伝令

@misaki21

第1話 伝令

 その夜の月は、精巧なコンパスで描かれたようなそれは見事な満月で、思わず足を止め見惚れてしまった。

 痣(あざ)のようにも見えるクレーターは、兎だと言われれば確かにそう見えなくも無い。子供じみてはいるが、想像力をかきたてる、それほど悪くはない表現である。


 休日の夜に近所の公園を目指して散歩するようになったのは、先月この街に越してきてからだ。

 あまり活動的ではない僕にしてみれば、それは随分と健康的な習慣である。

 例えば、「趣味は何ですか?」と聞かれ「散歩です」と返すなんてのは、悪くないんじゃあないかな。もっとも、そんな質問に出くわす場面など無いに等しい。


「今日こそは、返してもらうわよ」


 突然に浴びせられたその声に、僕の思考は散り散りになった。

 反射的に振り返ると、そこには見覚えの無い女性が夜闇を背に立っていた。切れ長の瞳の発する、不思議な輝きを放つ視線が僕の眉間あたりを容赦無く射抜いている。


「……失礼ですが?」


 当然僕はそう云った。

 その女性に見覚えは無く、それどころか知り合いの誰かに似てもいない。あちらに覚えが有るにしても、こんな夜更けに人に呼びかけるには先程のそれは全く持って相応しくない。


「毎度のこととはいえ、相変わらず往生際が悪いわね。でも、今回は是が非でも譲らないわ」


 同年代か、一つ二つ下に見える。服装は……。


「あの、どちら様……ですか?」


 まだまだ若いつもりだったのだが、彼女の容姿、服装は僕の感性の遥か彼方に位置しており、流行などとは無縁な自分が随分と年老いて思えてしまった。


 火を付けたら七色に輝くであろう合成繊維の光沢は、お世辞にもしとやかには見えず、体の線を強調する密着度は、艶めかしさを通り越して喜劇的だった。先刻僕の発した声の僅かな震えは、そういった様々な虚脱感を笑えるほど忠実に具現化していた。


「我々はね、そちらの言い分にはもう一切耳を貸さないことにしたの。最低限の礼儀として私は伝えに来ただけ。意見は無意味よ」


 薬でもやっているのだろうか。若しくは何かのパフォーマンスなのか?


「人違いじゃあないですか? 僕には何の事やらさっぱり……」


 驚いたことに、彼女は顎をしゃくって鼻を鳴らしただけだった。

 耳を貸さないにしたってそれはあんまりだ。兎に角、彼女はこちらの言い分とやらに耳を貸すつもりは無いらしい。


 からかわれているのでは、漸くその考えに辿り着いた。この状況にもっとも相応しい論理的帰結だ。ほんの少し頭を巡らし、僕はこれみよがしに溜め息を吐いた。


「分かったよ、君の主張は間違い無く聞いた。だから、好きにしたらいい」


 からかわれているのなら話しは簡単だ。そう、僕には無関係である。


「ええ、云われるまでもなくそうさせてもらうわ」


 そう言い残し彼女は踵を返した。高らかな足音を辺りに響かせ、合成繊維の塊は闇のもっと深い方へと沈んでいく。


「ところで――」


 立ち去る背中に向けられたそれは、僕の思考を飛び越して出たものだった。どうしても聞いておきたかった、いや、聞いておかねばならないとさえ思えたのだ。


「――返すって、何を?」


 闇と同化する直前で、彼女は大袈裟に夜空を仰ぎ、芝居掛かった仕種で頭上を指差した。薄い青みのある爪が外灯に照らされ、硝子細工のように美しく輝いた。


 彼女が指し示した辺りを見上げたが、そこには夜空が広がるだけで何も無い。当惑して視線を落とすと彼女は「あれは元々、我々のものよ」と呟いた。足音が再び響き、程なくその彼女は消え去った。


 僕は暫くその場に立ち尽くしせいぜい頭を巡らせたが、納得できるような説明はとうとう現れなかった。


 狐に化かされた、とは古風な言い回しだが、実際そう感じた。少しして再び夜空を見上げてみたが、やはりそこには何も無い。ただただ真っ黒な空が広がるだけであり、彼女の科白を借りるなら、返すようなものなど何も無かった。……何も、無い。無い?


「あれ? ……無い?」


 雲の欠片もない晴れ渡った夜空は、がらんどうで、あの、見事な円弧を描く満月が、奇麗さっぱり無くなっていた。


 ――我らが地球の唯一の衛星である「月」、その形成過程には現在幾つかの仮説がある。

 原始地球の一部であるとする「親子説」や、地球と同時に誕生したとする「兄弟説」、巨大天体の衝突破片であるとする「衝突説」。


 そして、どこか別の場所で形成された天体が、漂ううちに地球重力に捕らえられ、そのまま衛星化したという「捕獲説」など。


 ――おわり

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