第二章 葉月瑠璃
Episode17-戌半刻-
(??.)
とあるマンションの一室の壁には、指先ほどの小さな穴が複数空いていたーー。
穴は部屋の玄関側から反対のベランダ側までまっすぐなにかが貫通したかのように、直線上に並んで空いている。
部屋は酷く、散々たる状態を呈していた。
テーブルは、まるで爆発でもしたかのように辺りへ木片となって散らばっており、箪笥は倒されテレビの画面は割られ、ソファーまで爆散したかのように綿をばら蒔いていた。
フローリングの床には、糖尿病の対症療法として扱われている『インスリン用』と書かれた使い捨ての注射器が、外装に入ったままの状態で100本くらい散乱している。ほかにも、透明な結晶が大量に入っている袋など、通常ではない物も多々見受けられる。
単なる散らかっている部屋というわけではないことなど、誰がみても一目瞭然だろう。
割れた窓の外、上空の夜闇に浮かぶ月の明かりが、ガラスを介さず室内を照らしている。
吹き抜けとなった室内に、一陣の強い風が通りすぎて行く。
もはや、部屋に備え付けられている冷房は意味を為していない。
唯一無事と断言できる物といえば、たまたま被害に遭わなかった壁に掛かる時計くらいなものである。
その時計の短針は、真っ直ぐ左に伸びていた。
室内にいるのは、五人の男女の姿が見られた。
窓側には、ふわふわの長い栗色の髪の三十歳前の綺麗な女性がひとり倒れている。蹲るように丸まりながら横腹を押さえており、そこからの出血で血溜まりをつくっている。虫の息で命の危機に瀕しているのが目にとれた。
その女性の側に、もうひとり、癖毛が無数に跳ね上がっている髪をした二十歳ほどの女性が屈んでいた。彼女は自分を睨む三人の男女の様子を窺いながらも、倒れている仲間の様子を見守っている。
玄関側には、三人が横に並んで二人を見下ろしていた。
中心に立つのは、青い瞳の女性。一筋の風が吹き抜けていくのに呼応するようブロンドの長髪が強く靡いている。
その右隣には、ギラギラと危ない目の痩せこけた男性が、左隣にはドレスを着ている少女がそれぞれ佇んでいる。
三人は、いまにも窓際にいる二人の女性に殴りかかりそうな雰囲気を漂わせていた。
「白(しろ)の居場所をとっとと吐きやがれ。まさか殺しちまったわけじゃねーよな?」怪しい目つきの男性は言いながら指の骨を鳴らす。「もしそうなら、テメーらぶち殺すぞ?」
「わたくしはさっさと処分してしまったほうがいいとおもいますわ。べつに、ほかの方から聞けばよろしいのではなくって?」
男に対してドレスの少女は意見する。
その言葉に対し、中心のリーダーらしき女性は反応した。
「リリィの言うとおりかもしれない。裏切りには相応の罰を受けてもらうのは当然だけど、白についてはほかの奴らに聞けばいいだけ。アイス、それでいい?」
真ん中に立つ女性はドレスの少女ーーリリィの意見に賛成し、痩せこけた男性ーーアイスに問う。
「は? もしそいつらが死んでたらどうすんだ。コイツら毎度あぶねーことしてる奴らだぞ、いつ死んじまっててもおかしくねぇ。そうなって白が見つからなかったら、なんのためにオマエらの仲間になったんだって話になんだろ。俺はあいつを愛してんだ、命をかけるくらいにはな? 見捨てるなら俺がテメーらをぶち殺すぞ。リリィ、テメェは黙ってろ」
「あらあら野蛮ですこと。薬物中毒者というのは本当に危険ですわね? 頭が腐っている自覚はありまして? 実際にやりあえば亡くなるのはアイスですのに、威勢だけは達者ですわね、相変わらず困った人。口だけでしか威張れないことについて、情けないと思わないのかしら。それについて、どうお考えになられているのか、聞いてみたいものですわね?」
「んだと、テメェ!」
「ケンカしない。二人ともやめなさい」
三人は仲間うちで言い争いをはじめる。
癖毛頭の少女は、その隙をついて隣の壁の斜め上方に目を向けた。そのまま素早く、なおかつ、誰にも聞こえないくらい小さな声量でなにかを言った。
やがて、話合いにらちが明かず、しびれを切らしたアイスは舞香に寄り添う女性へと近づいた。
そして、無造作に頭を鷲掴みにすると、それをそのままフローリングに思い切り叩きつけた。髪を引き上げ再び叩きつける。それを五回ほど繰り返したところで、ようやく男は手を離す。
「はよ言えや嵐山(あらしやま)沙鳥(さとり)。テメーもそいつーー青海舞香(あおみまいか)を助けに行ったんだろ? そんとき白を負傷させて拐って隠したか殺ったのは誰だ? おら吐けよ。吐かねぇなら吐くまで痛め付けるぞ」
「……あはッ」
男の脅しと暴力、命令に対して、癖毛の女性ーー嵐山沙鳥は心底下らないと言いたいかのように、乾いた笑みを浮かべるだけだ。
「ああ? テメェ、なに笑ってやがんだ?」
「ふふ! あっはははあはははははははッこれが、これが笑わずにいられますか!? あははは! 本当にバカすぎて怒りのあまり笑わずにはいられははははっ! 勝手に、思い込みっで、いきなり襲撃だなんて、これが、これは笑わずにいられませふふふあっははははははバカですよあなた方バカですあっはははははええ大バカはははは、ははは、はは、はぁ……」
いきなり狂ったかのように笑い出す沙鳥に対し、アイスは思わずぎょっとする。
「ああ、こわれてしまいましたわ。はやく処分したほうが、まだ人道に反しませんわよ?」
「ったく、しゃあねぇな、コイツはやっち」
「主文ーー」
アイスが言い終えるまえに、沙鳥は淡々とした口調で言葉を挟む。
「は? 狂ってんなら黙ってやがれ」
彼女は気にせずそのままつづけた。
「ーー被告人を死刑に処す。仲間も同列に扱う」
「はい? 裁判の幻覚でもご覧になっていまし……て!?」
リリィは沙鳥の顔を見て驚く。
沙鳥のかわいい感じの顔は、口角がつり上がり、まるで口裂け女が嗤ったようなものに変貌していたからだ。そう錯覚してしまうほど、あまりにも恐ろしい、不気味な、笑み。
「……こ、このひと、おかしいですわ。もう処分してもよろしくって? 五人もこの方には仲間がいるんですもの、誰かしら知っていますわ」
「壊れたにしては妙な気がする。なにか説明するような言い方をしているような」
リリィとマリアが会話する間も、沙鳥は気にせず説明を続けた。
「
沙鳥は、これから一方的に加虐の限りを尽くせると確信したかのような、優越感と恍惚の混じり合った表情をしながら、ようやく述べ終えた。
女性の皮を被った怪物が擬態をやめたーーそう勘違いしてしまうほど、濃縮した狂気を内包した顔で、ただただ嗤う。
「ミリアム、じゃなくて、マリアが正しい。協力関係であったこちらの名前は本名では呼ばない掟がある。それすらも覚えていない、いや、忘れた? 裏切る奴らに鉄槌をーー」
マリアは突然すぎる沙鳥の変化に驚きながらも、自身の腰から少し離れた高さで自分を中心にして回る六色に輝く球体を出現させた。
「裏切り? それはあなた方が今まさに為さっていることでしょう? まあ、もはや手遅れですけど。わたしの愛するひとに対しての加害行為を働いたあなた方は、許すことはありません。死刑はすぐに執行いたします、明日にでも……。ですからーー」
その時、玄関側から部屋の中へ風と共に誰かが侵入してきた。
「テメェ!?」
アイスは声を発してしまう。
マリアもリリィも同様に驚愕し、思わず身構える。
「やーっちゃった、やっちゃった。バカだな~、マリアンヌがやったの? リリィちゃん? そこのキモいやつ? とりあえずさ」緑髪の少女は舞香たちまで飛んで近寄る。「一番怖いひと怒らせちゃったじゃん、もうどうなっても知らないからね。二人には夜のお相手をぜひにと思ってたのに叶わなくなっちゃった」
「……瑠奈早く」
風のように室内に入り込んできた奇抜の髪を肩まで伸ばしている少女。彼女が喋るのを沙鳥は咎める。
「わー起きてきたことに感謝しようよ、わたしいなきゃ死んでるよ、ね、ね? もう行くからさー」
少女ーー微風瑠奈は青海舞香と嵐山沙鳥の腕をそそくさと掴んだ。
「テメェいやがったのか! ルーナの話とちげぇぞ!」
「ルーナ?」
少女はピクリと反応するが、しかし、とにかく行動しようと考え窓の外へ向く。
「おい、リリィ!」
「逃がしませんわ!」
アイスに言われリリィはすぐさま緑髪の少女へ指を向ける。すると、指先からは紅い閃光が真っ直ぐ放たれた。
少女はそれをギリギリ避けて飛び立つ。
リリィは再び放つが……。
「ーーお楽しみに」
沙鳥がそう呟いたのを最後に窓の外へと消えてしまい、閃光は無を穿ち何にも当たらない。光はしばらく進むと消滅した。
「くそ、あいつはいないんじゃなかったのかよ!?」
「ルーナが間違っていただけ。もらった情報は辻褄が合うし確かなものだから、故意に嘘をついたわけじゃないと予測できる。30人以上いるわたしたちに勝つことなんて普通はできない。あいつら七人のうち六人には不可能。たとえば、微風(そよかぜ)瑠奈(るな)は警戒対象だけど、どうにかなる」
マリアは敵対者を再確認するかのように、次々と名前を挙げて確認していく。
「厄介だった青海舞香は先手で負傷させた。運が良ければ死んでいる。嵐山沙鳥は貧弱、殴れば終わる。二(したなが) 翠月(すいげつ)も現世朱音(げんせあかね)も戦闘には適していない能力だと予想できる。ゆきは腕力が少しあるだけで問題はない。六人は、殺(と)れる」
「ああ、確実に殺れるな。だがよ、問題は」
「そう、問題は……あいつらの仲間の怪物」
マリアはいったん口を閉じて、アイスとリリィを見る。
少し間をおき、アイスとリリィは順番に口を開いた。
「正直な話、アイツに勝てるヤツなんて地球上どこを探そうが見つからねぇー。青海舞香も微風瑠奈も厄介なのはたしかだ。だがよ、あのガキは厄介どころの話じゃねぇ。不意討ちも策も数も異能力すら嘲笑うレベルだ。あのガキに勝つ方法考えるなんて時間の無駄でしかねぇ」
「わたくしは……あ、あの御方を、いっそ仲間に引き入れてみてはいかがかしら?」
「無理、あいつは異能力者じゃない。わたしたちの仲間になる理由がない。たったひとりで、一番最初に特殊指定異能力犯罪組織になったgirls children trafficking organizationを無傷で壊滅させた。次元が違う」
「う……なら、どうする気ですの?」
リリィに問われたマリアは答えを用意していたのか即答した。
「青海舞香を助けたあと、ルーナによるとあれは北陸に向かったらしい。あの吸血鬼が帰ってくるまでがタイムリミット。始めるとしよう」
☆☆☆☆☆
「いやっ! やめて!」
テレビだけが唯一の灯りになっている暗い一室で、やや太り気味で顔も体臭も悪い19歳の男が、美少女を押し倒していた。
少女は、まるでアニメの中から出てきたような夢のような姿をしている。艶やかな長い青髪で、15、6歳ほどで、幼気(いたいけ)な雰囲気を持っている。彼女はいま、必死に抵抗しようとして、五割の力で抗っていた。
室内には、その二人しかいない。
窓の向こうは暗く染まっており、電気も点けていない。窓の外からは微かに波の音が聞こえる。
テレビのニュース番組には、九時を知らせる文字が書かれていた。
「ごめん、でも耐えられない! ごめん! 無理だ我慢できない!」
醜い顔をした男は、鼻息を荒くしながら床に敷いてある布団に少女を倒したまま、慌てて自身の下着を脱ぎ捨てる。
「どうして酷いことするの!? 酷い! 最低! 最悪! キモい! 臭い! 死ね! 死んでよ! あんたなんか、大嫌い!」
少女は男に罵声を浴びせるが、男を退けようとする腕力は、違和感を覚えるほどに弱々しい。
「我慢できないんだッ、なんてかわいいんだ! どうして触れるんだ!?」
男は少女のスカートを捲り上げ下着を無理やり脱ぎ取ってしまう。
下半身だけは立派になっている男は、少女の太ももを無理やり左右に広げのしかかる。
「い、いやぁああああッ」
部屋の中、悲痛な叫声が木霊するーー。
暗い部屋のなか、二人の男女は横たわっていた。
男は布団に裸のまま眠っている。
少女は涙を流し「死ね」や「死んでよ」と呟きながら、男のスマートフォンを取り出し指紋を認証させて勝手にロックを解除し
た。
「どうして……だれか、どうにかしてよ……」
少女は呟きつつどこかへ電話をかけた。
「異能力者になりました。はい、えっとーー」
説明を終え、少女は通話を切った。
「殺してやる。必ず、ぜったい、なにがあっても許さない。臭いし、気持ち悪いし、ブサイクだし、デブだし、親の脛かじりだし……そんなやつに、純潔を汚された。平然な顔をしながら、中に出してきた。ありえない」少女は誰かに言うでもなくつづけた。「神様。どうして、こうも悪い要素ばかり詰め込んだの? ああ……とにかく、明日になれば、きっとなんとかなる……」
少女は言い終えると、泣きながら男の寝ている布団に潜り込む。男の顔を間近でしばらく見たあと、愛しい対象を見るような瞳をさせながら、自身の唇を男の唇に押し当てた。
「早く、死んでよ……強姦魔……ロリコン……臭い……死ね……死んじゃえッ…………どうすれば……いいの……なんのために……わたしは……」
少女は男の胸に顔を埋め抱きつくように腕と足を回すと、深い眠りに落ちた。
波の音は、相変わらず微かに聞こえている。
☆☆☆☆☆
どこにでもいそうな平凡的な容姿をしている二十歳の青年は、ギャルのように派手なメイクを施している同年ほどの女性と、何処かの路地裏で対面していた。
月明かりに照らされてはいるものの、灯りが乏しく頼りならない。そこで二人はやりとりを交わしていた。
「なんなのこれー? 沙鳥っちや瑠奈っちに頼めばいいじゃん、どーしてあたしに頼んだのヤバくね? なんなのこれ、シャブ? コカ? ケタ? まさかヘロ?」彼女は続けた。「てか静夜(せいや)薬やってるん? ショック~」
彼女は謎の粉が入ったアトマイザーを青年ーー静夜に向けて差し出した。
「二(したなが)は知らないか。ヘロインの1万倍の効果を有している薬、死のオピオイドといえばわかるか? 仮にもこれを調達したのは青海だ。そしてそれを預かっていたのは微風か嵐山だろ。おまえの仲間の扱うシノギに少しは関係するだろ、薬物を売りさばいているんだからな」
女性ーー二(したなが)は大袈裟に首を傾げ、暗に知らないと伝える。
「わからないっつーの。だいたい舞香さんはシャブ中で頭くるくるパーだからあまり深く関わりたくないし、瑠奈っちは産まれる性別間違えたせいで同性に年中欲情してるクソレズじゃん? だから女売るこっちの商売嫌ってるし」二は続けた。「沙鳥っちは幼い頃に売られてから毎日輪姦(まわ)され犯され散々な被害に遭ってるから男自体敵視してる。だから、仕事の話は雑談しない、報告しかしない系」
「自分で調べる手段はないのか」
男はどこでも買えるような小さいアトマイザーを受け取ると、それを内ポケットに忍ばせる。
「瑠奈っちなんて仕事と私事の区別付けてなくてチョー困るんですけど。『私に初めてを捧げるかもしれない女の子たちをこれ以上毒牙にかけないでくれるかな?』なんて真顔で言われたんですけど? もうほかの同性愛者をバカにしてるレベル、愛がない、性欲だけにしか見えないクソレズ、ヤバくね?」
「ああ、まあ、そうかもな」
もはや話が変わっていた。
静夜は適当に相づちをしながら時計を見る。
ーー九時十分。
静夜はもう行くか、と考える。
「自称貧乳らしいけど無乳どころか単なる壁でしたー。Bはあるとか寝言ほざいてたから、瑠奈っちはAAにすらなれない
「……」静夜は腕時計を見続けながら、あえて口にした。「もう9時10分になるな……悪いが俺は帰る」
静夜は話題が脱線していることに対してはなにも言わず、来た方向に振り返る。
「一応病院で確認してきた? 場所忘れてない、大丈夫?」
「いや、気にはならない。生きていても、死んでいても、やることはただひとつ。とりあえず、白(しろ)を研究所から出してくれたというのは事実だろ?」
「瑠奈っちがえぐりつつ救い出したって。リベリオンズに報告よろ。すみちゃんが殺ってたら肉片で返してくるとおもうけど」
「どちらにせよ、やることは変わらない。あの危険人物の隣に立たせることも、墓前に行かせることも、両親に申し訳ない」
「それって誰?」
静夜の言う対象が誰なのか疑問に思った二は最後に聞いた。
「……またな」
「静夜コワー、ばいなら~」
二は教えてくれないとわかるとそうそうに諦めて、それだけ言うと携帯電話を取り出した。
プリペイド式のガラケーに、ショートメッセージが届いたからだ。
「なになに?」
画面に書かれていたのは、注意と命令であった。
『反保団ノ襲撃、帰宅スルナ。仕事ヲ切リ上ゲ各自ニ順次指令ヲ送ル暫シ常ニ移動シ待機サレタシーー沙鳥』
☆☆☆☆☆
月に照らされているビルの屋上には、二人の男女がいた。
男性は笑みを浮かべ、女性はナイフ片手に男を睨んでいる。
「ああ、本当に飛び降りてしまった。見てごらん、ザクロが潰れて散らばってしまったみたいだ。いや、トマトかな? もう少しスマートに死んでほしいところだったが、まあ、彼女は彼女なりに考えたのだろう」
30歳前後に見える男は、両手を左右に広げて頭を振るう。
スーツと顎髭が似合う小綺麗でいて紳士然とした出で立ちをしている。
屋上の端からは、性別がわからなくなるくらい血まみれになった人が大通りで潰れているのが見える。
通行人がひとりふたりと集まり騒ぎになっていく。
少し離れた位置の植木で、たまたま跳び跳ねてきた血液が口に入った第一発見者が、嘔吐している。
「やれやれ、僕はまた善行を働いてしまった。しかし、あれだね? 徳を積むのものはいいことだね、本当に。きみにはわかるかな?」
男は相反する相手に顔を向けながら問いかけた。
「ふざけないで! なにが善よ! なにが徳よ!? あんたは、あんたはいつもどおりひとの命を弄んでいるだけじゃない! その子は、死の直前、あんなに……あんなにも怯えた顔を!」
ナイフを握る女性は、こうなってしまうまえを思い出しながら男に叫んだ。
「その子? ああ、あそこを汚してるあれのこと? あれは自らああなりたいと言っていたじゃないか。きみは、聞いていなかったのかもしれないけどね。まあ、あれがああなる決意を固めるために、いろいろとしたのは、僕なんだけどさ?」
男は『そうだ』と思い出したとばかりにこう口にした。
「あれの親も入れれば三回じゃないか、訂正するよ。今月これで三回も善行をしていたよ。あれをああするためのついでだったから、ついつい忘れていた」
男はわざとらしい素振りで宣う。
「そうやって、罪のない私の両親も殺したんでしょ!? でも、残念だけど私は死なない! あんたを倒すまで! 刺し違えてでも殺してやる!」
「やればいいじゃないか。きみには無理なのかな?」
「こいつっ!」
女性はナイフを強く握りしめると、男に向かって走る。
「やれやれ、きみというやつは」
「死ねぇええええッ!!」
襲いかかってくる女の手元を、男は容赦なく蹴る。
「っ!?」
女は痛みに顔を歪ませ、失敗したと直感した。
ナイフが手元から抜けてしまい、真横に転がり落ちてしまったからだ。
手首を男に捕まれると、動けないように引き寄せられてしまう。
「僕は僕の考える善をたしかにしているつもりなんだけど、きみは善ではないと言うね? その善って、いったいどこの誰が決めたんだい?」
男は不思議そうな顔で女に尋ねた。女は男から離れようとしても、腕力に勝てず離れられない。
「そ、そんなこと、決まってるじゃない! 他人を蹴落とす、害す、殺す、苦しめる、法を犯す、それが悪よ! 救う、助ける、手を貸す、治す、それが善ーー」
「偽善でしかないよ、それらは。相手が本心から死にたくて自殺するのに、それを阻止したとしよう。後遺症で動けないながらもギリギリ命だけは助かってしまったーー果たして本人は植物状態でどう考えるのだろうか?」
「バカじゃない!? ひとは生まれながらに善よ、人助けは気持ちいいでしょ!? 助かったら後遺症が残ろうとみんないずれ死ななくてよかったと思うはずよ!」
男は『やれやれ』と言うと、見下すような目を女に向ける。
「性善説かな? 人の性は悪なり、その善なるものは偽なり、とかいうやつだっけ?」
「違う! それは性悪説! あれの意味だって性善説の正反対ってわけじゃないんだから!」
「悪いね、学がなくて。でも、きみはいろいろ例をあげたけど、たとえば法律ーー少しまえまで戦争での殺人は罪ではなかっただろう? 陰毛がない幼女は隠されず雑誌に載っていたし、覚醒剤は戦争につかわれていた。国によっても異なる。大麻が合法の国や、パチンコが違法の国、さまざまだ。そんな指標で善悪を決めるの?」
女は少しだけ言葉に詰まるが、決して臆さない。
「自分が他人にやられたら嫌なことが悪、うれしいことが善よ。あなたは悪でしかない!」
「なるほど、それなら僕もきみも善人だ。なぜならーー」
男は女の手を引く。女が抵抗した段階で、いきなりその手を放して押す。
離れようと腕を引いていた女は勢いで倒れてしまう。
それを見下ろしながら、男はつづける。
「ーー僕は、『いずれ死ななくよかった』などと考えない。常日頃『ああ、殺されたいなぁ、僕を殺してみてほしいなぁ』と、空想しているんだよ、惜しかったね? きみ、ナイフの扱い素人だろう、直したほうがいい」
男はナイフを強く蹴り飛ばし、屋上の塀まで滑らせると、そのまま出口に向かって歩きだした。
「待ちなさい! 訂正する、相手がしてほしいことが善でーー」
「薬中に薬物を渡すのが善なのかい? なるほど、きみは早速法律を犯すんだね? その頭の軽さは素晴らしい」
「なっ!? それは違う、だって、いや、違法にならない範囲で……」
女は言い淀んでしまう。
やがて、屁理屈ばかり返す男だと決めつけた。あまのじゃくにはなにを言っても無駄でしかないと考えを改めたのだ。
「そうそう、きみ」男は立ち止まり振り返る。「刺すのを躊躇っているようでは、僕を殺すことなんて夢のまた夢だよ?」
男は厭らしい笑みで女に告げる。
ひとを殺すことに対して無意識ながらも逡巡していたと、両親の仇に対しても自分は迷ってしまうのかと、女は愕然としてしまう。
「さようなら。きみが自殺する日が来たら、ぜひ呼んでほしい。どんな顔で死ぬのか楽しみだ、待ち望んでいるよ」
そのまま男が立ち去るのを、女は恨む相手でさえ傷つけられない自身の弱さに呆然としてしまい、ただただ見送ることしかできなかった。
☆☆☆☆☆
夜の騒がしい繁華街のなか、二人の女性が目的地に向かって歩いていた。
飲食店の匂いが混ざった生ぬるい空気が運ばれてくる。
「うーん、いい匂い。こっちのほうが衣食住すべて勝ってる気がするなぁ……」
長い綺麗な緑髪の16歳ほどの見た目をしている少女は、やたらと集まる視線を気にせず、誰に言うでもなくそう呟く。
注目される原因は髪の色だけではない。むしろ、可愛らしい顔立ちに溶け込むように似合っている。少女は可憐な容姿と月のような美しさを兼ね備えており、さらに澄んだ風のような幻想的な雰囲気を漂わせていた。
あまりに現実離れした容姿のせいで少女の周りだけ現実感がなくなるほど。視線を集めるなというのが無理な話である。
「ははは、ごめん……その、とりあえず、アウラに会ったあとでなにか食べようか? ルーナを探すのは明日にしよう?」
隣を歩くセミロングの女性は、少女に対してなにかを謝罪した。
「ルーナはここにいるんだけどなぁ、アウラもここにいるのに、おっかしいなぁ……」
「いや、きみではないほうの……その、なんて呼べばいい?」
「わたしのこと? それとも、あの子たち? とりあえず、わたしのことはルーナエアウラって呼んでほしい。面倒くさい名前だから、フルネーム」少女ーールーナエアウラはつづけた。「ルーナ=エ・アウラ・アリシュエール∴シルフだもん」
「……ごめんよ」
なぜだか謝る女性をさして気にせず少女は背伸びする。
「まっ、もうひとりの回収はわたしがやるから、朱音(あかね)はおとなしく待っていていいよ。そのかわり、うーん、で、デートでも、してもらおうかな……?」
「ええと……その、そっちの気は……でも、わかった。責任取るよ、なんでもする」
ルーナエアウラは、いきなり朱音の手を握った。
「……やっぱり、なんだか恥ずかしいんだね、こういうことって。すごい、ドキドキする」
「え……? これで、ドキドキ?」
「朱音はしないの? わたし、けっこう緊張してるかも……こういうの、初めてだし。だから」ルーナエアウラは手を離した。「また、解決したあと、手を繋いでくれないかな?」
朱音は不思議なものでも見たかのような顔をした。
「自分はてっきり……」
「てっきり?」
「いや、いい。キスでもいいよ?」
「キス!? あああ朱音って、そんなに大胆だったの!? ……でも、わたしのこと好きじゃないんだよね? 同性は、ダメ、なんだよね……?」
ルーナエアウラは頬を染めながら朱音に小さな声で問う。
「……きみは、アウラを回収しないほうがいいと思う。不覚にも」
かわいい、と思ってしまう朱音であった。
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