始まりのシリーズ

 昼休みは長い。食事を飲んでも全然終わらない。力学問題を見てて遊園地に行きたくなってきた。新入部員に指導するのが難しい。微分積分って大人になっても使うのか。近藤さんって仲村君が好きそう。どうでもいい話題が増えていく。


 次第に居心地が悪くなって、教室から逃げるように飛び出した。走っても誰にも咎められない。登校している人はほとんどいない。無駄に付けられたスピーカーによって音も届いていないだろう。


何世代か前の人が卒業記念に植えた大樹が何本か並ぶ。校庭の芝生は近所の物好きによって整備されていた。色とりどりに咲いている花を潰さないよう、ゆっくりと歩く。


わん。今日初めて声をかけられた。校庭の一際大きな木の陰、いつものように犬がいる。犬は右前足でぺちぺちと草を叩く。食べ物をくれ、僕たちにだけ通じる挨拶だ。


「今日もこいつだけだけど」


僕は袋を地面に置き、焼き芋を取り出した。ほくほく系のサツマイモオーブンで焼いたもので、可もなく不可もない仕上がりである。常温で冷やしておいたから犬でも安心して食えるだろう。以前あつあつを差し出したとき、前足で叩かれたことは当分忘れてやらない。


貴重な甘味を半分差したが反応はない。8日連続だからといって飽きたのだろうか。少しむかついたので更に半分にちぎる。別のおやつは出ないと察したのだろうか、真ん中側の4分の1だけを器用に転がして、3メートルほど移動させる。わふ。今日の判定は普通のようだった。


「一度でいいから友達と弁当を食べてみたい」


寂しい思いから零れた気持ちに返してくれる言葉はない。犬はひたすらほおばっていた。



 願いの始まりはコートを取り出そうかと考える11月だった。風に揺られた枯葉が校庭に積もっている。僕は廊下の窓辺から職人の落ち葉拾いを眺めていた。そのときベンチに置きっぱなしの本を見つけたのは偶然だった。帰り際になっても残っていたから、メモ書きを残して手に取る。退廃的な学校の雰囲気に合わない、青年向けの文庫本だった。刊行が数十年前なのに、本の紙に黄ばみはほとんどみられない。


 図書館に片づけに行ったのは気まぐれだった。学生がほとんどいない学校に教員は現実にいなくてもいい。司書もいない図書室には入口に返却ボックスが備え付けられていた。

 なんとなく暇だったから。僕は文庫本を開いて読み始める。


 平凡な高校生の主人公が学校でも有名な美少女と校外でたまたま遭遇する。取り留めのない会話を続けていくうちに部活動に入っているかと聞かれる。まだ決めていないと伝えると部室へと案内された。人数が足りないからという理由で加入して、合宿を通して関係が深まっていく。唐突にやってきたストーカーの元彼。嫌がるヒロインを守るために主人公は勇気を振り絞る。一歩進んだ関係になるという結末だった。


「中々お目の高い作品に目を付けましたね、お客さん。それは2010年代に大量に出版された中でも特に装飾に気を遣った作品と評判だったんですが、2巻以降は勘違い要素を前面に押し出していくんです。勘違いと言葉の綾によってヒロインと恋人関係になってしまうんですが、異性の親友や親友の彼女と仲良くなっていって交差しまくった複雑な五角関係を作っていってですね。5巻から流れを変えるために投入された新キャラがまたいい味を出してかき混ぜてくれるんです。同輩たちには親友の彼女に乗り換えたんじゃないかって噂が広がって、ヒロインも諦めたかのように会いに来てくれる頻度が下がっていってしまいます。最初は無理矢理勧誘された間柄で嫌々だったのですが、数巻の交流を通してヒロインに惹かれていっているんです。どうやって勘違いを直そうか、親友と協力してクリスマス会を計画していくのですが............勘違い模様の連鎖がもう本当に最高なんですよ!」


 中々読まない文体と漢字に悩んでいると、一部が髪の毛に隠れた瞳が横に映った。胸ほどの長さの黒髪を枝毛ごとゴムでまとめている、少女の中では少し身長が高く、黒ずんだ視線が本に注がれている。彼女への第一印象は本に憑かれた虫だった。

 毛先が揺れ動くのを気にせずに何から何まで説明しようとしてくる。ときおり本文よりも説明が豊かで、どこが伏線になっているか諸々を語ってくれた。おかげで理解は早かった。けれど不慣れで最後まで読み切ることはできなかった。

 日は暮れて形式上の下校時間が迫っていた。僕は生まれて初めて本を借りることを選ぶ。面倒くさい会員登録の手続きは喉が枯れてしまった虫さんが行ってくれた。

「少々盛り上がり過ぎました。どうしても話過ぎてしまってよく事務員の方を置いてけぼりにしてしまうのです。改めて聞いてくださってありがとうございます。次の機会のために続巻を揃えておきますね」

「こちらこそ暇が潰せました。機会があれば楽しみにしておきます」

「私は大体ここで本の整理をしてるんです。貴方がまた図書室に来ることを待っています」

 手に持った本の温もりが、人と話す貴重な温かみを伝えてくれた。


 心残りがあるとすれば、名前を聞いておくべきだった。半年も経っているのに、僕は未だに虫さんとしか呼べていない。


数日をかけて、最初に借りた3巻までを読み終えた。虫さんが薦めるようにどんどん読みたくなる作品だった。勘違いで恋人関係になっているのに全く進まない2人と、変な角度に進展するそのほかの関係性。感想を共有しようと図書室へ向かった。


 約束と違って虫さんは図書館にいない。季節外れの桜で縁取られた封筒が机に置かれている。白石君宛、と書かれていたため付箋の形のシールをはがす。差出人の欄は空白だったが、彼女のもので間違いなかった。薄緑の紙にデイジーが添えられた手紙は、今どき珍しい手書きだった。1週間の進展と行方が3枚にかけてびっしりとつづられている。情景描写たっぷりの文章を解読して、図書室に備え付けられていたメモにまとめていく。


 図書室の在庫を確認してみたら3巻までしか置いていなかったこと。近所の図書館にもおいていなくて、続巻を探すために知人の車を乗り継いだこと。ふと出会った本のつるつる具合が気持ち良かったこと。続巻が見つかった後も僕に向けた本を探していてくれていたこと。

 そして、本を愛する同士と運命の出会いをした。彼らと伝説の本を求めた冒険をするために一足早く学校を卒業することを選んだと書かれていた。

 勢いを乗せて書かれた文字が、虫さんの興奮を伝えてくれる。


『白石君も他人に誇れるような、いい関係性を築けることを願っています』


 手紙はそんな一文で締めくくられていた。虫さんから借りた小説に描かれたささいな日常の描写が、手紙の一言と結びつく。想像が広がっていって、分かっていなかった願いが掘り起こされた。

 屋上で友達と過ごすお昼時。同級生が追求しているような豪華な料理なんていらない。日常から少し外れた場所で会話を弾ませながら、一緒にご飯を食べる。時折これが美味しいだとかあれが苦手だとかで喧嘩して笑い合って。スピーカーを通した不快な会話じゃなくて、鳥や虫の羽音や風の音が後ろで響く。


「屋上で友達と弁当を食べたい」


 虫さんからの手紙を読み終えたとき、本音が零れた。友達なし、食べ物は基本配給された液体と庭で育てているサツマイモだけ。そもそも最近の1週間で話した同年代は虫さんしかいない。描いた光景は非現実的で叶う気配がしなかった。

 この願いは心の奥底にしまい込んでおかなければならない。虫さんから貰った手紙を丁寧に折り直し、シンプルな便箋を曲がらないようにファイルにしまった。


 思い出の文庫本と願いは別問題である。虫さんの厚意に感謝しつつ、何往復かかけて続巻を読んでいく。変に思いが爆発しないように、フィクションの中で満足できるように。

 本に一生を捧げているような虫さんのオススメなだけあって、最終巻まで読み切ることができた。もし自分が学校で友達が作れたら。自分の世界から新しい関係性に飛び出せたら。住んでいる世界の違いから主人公の素性に共感はできなかった。けれど憧れを抱いて満足することはできた。ノートに全てをまとめて、封印するかのように引き出しの奥に仕舞いこむ。


あれから半年、幸か不幸か想いが爆発する機会は訪れなかった。



 焼き芋を咥えて離れていった犬を見て、ふつふつと未練が湧き出てしまった。行くままに流れる雲を見つめていると、どうにかして成し遂げられないかと方法を考えてしまう。

 友達を作る。今週学校で話した相手は犬だけ。

 弁当を買う。財布にはレシートしか入っていない。

 弁当を作る。このままだと芋羊羹一色に染まりかねない。

 屋上に入る。自殺防止の観点などで生前から閉鎖されている。

 銀行から引き出す。暗証番号は世界の向こうの親に握られていた。

 共用空間で成し遂げる。それができたら今ごろ独りで空を見ていない。


 堂々巡りの思考から外れるために、図書館に向けて歩き出した。


 



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