私と鉄子

十戸

私と鉄子

 椅子の上で、私は「んんん」と間の抜けた声を出して伸びをする。

「なんかお腹空いたね」

 大きな寸動鍋を火にかけながら、鉄子が笑った。

「お鍋なんか使うから余計にね」

「糊もおいしそうな匂いがするし」

「そうそう、さすがでんぷんだよね」

 六台ほど並んだステンレス製のシンクのうち三台に栓をして、じゃぶじゃぶと水を溜めていく。半分ほど溜まったところで、マジックで大きく①、②、と書かれたポリエステル製のボトルの中身を目分量で足した。ソースでもかけるみたいに。この薬のおかげで、染めた布に色が定着してくれるようになる。まあ、当然ちゃんとやるなら量をはかる必要があるわけだけど、これくらいの適当さは許容範囲だ。洗うための水も必要だから、三番目のシンクには何も入れない。

 蒸し器のスイッチを入れて振り返ると、鉄子が先ほどまで鍋で煮ていた布を取り出して、染め台の上に箸で広げていくところだった。大きく、平らに広げられているのは見たところ麻だ。

 網棚から、一抱えもある板を取り出す。板、というか――スクリーン。アルミフレームの真ん中に、半透明のゴワゴワした布を挟んだもの。スクリーンには抽象的な模様が浮き上がっている。

「何作るんだっけ?」

 ひとつひとつ、指でつまんで丁寧にしわを伸ばしながら、鉄子が訊ねる。私たちの手はどれも水と熱と薬品に傷んでがさがさだ。

「Aラインのワンピース。を、二十着」

「うわ~、ばかだねえ」

「あんたも人のこと言えないでしょ。天蓋作ろうとしてるくせに」

 鉄子がせっせと広げている麻布は、ゆうに三メートル以上はある。というか、染め台の端から端までぴったり埋めているところを見るに、四メートル以上あるのかも知れない。

 私は染め台にスクリーンを立てかけながら、鉄子に声をかけた。台の上に触れてみる。ぼちぼちあったかい。けっこう前にスイッチを入れておいたんだな、と思う。さすがは鉄子。

「どこに置けばいい?」

 取り出してきたスクリーンは、私のではなく鉄子の作品だった。

「これ見ながらやってくれると助かる」

 鉄子があらゆる色が飛び散って、まだらに汚れたエプロンのポケットから、よれよれになったクリーム色の紙を引っ張り出す。そこには、ボールペンで描かれたいかにも鉄子らしい図案が踊っている。鉄子は植物をモチーフにしたデザインがうまい。

「はいよ」

 空いている染め台の上に、文鎮でとめる。それを見ながら、まずはスクリーンを置く場所に印をつけていった。布はもうすっかり乾いて、青花ペンを使っても大丈夫そうだった。青花ペンはツユクサの花を絞ったものをインクにしていて、水や熱で消えてしまう。もちろん、使い勝手のいい手芸用のペンはほかにもたくさんあるものの、私は青花ペンを使うのが好きだった。何より色がいい。

 印をつけ終わったら、鉄子と二人がかりで冷蔵庫を漁る。なかには染料の詰まったタッパーがぎゅぎゅうに押しこまれている。蓋にはマジックで数字を描いたマスキングテープが貼ってある。

「いるの何番?」

「はの1と3と8」

「あんた、いろはにほへとで管理してるの?」

 みっつとも緑系の色をしていた。オリーブグリーンぽいのと、エメラルドグリーンぽいのと、ほとんど水色に見えるもの。とはいえ、じっさいに使うとけっこう違う感じの色になったりもする。使わない染料を冷蔵庫に戻す私の横で、鉄子は試し染めのための小さなハギレを出して、使い捨てスプーンの背で染料をすくって色を確認していた。

「よしよし。合ってる合ってる」

 本当は媒染したり洗ったり乾かしたりしないとわからないものの、まあ面倒くさいので、これくらいやっておけば大丈夫ということになっている。媒染剤やら定着剤やら、染めに必要なその他の薬品のあれこれと同じだ。

 青花ペンで描き入れた印に合わせて、スクリーンを布の上に置く。私がそれを押さえる横で、鉄子がタッパーのなかの染料をゴムベラですくい、ぺちゃぺちゃと鉄子にしかわからない塩梅で載せていく。あとはスキジーで力いっぱいぎゅうっと伸ばす。ふたりでそうっとスクリーンを持ち上げる。少しくすんだ灰色の麻布に、植物にも飛沫にも似た大きな模様が浮かび上がる――リズミカルにくり返す。染めるとなったら、なるべく淡々と同じことをくり返し続けるとうまくいく。

「う~ん、いい感じですね」

「鉄子さんこれっていったん洗う?」

「いや、このままやっちゃう。じゃないと終わらん気がする」

 私が描きこんだ印は五つ。ぜんぶ染め終わるころには、はやくもひとつ目の模様は乾きつつあった。蒸し器の蓋を開けて、ちゃんと温度が上がって蒸気が出ているか確認する。

 ふと鉄子が言う。

「しかしこれ、どうやって蒸そうね」

「えっ、鉄子ちゃん考えてなかったの?」

「そういえば……」

「これふたりじゃ無理だと思うよ」

「食堂で誰か探すか、人手を」

「そうね~、お腹も空いたことですし……」

 言いながら、いったん蒸し器と染め台のスイッチをオフにする。

 それからふたりで念入りに手を洗い、エプロンを脱いで、生贄を求めて食堂に出かけた。

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私と鉄子 十戸 @dixporte

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