許されてなかったのか、とようやく気がついたセリナだった。

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