世界は広がった【章エピローグ】

 初めての仮想世界から数日経って、ようやく提出書類ができあがった。成果物と頼んでいたものの領収書を持って先生の元へ向かう。相変わらず塗装が剥がれた職員準備室の看板を見て、叩いても治らないんだろうな、と数日前だったら絶対に思わない意見がよぎった。


「蓮君だよね。空いているから入って来ていいよ」


 ノックをすると今度はすぐに返事がきた。

 机の上のプリントが心なしか増えている。目の隈が相対的に増している先生に案内されて席に着く。机の上に求められた書類を並べると目を通し始めた。


「雇用契約書に代理の大人からの承諾書。振込先の口座と労災保険の登録。書類上は問題なく受理したよ。……でも本当に修理部門で良かった? あの日見た限り彩葉さんに嫌な印象を抱いたわけではなさそうだけど、今なら簡単に他部署に異動できるよ」


 親身になって今一度確認をしてくれる。数日間考え詰めて答えは既に決めていた。


「修理部門を第一希望にさせてください」


 最初は突然現れた先輩に連れ出されたことに驚いた。テンションの高さと突拍子の無さに付いていけるかと聞かれると強く肯定できない。学校での生活は書類を作っている数日間で、全く好転しなかった。

 しかし荒療治だったから即日で行動ができた。仮想世界への印象は随分良くなった。学校での生活は全く変わっていないけれど、夢に近づけていると確信が持てる。

何よりもこの道は1つの正解になり得ると、先輩の笑顔を見て思えたのが大きかった。


「蓮君の覚悟を受け取った。改めてようこそ。管理人として、学校のOGとして白石蓮を歓迎するね」

 僕の即答を聞いて先生はファイルをとじる。ほほ笑んで右手を差し出してきたので応じた。


 商品を領収書と交換して校庭に向かう。南中の太陽の近くを鳥の群れが通り過ぎる。周りは流れていく雲の音が聞こえそうなくらい静かな空間と化していた。成長途中の雑草を踏みつけて草の上に腰を下ろす。袋から頼んでおいた弁当箱を取り出そうとしたとき、草木の陰から犬がすり寄ってきた。普段と態度が違っていてさすがの嗅覚だと笑えてくる。箱を犬の反対側に動かすと、とてとてと回り込む。

 埒が明かないので蓋を開ける。牛、豚、鶏、煮込み肉の盛り合わせが姿をみせた。家から持ってきた箸で肉の塊を掴む。つかむことで肉汁がこぼれて、どれだけの味が詰まっているのかと食欲をそそられた。牛はとろとろと溶けて、豚はじわっとあふれて、鶏はしっとりと流れる。1つずつ比べて分かるありがたさ。久しぶりのお肉を堪能していた。


 犬が足を叩いてくる。うっとおしく感じて犬の前にラップを敷いた。待ての姿勢で待機する奴の前に牛肉の塊を置く。箸を離した瞬間にくわえて、ハフハフ言いながらあっという間に食べてしまった。肉汁で濡れたラップをぺちぺちと叩く。豚肉を落とす。完食。と肉を投げる。一口。ぺちぺち、欲求は止まらない。このままでは全部を要求されかねなかった。

 大人しく教室で食べよう。弁当箱を片付けようと蓋を袋から取り出していると、一つの影が目の前を通り過ぎる。犬が器用に箱の端を咥えていた。慌てて立ち上がって犬を追いかける。逃走の最中、犬は肉の塊1つ落とすことなく器用に駆け抜けやがった。林の奥に行ってしまってこれ以上追いかけられない。息を切らせて元の場所に戻ってきた。本当にすべてを持っていかれてしまった。両方の足跡でしわができたラップを回収していく。一つだけ煮卵が転がっていた。お前の分だとでも言いたいのだろうか。むしゃくしゃして素手で口に放り込む。

 出汁が効いていて美味しい。でも独りは寂しくて、塩が効いた液体も口に入った。



 自腹で頼んだ最初のおかずは、少し塩辛かった。

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