2話 決断と別れ

 検問所で行われたライの荷物検査から解放されたファウストは、王都の貴族達から盗んだ装飾品を換金し、急いで妹のリュドミラが待つ家へと向かった。

 その道中、何とも言えない違和感が走った。

 言葉で説明する事が難しい程、些細な違和感。

 この街で暮らしてきて培った、危機を察知する直感が反応した。

 この一瞬の間に感じた違和感の正体がなにか、ファウストは周囲に意識を向け耳を研ぎ澄ます。

 いつも誰かしらの怒鳴り声や悲鳴、女達の身を売る甘い声が聞こえてくるのだが、今日はやけに静かだった。

 その静けさの中に紛れ、強者が獲物を狙う視線がチクチクとファウストの体を刺す。

 この街で誰かに狙われるのは日常茶飯事だが、今回は何かが違う。

 まるで大きな網にかかった魚のように、周りを囲まれジリジリと迫られているような感覚。

「クソっ……」

 ヒソヒソと聞こえてくる会話の中から、この状況で一番聞きたくない男の名前が耳に入った瞬間、ファウストの顔色は青ざめ違和感が確信へと変わり、家へと向かう足が加速する。

 人の波をかき分けようやく家の前に着くと、中からドタバタと複数の足音が聞こえてきた。

「リュドミラ!」

 薄っぺらい木の板でできた扉を開くと、妹のリュドミラが呆然と立ち尽くしていた。

「おい、リュドミラ。どうしたんだよ……」

 リュドミラに何度か声をかけるも反応は返ってこない。

 痺れを切らせたファウストは、強引にリュドミラを引き寄せ振り向かせる。

 ようやくファウストの存在に気づいたリュドミラは、カタカタと華奢な身体を震わせ始めた。

「兄さん……、どうしよう……」

 リュドミラの血の気が引いた顔と、大きな瞳に溜め込んだ涙が事の重大さを物語るには充分過ぎるほどだった。

 それもそのはず、リュドミラは両手で血に塗られたナイフを握っており、足下には腹から血を流した男が虫の息で倒れ込んでいた。

「ど、どうしよう、私っ」

 何が起きていたのかそんな事、一目瞭然だった。

「私っ、そんなっ……」

 ファウストは恐怖で強張ったリュドミラの手からナイフを離し、呼吸を荒くし取り乱すリュドミラを、優しく包み込むように抱きしめた。

「ゆっくり呼吸をしろ。もう大丈夫だ」

 リュドミラの顔には複数回殴られたような青痣や、強くぶつけて出来た切傷等などがあり、額からは血が流れ落ちていた。

「怖かったよな。一人にして悪かった」

「うっ、うぅっ……怖かったよ、兄さん……」

 兄の腕に包まれたリュドミラは、声を押し殺し縋りつくように泣いた。

 本当は大きな声を出して怖かったと、リュドミラは感情に任せて泣き叫びたいはずだろうが、周りに異変を気付かせないように自分の感情を押し殺し静かに泣いている。

 生活の為とは言え、こんな街に妹を一人残すべきではなかったとファウストは自分自身を責め、同時に床に転がっている男に対して強い怒りを向けた。

 床に転がっているこの男は、貧民街で出回っているファウストのふざけた噂を鵜呑みにし、何かと理由を付けてファウストの弱みを握ろうとしてくる男だった。

「お前がリュドミラを傷つけたのか?」

「っ、ハハッ…………言ったはずだぜ。いつか後悔させてやるってな」

 男は血を吐きながらもファウストを嘲笑う。

「ぶっ殺してやる……」

「あー、ハハッ。本当その表情堪らねぇな」

 男は蹌きながらも壁を伝いなんとか立ち上がろうとするが、ファウストに容赦なく顔を蹴り上げられ、再び床に倒れ込んだ。

 ファウストは倒れた男に馬乗りになり、何度も顔面を殴り続ける。

 狭い部屋に肉と骨を砕く鈍い音が響き、男の顔から血が飛び散る。

 ゴッ――。

 バコッ――。

 バキッ――。

「も、もうやめっ……、俺がっ悪かったっ……」

 男から反応が無くなってもファウストは殴り続け、次第にファウストの拳の皮膚が捲れていき男とファウストの血が混ざり合う。

「に、兄さん! これ以上は死んじゃうよ!」

 必死に止めようとするリュドミラの声はファウストに届く事なく、狂気に満ちた時間が続く。

「ハーッ、ハーッ、ハーッ――――」

 呼吸を乱したままのファウストは、王都から持ち帰った鞄からナイフを取り出し、急所を確認するかのようにゆっくりと男の心臓部分にナイフを突き刺した。

「ゔっ……ぐはっ、やめ、やめろっ!」

 男は短い呻き声を上げ、自身の身体の中をゆっくりとこじ開けてくるナイフをどうにかしようと藻掻くも、口から大量の血を吐き出しビクリと大きく身体を震わせるとそれ以降何の反応も無く静かになった。

「ハッ、ハッ、ハッ――」

「に、兄さん…………」

 ファウストの眼下には、目を見開き口から血を垂れ流して息絶えている男の死体。

 男の死体から溢れる血で、足元が生温かく湿り始めてくるのを、ファウストは静かに感じていた。

 リュドミラの声がファウストに届き、ようやく冷静さを取り戻したファウストは、自分がしてしまった事の重大さに気づき表情が張り詰める。

「クソッ!」

 ファウストはこの家の中で起きた事を誰にも見られないように戸を全て閉め、外の様子はどうなっているのか聞き耳を立てる。

 すると遠くからカシャンカシャンと金属同士がぶつかり合う音と、複数人の野太い男の声が聞こえてきた。

 この金属音と野太い声の正体を嫌という程知っているファウストとリュドミラは、存在感を消すように息を殺した。

「王都の騎士達が見廻りに……」

 スラム街は王都が定めた保護対象地区から除外されているが時折、王都の騎士達がこの街に来ては各家々を見廻り日々の溜まった鬱憤を晴らしに、怪しいと思った人間を遊び半分で痛めつける。

 数回鞭で打たれる程度で済むのならまだいい方だが、殺しの現場を見られたらとなると、痛めつけられる程度では済まされないという事は分かりきっていた。

「に、兄さん……、私が自首をすれば」

「そんなの駄目に決まってんだろ! 」

 リュドミラの提案を、間髪入れずにファウストは強く否定する。

 ファウストが感情を剥き出しにし、リュドミラの意見に強く反対したのは初めての事だった。

「分かってるだろ、アイツらにどんな目に遭わせられるか」

 無法地帯のこの街では毎日誰かが殺されているが、それが大きな騒ぎにならないのは目撃者がいないからだ。

 何も知られなければ、気づかせなければ、それは何も起きていない事と変わらない。

 せめて騎士達がこの街から去るまでの間だけでも、この死体を見つからないようにしなければとファウストは今までの経験から殺しの証拠を無くす手段をいくつか思い浮かんだが、一番の問題でもある死体の処理に頭を悩ませた。

 誰かに頼る事も出来ないこんな状況で、白昼堂々男の死体を運ぶなんて出来るわけもなく、かと言ってこの狭い家に死体を隠すのも難しい。

 ファウストは再び戸の隙間から顔を覗かせ、騎士達の指揮をとっている男の顔を確認した。

「やっぱりあの男か…………」

 顔の半分が隠れる長さまで伸びた手入れされていない黒い髭と、額から左眼まで一直線に伸びる痛々しい傷跡。

 見た目に特徴のあるこの男の事を、ファウストはこの街の誰よりも知っていた。

「ヒース・バーヴァン騎士長………」

 リュドミラを守る事が出来さえすれば、あとはもうどうなったっていい。

 ファウストは床の板の一部を強引に剥がし、床下から大きな木箱を取り出した。

「兄さん、何を…………」

 その木箱はリュドミラも初めて見る物で、ファウストの行動に戸惑いを隠せずにいる。

 ファウストは無言で戸棚の奥から大きな鞄を取り出し、木箱の中に隠していた大量の札束と宝石がついた装飾品の数々を、鞄の中に全てしまいこむ。

「いいか、リュドミラ。夜になったらライの家に行け。事情を話してこの鞄の中の物を全部アイツに渡せ。それでも足りないって言うなら今から渡す紙をライに見せろ。そこに俺が今まで貯め続けた全財産がある」

「に、兄さん…………?」

「…………俺が帰ってくるまで、ライに護ってもらえ」

「な、なんでっ! 兄さんは、兄さんはどこに行くの?」

「……俺は、また王都に行ってくる」

「わ、私があの男の人を刺したから? 兄さんが王都に行くなら、私も一緒に行く!」

 ファウストが王都へ何をしに行くのか察しがついたリュドミラは、涙を流し一人にしないでと言いファウストに縋る。

「…………リュドミラ、俺は大丈夫だから」

 リュドミラの涙に弱いファウストは、言葉を詰まらせる。

 もう他にどうする事も出来ない。

 理不尽な暴力に苦しむ声と品の無い笑い声が混ざりあい、外の様子が騒がしくなり始めている。

 反応の鈍くなった玩具に飽きれば、すぐに新しい玩具を見つけようとする騎士達に捕まるのは、もはや時間の問題だった。

 この状況を知られればきっと、しばらくの間は飽きない玩具として扱われるのだろう。

 ファウストは自分の命よりも大事に大切に思っているリュドミラを、そんな事に巻き込む訳にはいかなかった。

 ドンドンドンッ――――。

 戸を叩く音が、ファウストとリュドミラを突き刺す。

「王都騎士隊長ヒース・バーヴァンだ。今すぐこの扉を開け」

「…………っ」

 ヒースの呼びかけに素直に応じようとするファウストを止めようと、リュドミラは扉の前で手を大きく広げ立ち塞がる。

「お願い、兄さん……」

 扉を隔てても伝わるヒースの圧力にガタガタと震えながらも、リュドミラは真っ直ぐファウストを見つめる。

「私を一人にしないで」

「…………………………ごめん」

 ファウストは長く続く沈黙の後ただ一言呟き、リュドミラを自分の後ろに隠し扉に手をかけた。

「はるばるこんなクソみたいな街までご苦労だな。ヒース騎士長」

「……お前は」

 ヒースはファウストとの再会に驚くも、小馬鹿にするように鼻で笑う。

「その強気な態度は相変わらずか。だがこの状況で、よくそんな言葉を吐けるな」

 ヒースが引き連れていた他の騎士達が、ファウストとリュドミラを囲むように続々と集まりだす。

「ここはお前の家か?」

「…………あぁ」

「臭うな。……血の臭いだ」

 ヒースは異変を感じ取り、近くにいる騎士に家の中の様子を見てくるよう指示を出す。

 ヒースから指示を受けていた騎士は、家の中から男の死体を引き摺りながら戻り、いい逃れ出来ないようファウスト達の足元に死体を放り投げた。

「二箇所の刺傷による失血死と確認しました。近くには、凶器と思われるナイフもありました」

 騎士からベッタリと血の着いたナイフを受け取ったヒースは、眉間に皺を寄せながらまじまじと見つめる。

「これは、ヒルズバート家の紋様……。そうか。お前が――」

 ヒースはやれやれという表情で鞘から剣を引き抜き、ファウストの首筋に剣先を這わす。

 それを合図に緊張感が走り、騎士達も一斉に剣を抜き剣先をファウストへ向けた。

「…………殺したのは、お前だな? ファウスト・ライウス」

「あぁ。そうだ」

 ファウストは視線を逸らす事なく、真っ直ぐにヒースを捉える。

「随分とあっさり認めるな……。この男を拘束しろ」

 ファウストは身動きが出来なくなるよう身体を鎖で拘束され、更に反抗の意思を無くすよう数人の騎士から殴る蹴るの暴行を受けた。

 抵抗も受身も取れない状態のファウストは、数々の暴力に意識が遠のきかけ地面に倒れ込む。

 そんなファウストを横目にヒースは葉巻に火をつけ、ポツリと独り言のように呟いた。

「これ以上、コイツに傷をつけるのはやめておけ。こんな手癖の悪い糞ガキだが、あの方のお気に入りだ」

 ファウストを痛めつけていた騎士達はヒースの言葉に肩をビクリと震わせ、そそくさとファウストから距離をとる。

「ゴホッゴホッ――。気持ち悪いこと、言うんじゃねぇよ」

 ファウストは殴られ続けた衝撃で口の中に溜まった血を、ヒースに向かって吐き出す。

「盗みでは飽き足らず、殺しにまで手を出すとはな…………」

 ヒースは別の騎士に拘束されているリュドミラのもとに向かうと、腰に忍ばせていた短剣をリュドミラの喉元にあてる。

「そろそろ思い出した方が良いんじゃないか? お前が話している相手がどんな立場の人間か」

「リュドミラッ!」

「にっ、兄さん…………」

 剣の先がリュドミラの首の皮膚を掠め、首筋を沿って血が流れる。

「リュドミラにこれ以上傷をつけたらお前を殺す!」

 その言葉の通り、今にでも飛びかかり首の肉を喰いちぎりそうな勢いのある凄まじいファウストの剣幕に周りに居た騎士達はたじろぐが、ヒースだけは呆れたように溜息をつく。

「そう喚くなよ。お前とお揃いの傷を妹にもつけてやってもいいんだぞ?」

 ヒースは、リュドミラの首筋に当てていた剣先を彼女の体の縁を擦りながら滑らせ、脇腹付近に近づくとそこを刃で啄き始めた。

 他人に命を握られる恐怖に顔を歪ませ、瞳に涙を浮かばせるリュドミラを横目に、ヒースはとある提案をファウストに持ちかける。

「ファウスト、お前に残された選択は二つだ。妹とここで俺に殺されるか、お前が大人しく連行されるか。ま、お前にとって選択肢なんて無いに等しいと思うがな」

 ファウストが選ぶ答えなど、初めから分かりきっていたリュドミラはこの状況をなんとか打破しようと、怯えながらも口を開く。

「待ってください! 兄は、人殺しなんてしていません! わ、私が殺しました!」

「へぇ…………アンタが殺したのか?」

 ヒースはリュドミラの自白に、ニヤリと口角を上げ再びナイフの剣先を首元に押し当てる。

「リュドミラ! 余計な事を言うな!」

「私だって兄さんを守りたいの……」

「泣かせるなぁ、美しい兄妹愛に。じゃ、別れの挨拶はもういいな」

 ヒースがナイフを振り上げ、リュドミラの命を狩り取ろうとしたその時、ファウストの悲痛な叫び声が谺した。

「やめてくれっ!!」

 ナイフは既の所で止まり、もう死ぬんだと思っていたリュドミラは大きく息を吹き返す。

「頼む…………。お願い、します。リュドミラだけは傷つけないでくれ。アンタ達の願いを、俺が死ぬまで叶え続けるから、リュドミラを見逃してくれっ」

 ヒースはファウストの願いにピクリと反応する。

 ファウストには、もうこうする事しか出来なかった。

 上手く交渉すれば、あわよくばなんてファウストは考えていたが、実際に目の前でリュドミラの命が危機に晒されると、冷静では居られなかった。

「リュドミラは、俺の全てなんだ…………」

「交渉成立。だな」

 ファウストからの思わぬ提案に上機嫌になるヒースは、丁重に扱うよう他の騎士達へリュドミラを引渡きし、ファウストを王都へ連行する手配を始めた。

「大事な妹と過ごす最後の日になるんだ。後悔しないようにな」

 ヒースはファウストの拘束を緩めリュドミラの元へ向かう許可を出すと、ファウストは一目散にリュドミラへと駆け寄った。

「怪我は大丈夫か? 痛くはないか?」

 ファウストは着ている服の一部を裂き、リュドミラの首筋に出来た傷を押さえる。

「傷は大丈夫だけど。兄さん、どうしてあんな事を!」

「…………こうする事が最善策だと思ったからだ。俺は、リュドミラが生きていてくれされすれば、あとはどうだっていいんだ」

 リュドミラが人並みの幸せを過ごす事が出来るなら、ファウストにとってヒースと交わした条件なんて屁でもなかった。

 ファウストは宝物にでも触れるかのような、優しい手つきでリュドミラの頬を撫でる。

「でも、私は兄さんがいないと……一人でなんて、生きていけない」

 ボロボロと大粒の涙を流すリュドミラを、ファウストは力の限り強く抱きしめる。

「大丈夫だ。お前は強い、それに一生会えないって訳じゃないんだ。また、直ぐに会える」

 ファウストはそれだけ言うと、惜しみながらもリュドミラから少しずつ距離を取り、背を向けヒースの元へと向かう。

「に、兄さん? 待って、行かないでっ!」

 リュドミラの悲痛な願いが響く。

 叶えてあげる事の出来ない願いに、ファウストは唇を固く噛み締め、血が浮き出るほど強く拳を握り、リュドミラと一緒に逃げ出したい衝動を抑える。

 足を止めてしまえば最後だと、ファウストは分かっていた。

 本当は、今すぐにでもリュドミラと一緒に逃げ出したかった。

 父が死に、母も死に、ファウストとリュドミラは二人で一人のように互いを支え合いながら、厳しい日々を生き抜いてきた。

 何が起きたとしても、ずっと一緒にいる存在。

 何を犠牲にしたとしても、護らなければならない存在。

 自分の命よりも大切だと思う存在。

 だからこそ、今はリュドミラから離れなければならない。

「随分と早かったな」

 葉巻を吸いながら時間を潰していたヒースは、ファウストの姿を見るなり目を丸くした。

「…………本当に、妹を見逃してくれるんだよな」

「俺が、お前との約束を破った事はあるか?」

 ヒースは葉巻の火を消し潰し、不敵な笑みを浮かべる。

「もし、妹に何かあったらアンタ達を殺して俺も死ぬ」

「怖い怖い。あの方にもそう伝えておくよ」

 手枷と足枷を嵌められたファウストは用意された荷馬車に乗り込むと、一人リュドミラが泣き叫ぶ姿が視界の端に映った。

「…………必ず、また会える」

 茹だるような暑い日、ファウストとリュドミラは今初めて、異なる道を進み始めた。

 それぞれの道の先に呪われた運命が待ち受けている事を知るのは、少し先の話。

 ファウストはこの日の事をこの先一生悔やみ、そして恨み続ける事となる。

 

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