2章 より良い世界を目指して

かごから飛び出して

 先生に届けた書類は無事に受け入れられた。正式に修理部門に配属され、先輩の下につくこととなった。ゴールデンウイークを過ぎ去った頃には、更に3度の実地研修をこなす。5回目の仮想世界に訪れる日、僕は少しは慣れた職員準備室へノックする。先生ではない気の抜けた声が返ってきた。


「かごから跳びだせないノミはいないんだよ!」

「先輩、またなんか小冊子でも見つけてきたんですか」


 入室して早々に腕を組んだ先輩が、どこかでかじったのであろう知識を話ってくる。いつものように理由は分からない。話を打ち切るわけにもいかないので、大人しく聞いておく。

 先生が懸念していた通り、数週間で先輩の想定外な様子は散々みてきた。河川敷を再現した仮想世界で野草ハンドブックなるものを取り出して、真っ先に毒セリを抜こうとしたこと。エクストリームスポーツに関する書籍を取り出してパルクールに挑戦し、2階から飛び降りて向こうの道まで転がりすぎたこと。意気揚々と動物用の罠に突撃して中から解錠するのに解錠に苦労していたこと。

 今日の知識も自信があるようで、活気が良い声で応えてくれた。


「本来ノミは30センチ近く跳ぶことができるの。でも20センチ上にふたのあるかごに入れるとぶつかっちゃう。そうすると自然に20センチも跳ばないように調整し始めちゃって、たとえ蓋を取り除いたとしても勝手に自制しちゃうらしいんだよね」

 いわゆるノミの実験と呼ばれるものだろう。勝手に限界を定めるな、ぶつかることや失敗することを恐れずに挑戦していけ。たしか講演の来賓がそんなようなことを話していた。しかしうんちくを語っているのは常識から外れていると思われる先輩だ。このエピソードを通してどこに結び付けていきたいのか、先輩の意向が気になった。


 驚かずに展開を促す僕が意外だったのか、不安げな表情で小さく黙ってしまう。

「……ごめん。今日の意見はいたって平凡な何事にも当たっていけってものなんだ。今日は簡単な老朽化の修復依頼以外の新しいスタンスに挑戦してもらおうかなって思ってるの。白石君にとってはこっちの方が役に立つかもしれないから」

 答えを告げるより前に、奥の部屋に案内された。


 物置のように設備が突っ込まれた奥の部屋にはミーティングを行うためのものも入っているらしい。棚の奥から大型のタブレットを取り出して、特性のペンを使って図面を描いていく。

 丸・四角。矢印の幾何学模様は、まるで定規やコンパスを使ったかのように正確だった。二等辺三角形の頂点に、依頼人、管理部門、修理部門の名札を置いていく。とんとんとタブレットの端っこを叩いて、説明を始めた。

「白石君に協力してもらった今までの業務は、衰えたものを修理するだけだったよね。このタイプの依頼は依頼人が管理部門、私たちの場合は茜ちゃんね、に直接相談して契約しているの。修理部門のお仕事は管理部門が割り振った仕事を遂行すること。そのために仮想世界に立ち入る許可は事前にもらってくれている。言ってしまえば安全性が高いと言えるの」

 今まで書いたものを保存してパターンAと名付ける。画像として右端にどけて、三つの関係の間に新しいものを入れた。巡回AI(artificial intelligence=人工知能)と注釈付きに書いて、関係性の矢印が複雑になっていく。


「仮想世界って個人の世界のように思われることもあるけど、ネットワークとしては共用空間の周辺に点在しているんだ。だからバグが持ち込まれることによって伝染した事例が過去に起きたの。対策として導入されたのが巡回AI。患者を通さずに管理部門に依頼されることもあるんだけど、このときどんな問題が発生すると思うかな?」

 指を3本立てて悪戯めいた表情で聞いてくる。数度の経験しかない僕には、悩んだふりをしてみても端くれさえ思いつかない。

「全く分かりません」

 全て読まれていたかのように先輩はほほ笑んでいだ。いつの間にか身に付けていた黒色の伊達眼鏡を上げて、問題点を1つずつ教えてくれる。先輩の感情が冷めていく気配がした。


「1点目にいつ入室許可がもらえるか分かりません。入ろうとしたタイミングで本人の近くにポップアップは出るんだけど、衝動的に否定されたり、忙しかったり、寝ていたりでタイミングがつかめません。予約が取れればまだましで、場合によっては仮想世界に入る前に残業時間が始まります。最悪なのが既読無視をされた場合です。裁判所に操作許可の令状を発行してもらって、確認をしに行くことになります。十中八九依頼主と揉めるから、本当にやりたくありません」

 教えるときは見た目からというのだろうか、膝ほどまであるぶかぶかの白衣が先輩の動きに合わせて揺れる。

 依頼人と修理部門を繋ぐ矢印に大きな?を描く。外から裁判所のイラストを取り出して貼りつける。令状を持ったデフォルメのキャラクターの目が死んでいた。?の上に赤色で大きな×印を書く。言葉に合わせてアニメーションを積極的に動かしていく。

 アニメーションに反比例するように、先輩の声の抑揚が徐々に落ちていっている気がした。


「2つ目は安全性の低さです。バグの大きな原因の一つに精神状態が挙げられます。やけくそになっている人は過激なパッチを平然とした顔で加える傾向にあり、鬱々とした人はあからさまな問題点を後回しにしがちです。下手に刺激すると惨事になりかねないので、事前に精神状態別の簡単な方針を先達から指導することとなっています。彩葉先生が担当した限りのデータだけど、わくわくしない世界の依頼はたいてい巡回AIから送られてきました」


 どんな世界でも自分から入っていきそうな先輩にも限度はあったらしい。最初に行った仮想世界でも先輩は危険性を驚かしてきた。実際に見てきた景色が安全で和やかなものだった分、薄れていた緊張感が浮かんでくる。

 伸ばした指をまた1本減らす。目のハイライトまで薄れたような先輩が、残った人差し指を曲げて口にした。


「3つ目、最大の問題は再発の危険性を伴うことです。ただ得物で叩いて表層的な原因を直しても、根本的に病んでいると近いうちにもう一度依頼が来かねません。解決のために患者の話を聞いて願いを叶える手段を模索したり、別の方向に舵を切らせたりします。……なお心身状態が手遅れだと判断したケースだと管理部門より上を通して仮想世界を共用空間から隔離する決断が必要です。これを1、2回程度で調査しきらなければなりません」


 足手まといの初心者を連れていける余裕がない。そういう風に聞こえて過去の仕事を振り返ってみる。先輩の後ろを歩いて街並みを観光して、修理する現場を見学していた。バグの脅威に立ち向かうこともなく、ファンタジーな危険性もない。何だったら突っ立っているだけで問題はなかった。


「そんな危険な現場に僕を連れて行って大丈夫なんですか。先輩一人で向かった方が仮想世界の主にとって都合が良いと思われます」

「白石君なら大丈夫だよ。それでも不安なら私が花丸の許可をあげちゃおう」

 足を引っ張ってしまう。高いハードルを飛び越えさせようとする先輩へ、僕は待ったをかける。けれど白衣から袖を脱いだ先輩の右手が、虚空に花丸を描いた。

 先輩の声に抑揚と明るさが帰ってきている。口調もいつものように砕けて、心に光を当ててきた。


「今まで一度の修理に貢献していないじゃないですか」

 それでも僕は言わなければならない。他人に迷惑をかけてはならない、授業での教えが根本にあった。僕の弱音をほぐすように先輩に手を握られる。暖かく血の通った熱が伝わってきた。

「毒草を教えてくれたし怪我も処置してくれた。動物の罠の仕組みなんてものも知っていたし、あれだけ退屈にすることを心掛けた講義も最後まで聞いてくれたんだから。もっと自信を持っていいんだよ」


 慌てて手を離した先輩の表情を見て、少しだけ自信が湧いてくる。関係のある貴重な一人に信頼されている。しっかり守っていかないと友達候補に出会う前に孤独で倒れてしまうかもしれない。

 信頼を折ってしまう前に挑戦してみようと心に定める。

「分かりました。不勉強なところもありますが精一杯役目を努めてみせます」

「もうちょっと柔らかくてもいいのに」

 虫さんからの本で覚えた僕の言葉へ、先輩の息が漏れ出した。タブレットの電源を落として元の場所に片づける。1つ伸びをしてから真剣な表情でパソコンを操作し始めた。

 先輩の雄姿を見届けてポッドのスイッチを押す。最近失敗することがなくなった。すっかり慣れた手つきでポッドの中に入っていった。


「色々起こるとは思うけど、気張らずにいこっか」

 先輩の入ったポッドから連絡が入る。準備出来ました、とチャットでメッセージを送り返す。スタンプを合図に起動処理に入る。


 僕は仮想世界の可能性を甘く見積もっていたのかもしれない。

 視界が変わる間際のノイズがいつもより大きく感じられた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る